4.ドンドン ―盟約暦1006年、冬、第10週―

 ドンドンは怯えていた。


 完全に狂ってしまったアベルに。


 緑の液体の中で不気味に変容していくセドリックに。


 そして、母と慕うアリッサを削り取っていく自らの力に。


 セドリックはドンドンの力を〝素晴らしい才能〟とか〝神からの贈り物〟とか言ったが、ドンドンには呪いとしか思えなかった。


 ――物心付いた時、ドンドンは木の板で囲まれた部屋にいて、それが世界の全てだった。


 唯一の扉から、時々ゼットじいさんや他の誰かが現れる。彼らは外からやってくるのではなく、そこから出現して、そして消えていくのだと思っていた。出現するのが誰かは決まっていない。それが世界だと思っていた。


 ドンドンの世界は常にゆらゆらと揺れ、時々は激しく揺さぶられた。木の軋む音や、波が船体に当たって砕ける音も、それが何かはずっと分からないままだった。


 やがてアリッサが現れて、ドンドンに世界の真実を教えてくれるようになる。


 ドンドンのいた場所が、船という乗り物の中の物置部屋と呼ばれる場所だという事や、陸という揺れない場所がある事や、海に落ちれば溺れるという事などだ。


 他にもたくさん学んでいく中で、ドンドンは父親と母親というものを知ったが、そのどちらもドンドンにはないものだった。アリッサはドンドンの父親が同じ船にいると教えてくれたが、母親についてはいつも答えを濁した。


 成長して物事を理解するようになり、ドンドンは自らその答えを得る。生まれた時から周囲の物を失くしてばかりだったから、きっと母親も失くしてしまったのだろう、と。


 アリッサは時に厳しくドンドンに力の制御を学ばせた。ドンドンはアリッサを失くしたくはなかったので精一杯やった。その甲斐あってか、彼女はある時、船からドンドンを連れ出してファランティアという場所に連れて来てくれたのだった。


「もう頑張らなくてもいいのよ」と、アリッサは言った。


 それから続いた穏やかで楽しい生活は、恐ろしい出来事で幕を閉じる。突然の火事の中、初めて友達になってくれたジョゼを失くしてしまったのだ。その日を境に周囲は慌しくなり、世界は変化していったが、ドンドンにとって変わらない真実が一つだけある。


 この力が、大切なものを奪っていってしまうのだ、ということだ。


 アベルの放つ見えない力が向けられると、何故かドンドンにはそれが分かる。そして思わず身を縮めてしまうと力が勝手に全身を覆う。それが、ドンドンを抱きかかえているアリッサの身を削っていると分かっているにも関わらず。


「ごめんね、アリッサ、もう離して。ごめんね、ごめんね……」


『それはできない。私はあなたを守る』


 泣きながらドンドンは黒いアリッサに懇願した。黒いアリッサは表情を変えることなく、ただ同じ答えを繰り返す。


 この黒いアリッサが、ドンドンの知っている本物のアリッサではないと分かっている。だが、その無機質な声の奥に本物のアリッサを感じてもいた。


「アリッサ、僕、どうしたらいい!?」


『私があなたを守る』

 無機質に、黒いアリッサは答えを繰り返した。


「アリッサ、お願い、答えてよ……僕、今度はアリッサを失くしてしまうの……?」


『心配いらない。私があなたを守――』


 同じ答えを繰り返そうとして、黒いアリッサは言葉を止めた。唇がぴくぴくと痙攣している。


「アリッサ……?」


『ドンドン? そこにいるの?』

 その声は、本物のアリッサに間違いなかった。


 ぴしり、と黒いアリッサの胸元に亀裂が入り、光が漏れ出す。次の瞬間、黒い皮膚がパリンと砕けて生身の肌が露出した。胸元にはドラゴンの牙が半ば埋め込まれたようになっていて、それが今、燃えるように光を放っている。


 眩しさに目を細めるドンドンの前で、光は炎のように黒い皮膚をなめ、アリッサの胸元から首、顔、そして赤毛の先端まで駆け上がった。


 再びドンドンが目を開いた時、そこにあったのは本物のアリッサの微笑みだ。赤い髪がさらさらと頬を撫でる。


「アリッサ!」


 ドンドンは喜びの声を上げて、首に手を回し、ぎゅっと抱きしめた。


「これは……私、どうして……そうか、ドラゴンの牙だわ。最後の竜騎士がドラゴンと共に帰還した……いえ、これは奇跡なのね。長くは続かない」


 アリッサはドンドンの耳元で独り言のように話す。ドンドンには何を言っているのか分からなかったが、アリッサの声を聞くのが心地よくて、黙っていた。


「ドンドン、ねぇ、聞いてちょうだい。お願いがあるの」


「うん」


 ドンドンは顔を上げてアリッサの目を見る。彼女の瞳はキラキラと輝き、真剣そのものだ。


「ドンドン、持っている力を全部開放して。ここにある何もかもを消し去るのよ」


「えっ……で、でも、そんな事したらアリッサを失くしちゃう。それにたぶん僕も……」


 アリッサは微笑んで、ドンドンの頭を撫でた。


「この奇跡の時間が終われば、私はまた悪魔の中に閉じ込められてしまう。ドラゴンの牙が私の自我を守ってくれたけど、次の機会はおそらく無いわ。それに見て……あの子を、アベルを、このままにしておけない。あの子は苦しんで、助けてって叫んでいるの。下にある〈魂の炉ソウルフォージ〉も、ここに残していくわけにはいかない。悪魔の力で破壊できるけど、そんな事をしたら何が起こるか分からない。何十年も何百年も深刻な影響が残るかもしれないのよ。だからもう全部、消すしかない。それができるのはドンドンだけなの。あなたの力はきっとこの時のためにあったのよ」


「でも……お別れしたくないよ……」


 溢れる涙をそのままにドンドンは言った。アリッサは微笑み、ぎゅっとドンドンを抱きしめる。


「お別れじゃない。私は絶対に、あなたを離したりしない。今度こそ。最後の瞬間まで、ずっと一緒にいる」


 ドンドンは悩み、決意して、小さく頷いた。


「うん……いいよ。ずっと一緒だね……」


 ドンドンは目を閉じて集中した。

 生まれて初めて、自分の呪われた力を受け入れ、その全てを開放する。


 ドンドンの中から黒い球体が生まれ、彼自身を飲み込んで加速度的に大きくなっていった。それはアリッサを飲み込み、暴れ狂うアベルを飲み込み、セドリックごと〈魂の炉ソウルフォージ〉を飲み込んだ。


 サンクトール宮すらも飲み込み、ブレア王国の廃都までも覆い尽くした黒い球体は、出現した時と同様に音も無く急速に収縮して、消える。


 あとにはただ、巨大な半球状にえぐられた大地だけがあり、そこにあったものは何一つ残っていなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る