15.アベル ―盟約暦1006年、冬、第10週―
「あなたを守るために行くのよ」と、母は言った。
アベルは離れていく母を捕まえようと手を伸ばしたが、腕が鉛のように重く、とてものろのろとした動きで間に合わない。
母は扉の前に立って、手をかける。
駄目だ――。
そう叫んでも、まるで喉が詰まってしまったように、声は自分でも聞き取れないほどか細い。
あの扉を開けてしまったら、全てが嘘になってしまう――。
アベルにはそれが分かっていた。だから必死に叫んだが、声は出なかった。
母は一度だけアベルを振り返る。その顔も服装も、はっきり認識できなかったが、燃えるような赤い髪だけは印象的であった。
そして、アリッサは扉を開いて外に行ってしまった。
追いかけなければ、とアベルは立ち上がって走ろうとする。しかし足は思うように動かず、走れない。それでも必死に足を動かして、扉から外に出て、廊下を急ぐ。
途中、母の部屋の前を通過した。
そこに逃げ込めば安全だとアベルは確信していて、母を連れ戻したらこの部屋に入ろうと心に決める。
動かない足に苛立ち、苦労して、やっと長い廊下を抜けたアベルの眼前にはブレア王国の廃都が広がっていた。夜のように暗いが、星も月もない。
その中で唯一、光を放つ者があった。
炎と化した髪を振り乱し、黒い鎧に身を包んだアリッサだ。
彼女は勇敢な守護者のように燃える剣を振るって帝国兵を近寄らせない。その足元で丸くなっている黒いものを守っている。
「母上!」と、アベルは叫んだ。今度は淀みなく声が出た。
「母上!」と、もう一度叫ぶ。
アリッサはちらりと横目にアベルを見た。帝国兵たちもアベルに気が付いて向かってくる。
殺される――。
恐怖に全身がすくみ、アベルは動けなくなった。
目で母に助けを求める。
しかし、アリッサはそれに気付きながらも助けに来てくれない。
どうして――。
アベルは混乱した。
槍の穂先を向け、帝国兵が迫る。
炎の髪をした鎧姿の母のその後ろで、黒くて丸いものがニヤリと笑った。
そいつが何者か、アベルは知っている。
その名を叫ぼうと開いた口に、鋭い槍の穂先が突き込まれた。
――全身を激しく揺すって、アベルは目を覚ました。
喉の奥から後頭部にかけて、何かで貫かれたような幻覚が残っている。髪の先まで汗でびっしょり濡れて、額や首に毛が張り付いていた。全身が硬直して震えていて、動かせるようになるまでしばし待たなければならないほどだ。
恐ろしい夢を見た――そう思いながら、アベルは頭を巡らせ周囲を見る。そこは間違いなく、サンクトール宮にある自分の部屋の、ベッドの上である。
(何度目だ、この夢……)
まだ微かに震えている身体を起こし、冷たい汗を拭う。何度目か数えていないが、初めてではない。そしてもう一度、夢の内容を思い返しているとだんだん腹が立ってきた。
何故自分があんな夢ごときに恐怖しなければならないのか、という怒り。そして夢の中で母に守られているのは自分ではなく、あのドンドンであるという事が、怒りの炎を大きくする。
怒りがアベルを夢の残滓から解き放ち、彼を自由にした。ベッドから飛び降りて柔らかい靴に足を突っ込み、下着の上からローブを纏って部屋を出る。
自分が何をしようとしているのか分からないまま、怒りに突き動かされてサンクトール宮の廃墟を駆け抜け、ドンドンの部屋に向かう。部屋の扉は、やはり閂が外されていた。取っ手を掴んだ瞬間、室内からセドリックの声がする。
水をかけられたように怒りの炎は一瞬で消え、恐怖に変わる。取っ手から手を離しても、扉はゆっくりと開いていく。
扉の向こうにあったのは、家族の団欒風景だった。
ドンドンは目を輝かせて、何事か必死に話している。
セドリックはそれを聞いて、大きく口を開けて笑っていた。
そして、アリッサはそんな二人を愛情に満ちた微笑で見つめている。
「う――そ、だ」
アベルはその場にくずおれた。その耳元でデメトリの声が囁く。
〝お前よりも扱いやすい道具を手に入れたら、あやつはお前を捨てる――〟
アベルは両耳を塞いで叫んだ。
「嘘だあぁぁっ!」
叫び声を上げながら、アベルは今後こそ本当に目覚めた。毎日繰り返し見るこの悪夢に、アベルはもはや限界だった。怒りよりも恐怖に駆られてベッドから跳ね起きると、素足のまま下着姿で部屋を飛び出す。
悪夢の中と同じように、サンクトール宮の廃墟を駆け抜けてドンドンの部屋まで来た。やはり、扉に閂はかかっていない。取っ手を掴んだ瞬間、恐怖に全身が凍りつき、冷や汗が背中を流れる。
(あれは夢だ。夢だ。夢だ夢だ……ゆめゆめゆめゆめ……夢だと確かめなければ)
恐怖に歪んだ顔で、アベルは扉を開く。
部屋の中に、悪夢のような光景は無かった。
ベッドの上で丸くなり、寝息を立てるドンドンがいるだけだ。
「ははっ……」
乾いた笑いを漏らして、安堵のあまり座り込む。
(何を考えていたんだ、俺は。あんなの夢に決まってる。そもそも、あの魔女はもう死んだじゃないか)
アベルはしばらく呆けたようにしていたが、やがて立ち上がった。そしてベッドまで歩き、眠っているドンドンを見下ろす。
〝お前よりも扱いやすい道具を手に入れたら、あやつはお前を捨てる――〟
デメトリの言葉が悪夢の残響のように蘇る。
(このデブが来てから何かがおかしくなったんだ)
そう思うと、まるで恐怖の反動のように、かっと怒りの炎が燃え上がった。夢に怯えて下着姿でサンクトール宮を走り回るなんて醜態を、もし誰かに見られでもしていたら、そいつは殺さなければならない。
(それもこれも、このデブのせいだ……そう、こいつさえ、いなくなれば)
憎しみと殺意のこもった目で、眠るドンドンを見下ろしながらアベルはふと思い付いた。〈暴食に選ばれし者〉であるドンドンにアベルの力は通用しないが、寝ている今ならどうとでもできるのではないか、と。
眠るドンドンにアベルは手をかざす。頭でも心臓でも、その手に
(いや待て、どうせ殺すならもっといい方法があった)
これ以上ない思い付きに、アベルは舌なめずりした。セドリックは悲しむかもしれないが、自分さえいれば問題ないはず――。
その時、「ん……」とドンドンが目覚めかけた。
アベルは思わずドンドンの腕を掴んで
エルフの錬金術を研究している審問官の一人、サイモンはまだ早朝であるにも関わらず部屋にいて、突然現れた二人に目をぱちくりさせている。
(見られた!)
