2.アンサーラ ―盟約暦1006年、冬、第10週―
誓約が果たされた時、自分に何が起こったのかアンサーラにも分からなかった。誰かに呼ばれたような気がして振り向き、そして驚く。鋭いトゲが先端に付いた黒い触手が四本、すぐ眼前に迫っていたからだ。
経験豊富なアンサーラの身体は驚きに硬直する事無く動いて、紙一重で触手をすり抜ける。その動作の間にアンサーラは二つの事に気付いていた。それが魔獣テンタクルパンサーの触手である事、そして狙いがアンサーラではなく背後にいる少女である事。
アンサーラは危険を承知で触手二本をまとめて掴み、もう一本を蹴り飛ばした。残りの一本が少女に迫ったが、アンサーラの出現で狙いを外したのか、少女の顔をぎりぎり逸れて背後の木に突き刺さった。少女の黒髪がハラリと数本落ちる。
ほっとする余裕もなく、アンサーラは引き戻される触手の動きに乗じてテンタクルパンサーの本体へと疾走した。
外見は黒に近い濃紺の美しい毛並みを持つ黒豹だが、その背から四本の触手を伸ばせる魔獣だ。触手には毒があって、人間なら触れるだけで麻痺してしまう。本体は樹上に潜み、眼下の敵を狙うことが多い。
今もやはり、テンタクルパンサーは樹上にいた。疾走しながら二本の剣を抜き、低い枝を足がかりにして樹上に飛び上がる。テンタクルパンサーは戻した触手でアンサーラを狙ったが、四本の触手が交差した場所にアンサーラはもういない。
揺れる枝の上でも全く姿勢を崩さずに疾走する彼女をテンタクルパンサーは捉えきれなかった。アンサーラはテンタクルパンサーの鼻先から背中まで切り裂きながら魔獣の上を飛び越え、そのままくるりと回転して地面に着地する。
続いて背後に、テンタクルパンサーがどすんと落ちてきた。頭はほぼ真っ二つなので即死だ。触手や手足をピクピクと痙攣させていたが、やがてそれも止まる。
アンサーラは立ち上がって周囲を見回した。鬱蒼とした深い森で、見慣れない植物に覆われ、暑く湿った空気に満ちている。彼女の知らない地域のようだ。
剣に付いた血を拭おうとしたが、血の一滴も付いていない。アンサーラの剣はあまりの速さに血が残らない事もあるが、今回はそうならなかったはずだった。思い返せば、触手を避けた時に髪が触れたような気もする。しかし、髪の毛は一本も切れていない。
テンタクルパンサーに襲われていた少女が震えながら立ち上がった。肌は小麦色で髪は黒く、瞳は茶色い。赤く斑模様に染めた貫頭衣を着ていて、足元に落ちている草を編んだ籠には茸類が入っている。
少女はアンサーラに何か言ったが、彼女でさえ知らない言葉だった。剣を納めて近づくと、少女は両手の平を合わせて頭を下げ、また同じ言葉を言う。
「ごめんなさい。あなたの言葉は分かりません」
アンサーラはそう言って少女の前に片膝を付く。少女は自身を指差して、同じ言葉を連呼している。
それが少女の名前だろうと判断して、アンサーラは同じように自分を指して「アンサーラ」と言うと少女は笑顔で頷いた。
ここがどこなのか聞き出さないと――アンサーラが口を開こうとした時、また声にならない悲鳴のようなものが聞こえて、彼女は振り向いた。
またもや景色が一変した。
青い空に強い日差し、波の音、木の軋む音と不安定な足場――船の上だ。
目の前には、少年を掴んだシーハーピーが舞い上がって上昇しようとしている。すぐ近くにいた男が驚いたように「えっ、あんた!?」と言った。テン・アイランズなどで使われる貿易語で、アンサーラも理解できる。
だがまずは、シーハーピーから少年を助けなくては――アンサーラは甲板で転がる樽を踏み台にして跳躍すると、マストを蹴ってさらに飛び上がり、空中のシーハーピーに襲い掛かった。右手の剣を一閃し、シーハーピーの鼻から上を切り飛ばす。
連れ去られようとしていた少年がシーハーピーの死体と共に落ちると同時に、着地して弓を構えた。
近くの船員が少年に駆け寄り、肩に食い込んだ爪を引き抜いて救出を始める。
アンサーラは上空で旋回するシーハーピーの群れを睨みつけると、自然な動作で矢筒に手を伸ばし――矢を使い切っていた事を思い出した。
「これを使ってくれ!」
少年を救出している船員が床を滑らせるようにして矢筒を放って寄こした。アンサーラはそこから三本の矢を取り出し、一本ずつ番えて三連射する。
攻撃態勢で降下を始めていたシーハーピーの先頭三匹が連続して眉間を打ち抜かれ、機先を制されたシーハーピーたちはギャアギャアと騒いで再び上昇した。
「あんた……一体何者だい?」
近くにいた船員が畏怖をこめて、再びアンサーラに問う。
「わたくしはアンサーラ。魔獣を狩るために来ました」
そう答えて、アンサーラもまた理解した。
これは自分の願いが叶えられた結果なのだ、と。
アンサーラは魔獣にとって天敵のような存在になったのだろう。あまりに自然に、容易く、魔獣を仕留められている。そしてアンサーラの願いの真意は、魔獣がこの世界に与える影響を自分の手で止める事にあった。例えば、魔獣がいなければ死ぬことのなかった命を救う、というような。
竜語魔法はその真意さえ汲み取ったのだろう。魔獣によって危機的状況にある場所へと瞬時に移動しているのだ。
シーハーピーを追い払えば、またすぐ移動するに違いない。そこで魔獣を倒せばまた次の場所へ、そのまた次の場所へ、アンサーラは延々と戦い続ける。全ての魔獣がこの世界から消えるまで。
アンサーラは思わず笑みを浮かべた。
それこそ、わたくしの望むところ――彼女は決意の矢を放った。
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