16.セドリック ―盟約暦1006年、冬、第10週―
「猊下!」とサイモンが扉を叩いた時、セドリックは朝食を終えて食器を水桶で洗っているところだった。
サンクトール宮には召使いを連れて来ていないので、こうした雑用も自分でやらなければならない。審問官の誰かにやらせることは可能だが、雑用を命じて彼らの誇りを傷つけたくはない。それに、セドリックは生まれながらの貴族ではないので、自分で食器を洗うくらいは普通の事だ。
朝から騒がしいな――セドリックは顔をしかめたが、声の調子から緊迫した雰囲気が伝わってくる。部屋着のまま扉を開くと、血相を変えたサイモンが挨拶もなしに話し始める。
「例の遺跡で錬金術の研究を進めていたのですが、突然、アベルとドンドンが現れて……何事かと思った瞬間に、私はアベルによって彼の部屋に
話を聞くにつれて、血の気が引いていくのが分かった。何が暴走のきっかけになったのかは不明だが、アベルが何をしようとしているのかは明白だ。デメトリの時と同じように、今度はドンドンを〈
セドリックは部屋着のまま自室を飛び出した。
本当にアベルがそんな事をしようとしているなら、あの悪魔はどんな反応をするのだろう。あくまでアベルに従うのか、それともドンドンを救うのか。
ドンドンと話して、彼とアリッサが親子のような関係を築いていたのをセドリックは知っている。だから、あの悪魔――アリッサの悪魔――はドンドンをも〝わが子〟の範疇に含めている可能性が高い。
〈選ばれし者〉二人と悪魔が本気で戦ったら、遺跡を破壊してしまいかねない。そのうえ〈
全力疾走するのは何年ぶりかで、足は痛み、もつれて転びそうになる。階段を駆け下りて崩れかけた地下牢に入り、禁断の書庫へと続く横穴の入口まで来た。間に合わせの鉄格子には〈
ぜぇぜぇと息を切らして鉄格子を掴み、振り返るとサイモンが付いてきていた。息を荒げているが、セドリックほどではない。彼は何をすべきか察して、呪文を唱えて〈
息を整えつつ、早足で禁断の書庫を抜けて錬金術の部屋まで来た時、ずしんと遺跡全体が揺れた。天井から細かい破片がぱらぱらと落ちる。壁の向こう、すなわち〈
この部屋よりも奥に隠し部屋がある事をサイモンは気付いたに違いなかった。だが、今はもっと緊急の要件がある。セドリックは振り返ってサイモンに命じた。
「君はここにある研究資料を持ち出せ。一番大事なものだけでいい」
「はい、猊下。しかし、試作品と資料はすでに帝都へ送りました。何か異常が起こっているのなら、私も猊下に同行したほうが良いと思うのですが……」
確かに、そうかもしれない――セドリックは一瞬迷った。
最悪の事態になっているのは、もはや間違いない。であれば護衛に付いて来てもらったほうが安心である。だが、自分以外の他人の目がアベルを刺激してしまうかもしれない。そのせいであの子を説得できる可能性を失いたくはない。
再び大きな衝撃があって、壁にびしりと亀裂が走った。もはや一刻の猶予もない。セドリックは早口にサイモンへ命じた。
「すぐに重要なものを持ってここを出ろ。私に同行する事は許さん」
「はい、猊下」
サイモンはすぐに命令を実行に移した。
セドリックは揺れる足元にふらつきながら奥へ歩き、途中で机の上にあったナイフを掴んで部屋着の下に隠し持った。壁に取り付き、首に下げていた鍵を使って隠し扉を開ける。扉が開くと同時に、土埃が噴出してきてセドリックは激しく咳き込んだ。
サイモンに見られているだろうが、もう気にする余裕はない。痛む目に涙しながら狭い階段に身体を押し込んで駆け下り、転がるようにして隠し部屋へ出る。
そこはひどい有様だった。
壁や天井はひび割れ、大部分が抉り取られていて、今にも崩壊しそうである。壁の外周に取り付けられていた通路も崩落して、かろうじて残っている部分もあるという状態だ。
瓦礫の山が底を覆い尽くし、〈
アベルの力は魔力などの非物質的なものに対しては効果が薄いから、ドンドンの力に削られてしまったのだろうとセドリックは考察する。
ドンドンは悪魔に抱えられたまま、怯えているようだった。自らの力が、自分を守っている悪魔をも傷つけていると理解しているのかもしれない。
しかし、ドンドンと悪魔が真上にいるおかげで〈
アベルは目を血走らせ、意味不明な叫びを上げながら次々と大きな破片を降らせて、時には直接ドンドンか悪魔かを攻撃している。
「アベルー!」
セドリックは大声で呼びかけた。
「アベル、止めなさい! 私だ、セドリックだ! お願いだから止めてくれ!」
あらん限りの力を込めてセドリックは叫んだが、アベルは全く気付いていない様子だ。
「くそっ」