アベルは反射的に手を振るってサイモンを
だが、驚いている場合ではない。アベルはドンドンの腕を掴んだまま、無理やり奥に連れて行こうとした。
「やめろっ」
ドンドンが抵抗したので、アベルはそのふっくらした頬を思い切り殴る。ぐったりしたドンドンを再び力ずくで引っ張って行き、隠し扉を開いて階段に押し込んだ。狭い階段をゴロゴロと転がり落ちて、隠し部屋の外周を囲む床の上に倒れ、呻き声を上げる。
アベルは一足飛びに階段を駆け下りると手を振るって明かりを灯し、ドンドンを〈
「お前に相応しい姿にしてやるよ、デブ」
そして、ぐいっと力いっぱい蹴り出す。
ドンドンは朦朧としたまま、ごろりと転げ落ちた。同時に黒い何かが、びゅんと隠し部屋に入り込み、空中でドンドンをさらう。
「なっ――」
アベルは絶句した。
部屋の中央に、闇の塊のようなものがドンドンを抱えて浮かんでいる。それはすぐに人の形を取った。黒い鎧を身に纏った騎士のような姿で、背中のマントは翼のように広がっている。
それはアベルのためだけに生まれたはずの悪魔であった。
「お前、何を……そいつを〈
アベルは混乱したまま命じる。だが、悪魔はさも当然のように拒否した。
『それはできない』
「はっ? なぜだ!? お前、俺の望みなら何でもするって言っただろう!」
悪魔は黙ったまま、空中からアベルを見下ろしている。その腕に抱えられたドンドンが「うう……」と呻き、悪魔はまるで心配するようにその顔を覗き込んだ。
まるで子供を胸に抱く母親のような姿を見て、アベルは頭を殴られたような衝撃を受けた。怒りのあまり眩暈さえする。口の端から泡を飛ばしてアベルは叫ぶ。
「おまっ……おおお、お前も俺を、裏切るのか!」
『私は、私を裏切らない。私の中にある欲求は、〝わが子のためにできることをしたい〟というものだ』
アベルは金切り声を上げる。
「お前の子供は俺だけだろう!?」
そして、自らの言葉にアベルは真実を見出してしまった。
冷静に考えれば分かるはずの事だった。なぜ、この悪魔を父の悪魔だと思い込んだのか。悪魔が現れた時期は、アリッサが死んだ直後だ。
レッドドラゴン城で初めて会った時、ドンドンは言った。
〝アリッサは魔女じゃない! 僕のお母さんになってくれた人だ!〟
そして、このサンクトール宮でも言った。
〝アリッサはここにいるんだよ。僕らのすぐ側に〟
アベルだけでなく、ドンドンをも〝わが子〟と認識する人物は、この世界に一人しかいない。
「は、ははは……」
力なく、アベルは笑った。
アリッサは死の瞬間に、〝わが子〟を想った。全身全霊を捧げるほどの強い想いだ。だからこそ悪魔は生まれた。悪魔がこうして存在していることが、その証であり、否定できない真実だった。
だが、その真実こそがアベルを苦しめる。そうなると分かっていたから、悪魔は最初に嘘をついたのだ。父、ウィリアムの悪魔だと。
「なんだよ、ほんとに……なんなんだよ、お前。ほんとに訳が分からない……何度、俺を裏切るんだよ。いつまで、俺を苦しめるんだよ……」
ぶつぶつと呟き、そして最後にアベルは怒鳴った。
「何回、俺を捨てるんだよ!」
アベルは目を血走らせて、〈選ばれし者〉の力を使った。もう〈
しかしドンドンの力は彼自身を守り、悪魔を構成する魔力の一部を巻き添えにして消失させた。兜の半分が消失し、その下から人形のように表情のない黒いアリッサの顔が覗く。
アベルの力によって悪魔の身体の一部は部屋の端に飛んだが、霧散して黒い煙のようになり、すぐ悪魔の身体に戻る。
怒りに我を忘れたアベルは壁の一部を岩盤ごと、悪魔とドンドンの上に
悪魔は背中から無数の闇の触手を伸ばして岩盤を切り刻み、落ちてくる破片からは身を挺してドンドンを守った。
その姿こそ――子を守る母の姿こそ、アベルが心の底から欲しかったものだ。なのに、それは全くの他人のものになって今、目の前で見せつけられている。
アベルは絶叫した。
それは、彼の心の断末魔だった。
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