6.ヒルダ ―盟約暦1006年、冬、第10週―
真冬のスパイク谷はとても静かで、ヒルダの部屋も暖炉の火が爆ぜる音しかしない。ヒルダは机に両足を投げ出して腕を組み、椅子の背もたれに寄りかかっていた。机の上には何枚かの書状が散らばっている。内容は何度も読み返したせいで、すっかり覚えてしまった。
ヒルダは王位継承の件と、オークの侵入があったのでファランティアに派兵できない、という旨を書状にしたためてブランに送っていた。これらの書状はその返事である。
上位王は王位継承ならびに派兵できない件について承認した。春になったらファランティア北部の都市ソルトレーンまで軍を移動させよ、という内容だ。
戦時において上位王は、軍事に関する絶対的な命令権を持っている。ヒルダ自身が父の代理としてその約定に調印したのだから、それは良く分かっていた。
だから、この指示を拒否することはできない。拒否すれば他の三地方を――そしてなにより、あのブランを――敵に回すことになる。
〝ブランには逆らうな。あれは天下を取るかもしれん男だ〟という父の言葉が思い出される。しかしスパイク谷の王としては、春の出兵を拒否したかった。
オークとの戦いがあった後でしばらくは力を蓄えておくべき時期だ。春の出兵は人も物も負担が大きすぎる。ブランはスパイク谷の弱体化を狙っているのでは、と勘繰ってしまうほどだ。
この件に関してマグナルの意見はこうであった。
〝今回、スパイク谷だけがファランティアに出兵しておりません。今後、その事が負い目にならぬように兵を出させる、という上位王の心遣いでしょう〟
ヒルダは自分が疑り深い嫌な奴になってしまったような気がした。ブランからの書状には、〝オークの侵入についてはスパイク谷だけの問題ではない。今後は北方連合王国でもって対処する〟ともある。
だからといって、これ以上の負担を民に、戦士たちに強いて良いものか――と、思考が堂々巡りしてしまうのであった。
「あーあ、分からんねぇ」
ヒルダはわざとらしく口に出して立ち上がった。部屋には彼女一人だ。テラスに続く扉を開けて外に出ると、真冬の冷気が顔を打つ。今はそれが心地良かった。
冬の間は北か北東寄りの風が吹く。北東寄りの風が吹いた時は南向きのテラスにも雪が積もった。風のない時はいわずもがな。午前中に雪かきをしてもらったので、今はうっすらと雪に覆われている。
手すりに積もった雪を払って、手を付き、ヒルダはスパイク谷を見渡した。
真冬のスパイク谷は白一色の世界だ。山も谷も真っ白で、川はその白を映している。滝は凍り付いて、巨大な氷柱と化す。色の付いたものと言えば、眼下の町を歩く毛皮の人々と、山に向かう道の途中に突き出た尖った木々の先端だけ――。
ふと、物音がした気がして、ヒルダは振り返ったが誰もいない。
テラスでこうしている所をマグナルに見られると〝足を滑らせて落ちでもしたらどうします!?〟と怒られるので、神経質になり過ぎたかもしれない。
視界の隅に丸テーブルと椅子が目に入り、ヒルダはランスベルを思い出した。
(ランスベル、アンタには偉そうに言ったが……アタシも迷ってばかりだ)
その時、頭上で何かが光ってヒルダは驚き、天を見上げた。強い光に目を細める。光は風を切ってスパイク谷の上空を南に向かって飛び、やがて分厚い雲の中に消えていった。ちょうど野外に出ていたエイクリムの住民からも見えたはずだ。
自分が目にしたものに驚いて、しばし呆然と空を見上げていたヒルダであったが、我に返って「ふふっ」と笑う。
(ほらな、ランスベル。また会えた。本当のところ、どうなるかなんて誰にも分からないんだよ)
ほんの一瞬であったが、ヒルダの目ははっきりとその姿を捉えていた。光のドラゴンにまたがり、笑顔で手を振るランスベルの姿を。それは、彼が使命を達成したことを物語っている。
ヒルダはそれが嬉しいのか悲しいのか、判然としないまま凍えるまで南の空を眺め続けた。
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