セドリックは毒づいて、周囲を見回した。途中、途切れた通路を飛び越えたり、下の通路へ飛び降りたりしなければならないが、今ならまだアベルのところへ行くこともできそうだ。
セドリックは素早く決断しなければならなかった。この場から逃げ出すという選択肢はあり得ない。これまで努力して集めてきた力の大部分をここで失い、再出発するなど考えられない。だが、アベル、ドンドン、〈
「アベル! 今からそっちに行く!」
聞いていないと分かっていながらも、そう叫んでセドリックは揺れる通路の上を走り出した。助走をつけて、途切れた通路を飛び越える。
さらにもう一度――と跳躍したが、身体が重すぎたか、脚力が足りなかったか、飛び越えられず縁に腹を打ち付けて下に落ちた。運良く落ちた先の通路は残っていて、強かに尻を打つ。だが、腹も尻も分厚い脂肪に覆われているので怪我はない。痛みに呻きながら立ち上がり、助走をつけて隣の通路に飛び移る。
努力の甲斐あって、通路が崩落して無くなる前にセドリックはアベルのいる通路までたどり着いた。
「アベル! アベル!」
激しく手を振り回すアベルの背後から呼びかける。
「アベル!」
駄目か――と思いつつ、呼びかけた三度目の声にアベルは反応した。ぴたり、と手を止めて、ゆっくり振り返る。その表情は怒りでも悲しみでもなく、どこか呆けたような微妙なものだ。笑顔を装って、セドリックは優しく語りかける。
「大丈夫だ、アベル。落ち着くんだ。セドリックが来たぞ。そっちに行ってもいいかい?」
「あいつ、あいつが……」と、アベルは指差して言った。それが悪魔を指しているのか、ドンドンを指しているのかは分からない。
「あいつが、母上で、俺のために何でもしてくれるって言ったんだけど、それは俺のためじゃないって、訳分かんなくて……自分の子供だって、そんなわけなくて……」
アベルは突然、顔をくしゃくしゃにした。彼が錯乱しているのは間違いない。
セドリックは慎重に話しかけながら、にじり寄る。
「大丈夫だ、あれが何だろうと関係ない。ほら、私を見なさい。そっちは見ちゃ駄目だ。こっちを見なさい……」
アベルはその言葉に誘導されるように、身体ごとセドリックのほうを向いた。
手を伸ばせば届く、という距離まで来た時、アベルが懇願する。
「俺が一番大切だって言ってください……」
「お前が一番大切だよ」
即答して、セドリックはアベルを抱きしめた。
アベルはセドリックの嘘を信じたように抵抗しない。だが、セドリックはもう決断していた。ドンドンと〈
袖口からそっとナイフを取り出す。後頭部を一突きで即死させなければ、自分のほうが殺られる。慎重に刃先の角度を確かめ、アベルの背中に回した腕にぐっと力を入れて固定し、そして息を止めてナイフを突き立てた。
ナイフの刃が完璧な角度でアベルの後頭部に刺し込まれる直前に、その腕ががくんと止まる。腕に黒い触手のようなものが巻きついて、止めたのだ。
驚いて見上げると、それはドンドンを抱えた悪魔が展開する触手の一本だ。
(馬鹿な! なぜ邪魔をする!)
セドリックは声も出なかった。
アベルは悪魔もドンドンも殺そうとしていた。アベルを殺す以外にドンドンが助かる方法はない。それでも、悪魔はアベルを救ったのだ。
気配に気付いてアベルは振り返り、ナイフを見て、セドリックを見た。その瞳に僅かに残っていた最後の理性の光が消える。
「ぅぅうぅあああぁぁぁぁ!」
およそ人間が出すとは思えない絶叫あるいは咆哮。
「ひっ」と、セドリックは尻餅を付いた。手にしたナイフが揺れる通路の下に落ちていく。アベルは叫びながら、めちゃくちゃに両腕を振り回し、錯乱してくるくると回転を始めた。床に落ちた瓦礫が飛び回り、壁が削り取られていく。この場所が崩壊するのは時間の問題だ。
セドリックは恐怖に身を縮めた。目に見えないアベルの力が荒れ狂っているのだ。それに触れれば、触れた部分はどこかに飛ばされてしまうだろう。
とにかくこの場を離れなければ――と、それだけを考えてセドリックは立ち上がりざま、駆け出そうとした時だった。
脚はもう限界に来ていた。
セドリックの体重を支えることも、走ることもできなくなっていた。
刺すような痛みを感じた瞬間に、かくん、と膝から力が抜けた。体勢を崩し、ごろりと通路から転げ落ちる。その瞬間、セドリックは自分が全てを失うのだと分かった。しかし意外な事に、それほど執着を感じない。
(ああ、そうか――)
〈
(本当に欲しかったものは、もう失っているからだ。あの日、大学の、魔力開通の儀式で――)
それがセドリックとしての、最後の思考になった。
〈最終章へつづく〉
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