1.ランスベル ―盟約暦1006年、冬、第10週―

 ランスベルにはほとんど歩いたという感覚はなく、気が付けば琥珀色の光を抜けて、森の中の小さな庭とでもいうような場所に出ていた。ほんの一瞬前までいた氷の洞窟はどこにもなく、緑の森は暖かい春の陽気に包まれている。


 ランスベルは目をぱちくりさせて周囲を見回した。背の低い生垣が円形に周囲を覆い、一つだけある出入口ではアーチ門を形作っている。生垣に咲く小さな色とりどりの花の香りが、森の中特有の濃い空気とともに肺を満たし、体内から冷気を追い出していく。


 円形の石舞台のような場所から足を踏み出すと、間違いなく土の地面の感触がした。


 ドラゴンの力で鋭くなった感覚は、森の中にいる様々な生物の気配を捉えている。鳥の歌う声、ウサギの足音、鹿か何かの呼吸音、川のせせらぎに跳ねる魚の音――いずれも幻覚とは思えない。


 庭の中にぽつんと一つだけ円形のテーブルがあり、椅子が二脚向かい合うようにしてあった。絡み合う蔓と枝に見えるよう作られたそれらは真っ白で、三枚ほど落ちた新緑の葉がとても鮮やかに見える。


 よく見れば、そのテーブルと椅子は地面から直接生えていた。白く塗られているのではなく、元々が白い樹皮の植物なのだ。生垣もアーチ門も、鋏などを使って整形されたものではない。まるで自然にそういう形になったように、枝葉を絡めあっている。


 暖かい春の風にざわざわと枝葉が揺れ、木漏れ日が織りなす光と影の模様に見とれていると、ふいに気配を感じてランスベルは振り返った。石舞台の上にアンサーラが立っている。


「ここには危険な生物はいません。ドラゴンの力を解いても、問題ありませんよ」


 彼女の背後でわずかに残った魔法の門の名残が、最後に煌めいて消えた。

 ランスベルはドラゴンの力を解き、石舞台を下りてきたアンサーラに問う。


「ここって……?」


「ここが、エルフの港です」


 ランスベルは周囲をもう一度見回した。


「でも、エルフの港は場所が重要って言ってなかった? ここはどこに移動したの? それとも時間が進んだとか?」


「ああ、言いたい事は分かります」と、アンサーラは頷く。


「わたくしたちはほんの少し移動しただけです。ここは氷の木からそう離れていない極北の地。時間の流れも外と変わりませんから、今は冬です。もっとも、ここは永遠に春のままですが……」


 アンサーラはランスベルに先へ進むよう促して歩き出した。二人はほとんど並んでアーチ門を抜け、森の中を緩やかに蛇行している小道へと足を踏み出す。


 森は自然そのままの原生林のようでありながら、鬱蒼とした陰湿なものではない。人の手で管理された森のように、琥珀色の光が木々の合間から降り注いでいる。しかしやはり、枝を落としたような跡はないし、伸び放題の茂みに覆われているでもない。


「とても奇妙でしょう?」


 森の中を歩きながら、そう言ったアンサーラの声には僅かな嫌悪感が滲んでいる。


「なんていうか……すごく綺麗で、すごく不思議だ。この光は何?」


 ランスベルは琥珀色の木漏れ日に手をかざして尋ねた。ここがアンサーラの言うように極北の地ならば、今の時期、太陽は昇らないはずだ。


「日光の代わりになる魔法の光です。最後にこの港を訪れたエルフがこのように設定して行ったのでしょう」


「設定?」


「限度はありますが、天候も時間帯も好きなように決められるのです。この森も、そこに住む生き物も、何もかもがエルフの魔法によって管理されています。支配されている、と言ってもいいでしょう」


「すごいね」としか、ランスベルには言えなかった。


 エルフの魔法が優れているのは知っていたが、これほどの事ができるとは思っていなかった。これはまさに、世界を好きなように作り変えた、という事ではないのか。


「〈エルフの港〉は魔法の粋を集めて作られていますから、最も高度な魔法が使われているのです。それでも限界はあります。ここも、ごく小さな領域です。ほら、もう森を抜けます」


 小道の先、木々の間からその向こうの景色が見えている。アンサーラが言ったように、ここはそれほど広い場所ではなかった。森を抜けると小道は二つに分かれていて、左の道は三日月型をした岸へと続いている。


 岸には小舟が一艘だけ引き上げられて残っていた。面しているのは海ではなく湖のようだ。ランスベルのよく知る磯の香りがしないし、波もほとんどなく静かで、今は琥珀色の光を受けてキラキラと輝いている。


 右の道はきつい坂道で、その湖を見下ろす高台へと続いていた。頂上には白い壁の大きくて平たい家がある。


「家だ」


 思わず、ランスベルは見たままを口にした。白壁の家はホワイトハーバーを思い出させる見慣れた形をしていたからだ。


「港の管理人と利用者のための施設です。行きましょう」


「うん」


 ランスベルが頷くと、アンサーラは高台へと歩き出した。空を見上げても太陽のように明確な光源はない。空全体が琥珀色に輝いているのだ。美しいが、確かに不自然で、蓋を閉められているような――ドワーフの地下都市で感じたような――圧迫感がある。


 二人は高台の家までやって来た。壁の白さは樹皮によるものだったが、家自体は切り出した木材で作られている。人間の造る家と大きくは違わない。家の形をした植物というわけではなかった。


 入口の階段を上ってデッキから室内に入ると、仕切りの無い、がらんとした大広間になっている。奥のほうに扉があり、広間の中央には下への階段がある。


「下には宿泊施設があるはずです。ベッドもありますから、ゆっくり寝られますよ」


 アンサーラは奥の扉に向かって歩きながらそう言った。


 ここまで来れば先を急ぐ理由はないが、ランスベルは「いや」と答えて彼女について行く。


 奥の部屋には棚や机などの家具が残されていた。覗いても中には何も無い。部屋の中央には石造りの、日時計そっくりの物が立っている。


「ありました。少し待っていてもらえますか?」


 そう言ってアンサーラは日時計の前に立つ。何をするのか分からないが、ランスベルは「うん」と答えて壁に背を預けた。


 アンサーラは日時計に手を置き、目を閉じて、小さな声で呪文を囁く。変化は最初ごく小さなものだったが、徐々に大きくなっていき、それに気付いたランスベルは窓の外を見た。


 天井から降り注ぐ琥珀色の光が、色と範囲を変えている。まるで時間が急速に進んでいるかのように、赤みを増して夕焼けの色になり、木々の影は傾きながら伸びていく。ほんのわずかな時間で、〈エルフの港〉はすっかり夕暮れ時になってしまった。


 ランスベルが驚異の魔法に目を奪われていると、アンサーラは日時計から手を離す。


「これでいいでしょう。最後の船が港を出たら、徐々に自然へと還るように設定しました」


 そうする理由はランスベルにも分かる。エルフの高度な魔法を、エルフ以外の者の手に渡さないためだろう。


「自然に戻ったら、植物も動物も死んでしまうよね」


「そうなるでしょうね……」

 アンサーラは少し悲しげに言った。


 ランスベルは窓の外に目をやり、夕焼けに染まる湖を見て素直な気持ちを口にする。


「残念だね。美しい場所なのに」


「わたくしも、かつてはそう思いました」


「今は、そう思わない?」と、ランスベルはアンサーラに目を戻して尋ねた。


「この地を旅して、極北の厳しい自然の中で生きる人間たち、それにリザードマンたちも、見てきましたね。ここでは自然のちょっとした気まぐれのような変化で、彼らは簡単に死んでしまいます。エルフたちはそんな彼らを見て、知っていたにも関わらず、魔法で自分たちの世界を作り永遠の春を楽しんでいた。わざわざ極北の地では生長しない植物を育てて……」


 アンサーラは窓のところまで歩き、そこから森を眺めつつ、言葉を続ける。


「それは不自然なだけでなく、傲慢です。ここはまるでエルフという種族そのものを表しているようです。他人の世界に勝手に入り込んできた異邦人であるにも関わらず、まるで自分たちだけがその資格を持っているかのように世界へ干渉する。そして自分たちにとって都合の良い世界でなければ捨て去っていく」


 アンサーラの言葉には険があった。珍しく、その横顔には怒りが表れている。


「アンサーラと同じような考えを持ったエルフはいなかったの?」


「例えば、わたくしの父がそうですね」


 あまりに自然な言い方だったので、ランスベルは一瞬の間を置いてから「えっ?」と小さく声に出した。


 ランスベルは今でも、両親や兄の事をそのように口にする事はできない。だがアンサーラは数百年を経て、今では許す事も理解する事もできると言っていたのを思い出した。自分も今すぐそうできれば良いのに――と、ランスベルは思う。


「わたくしの父は、この世界をエルフの世界に作り変えようとしました。その目的の一つは、エルフに世界を渡り歩くのを止めさせる、というものです。エルフはたくさんの世界に足跡を残してきました。父はかつてエルフが通り過ぎた世界の行く末に興味を持ち、実際にいくつかの世界を旅したそうです。その中にはエルフの残した影響によって滅んでしまった世界もあったと」


「そうだったんだ……」


「ですが、父もエルフ的な思想からは脱却していなかった……世界を作り変えるという間違った方法を選んでしまいました」


 もし世界を自分の好きなように作り変える力があったなら、その力を使う事を躊躇う人間はほとんどいないだろう。だからこそ、〈エルフの港〉は葬らねばならず、同じ理由で魔獣も葬らねばならないのだ。


 ふと、視線を感じて顔を上げるとアンサーラはもう森を見ておらず、ランスベルを見ていた。赤い光を背負って金色の瞳が影の中で輝く。それはアンサーラの未来を暗示しているようで、ランスベルは少し怖くなった。彼女は、ふっと微笑む。


「こんなふうに誰かと父の話をしたのは、本当に久しぶりです。父の話は禁忌でしたから」


 ランスベルは密かに抱いていた疑問を口にした。これが最後の機会かもしれないから。


「ねぇ、アンサーラ。気になっていたんだけど、誓約で〝魔獣を消し去る力を得る〟じゃなくて、〝この世界の魔獣全てを消し去る〟では駄目だったの?」


「そうですね……竜語魔法はこの世界を構成する力そのものに触れる魔法です。魔獣はこの世界の外の力、すなわちエルフの魔法で歪められた存在。ですから、ドラゴンの力では完全に除去できない可能性が考えられます。ただ――」


 アンサーラはそこで言葉を切って目を伏した。初めて彼女の素の表情を見たような気がして、ランスベルはどきりとする。


「――ただ、正直に申し上げれば、これはわたくしの我が侭かもしれません。父が成した事の始末を、ドラゴンに任せるのではなく、自分の手で付けたいという……でも力を借りる事に違いはありませんから、愚かなこだわりだと思うかもしれませんね」


 以前にギブリムが〝お前たちは似ている〟と言っていたのを思い出す。


「正直言うと、僕も自分が愚かな事をしてるって何度か思ったんだよね。両親や兄や……他にも旅の途中で犠牲にした人はいる。生きてる人の命を犠牲にしてまで、もういない〝ドラゴンと竜騎士の想いを届ける〟とかって、ただ意地になってるだけなんじゃないか、僕の我が侭なんじゃないかって。でもさ――」


 ランスベルが言葉を切り、アンサーラは目を上げて、二人の視線が合わさる。


「――僕たち、もうここまで来てしまったから、ね」


「そうですね」と、アンサーラは深く頷いた。


「では、船まで行きましょうか?」


「うん」


 二人は白い家を出て道を下り、湖岸まで歩いた。足を踏み入れると、細かい砂利で出来た岸辺はホワイトハーバーの砂浜とは感触が違う。一艘だけ残された小舟は流線型で、前後対称の不思議な形をしている。


 アンサーラは岸側に立って尖った舳先に手をかけた。


「水際まで押しましょう」と言うアンサーラに、ランスベルは首を左右に振る。


「それは自分でできるから大丈夫。でも、オールしかないんだね。それに小さいし……」


 エルフの船は四人程度しか乗れなさそうな大きさだった。他の世界まで行けるという船にしては頼りなく思える。だが、この〈エルフの港〉を作ったような魔法の力があるなら、見た目どおりではないのだろう。


「最後の竜騎士のための船……ですから、もう少し立派なものとわたくしも思っていました。エルフがいかに盟約への関心を失っていたかの表れですね。それにしても、とは思いますけれど」


 申し訳なさそうにアンサーラが言うので、ランスベルは「だよね」と言って笑った。アンサーラも微笑み、美しい声で小さく笑ってから、説明する。


「船に乗り込んだ後、オールで湖に漕ぎ出してください。自然と船が進むようになれば、もうオールは捨ててしまって結構です。それと、船に乗ったら立ち上がらないように。魔法で保護されてはいますが、外に飛び出てしまうと危険です」


「わかった」とランスベルが頷いた時、腰の皮袋から〈竜珠ドラゴンオーブ〉の光が漏れ出した。ギブリムの時と同じように、ランスベルの心に竜語が浮かんでくる。


 ランスベルは荷物を下ろして〈盟約の石版〉に手をかけ、一瞬だけ躊躇ってから取り出した。答えを知りつつも、アンサーラに問う。


「いいよね、アンサーラ」


 アンサーラは微笑み、「この時を待っていました」と答えた。


 腰の皮袋を開くと、〈竜珠ドラゴンオーブ〉が飛び出して二人の頭上をゆっくりと回転し始める。ランスベルは〈盟約の石版〉を地面に置き、アンサーラと向かい合って立つ。


『我、ここに至りて道を得たり。誓約せし者よ、今こそ我らは汝に報いよう』


 竜語によって魔法が発動し、〈盟約の石版〉からアンサーラの誓約の言葉が光となって弾ける。アンサーラの全身を包んだ光は、やがて〈竜珠ドラゴンオーブ〉の光とともに消えた。頭上の〈竜珠ドラゴンオーブ〉がランスベルの手の中に落ちてくる。


 外見上、アンサーラに変化はない。


「どう? 願いは叶ったのかな?」


 問うランスベルに、アンサーラも目を開いて自分の身体を確認する。


「分かりません――」と、突然、アンサーラは背後から誰かに呼ばれたようにさっと振り向いた。


 ランスベルも思わずアンサーラの背後に目をやるが、誰もいない。そして急速にアンサーラは実体を失って、空気に溶けるようにして消えていく。


「アンサーラ!?」


 その細い腕をランスベルは掴もうとしたが、すり抜けてしまった。アンサーラは気配も残さず完全に消えてしまった。


 ただ透明になっただけではない、という事はランスベルにも分かっていたが、それでも周囲を見回さずにはいられなかった。そしてどこにもアンサーラがいない事を確認すると、独り言を呟く。


「アンサーラ……行ってしまったんだね……」


 ランスベルは腰の皮袋に〈竜珠ドラゴンオーブ〉を戻すと、〈竜の灯火〉が吊るされているのを確認して、〈盟約の石版〉に手を伸ばした。だが、それはもう不要なものだ。下ろした荷物同様に持って行く必要はないだろう。


 ランスベルは〈盟約の石版〉を岸辺に残したまま、エルフの船を湖に押し出して飛び乗った。アンサーラに教えられたとおりにオールを漕いで岸を離れる。エルフの船はまるで抵抗感なく、滑るように湖面を走った。


 やがて、船が勝手に進んでいることに気付き、オールを捨てる。座ったまま〈竜の灯火〉を抜き放ち正眼に構えると、剣はその名のとおり、篝火のように光を放った。船は明確に進路を定めて進みだす。


 周囲はあっという間に霧に包まれて、〈竜の灯火〉の明かり以外は何も見えなくなった。船の縁も、湖面も見えない。アンサーラは立ち上がるなと言っていたが、このような状況で立ち上がる者などいないだろう。


 どれくらいの時間そうしていたのか、やがて、ランスベルはうとうとし始めた。起きていようと思うのだが、意識を保つのが難しい。昨日からの強行軍で一睡もしていないせいだけではない、強烈な眠気に襲われる。


(駄目だ……すごく疲れて……)


 そして、ランスベルは眠りに落ちた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る