12.マイラ ―盟約暦1006年、冬、第10週―

 痛い――マイラは口をぎゅっと結んで耐えた。

 アデリンの肉厚な手が、マイラの細い指を押し潰さんとしている。


 しかし、その痛みがマイラを気丈にさせてもいた。この場で最もそう振舞うべきアデリンが、今は幼い子供のように肩を丸めて震えている。顔面は蒼白で、目には涙をためて。手を離した瞬間、死に連れ去れてしまうと恐れているかのようにマイラの手を握り締めている。


(この人は死を見過ぎたんだ)


 マイラはそっと、その丸い肩に触れた。アデリンの震えが少し治まったような気がする。


 夫である先王テイアラン四九世、頼りにしていたステンタール卿やアリッサ、そして父親と兄弟――次は自分の番ではないか、死の手がもうすぐ自分にかかるのではないか、そんなふうに考えてしまうのだろう。


 アデリンの側に仕える以上、マイラもそんな想像をした事はあるし、恐怖に震えた夜もあった。そんな時、せめてタニアがいてくれたらいいのにと思ったものだが、彼女とはたぶんもう会えない。


 マイラの存在がアデリンを少なからず慰めているのは間違いないが、本当にこれは正しい選択だったのだろうか。いかに能天気なマイラといえども、全ての終わり――死――が迫ってきているのは分かる。


 プレストンの両親は死ぬほど心配しているはずだし、マイラの死がどれだけの苦痛を与えるか考えると、窒息しそうなほど胸が苦しくなる。


 その時、悲鳴か怒号か、まるで人間のものではないような声が響いて周囲の侍女と召使いの女性たちが「ひっ」と息を呑んだ。どんな時にも毅然としていたウィルマでさえ、眉根を寄せてぎゅっと目を閉じている。


 〈王の居城〉の中庭は周囲を囲む建物が壁のようになっているので外の様子が分からない。そのおかけで、どんな凄惨な出来事が起こっていようとも目にしなくて済むが、状況が分からないという恐怖もある。


 マイラは救いを求めて空を見上げた。そこには平和な時代と変わらない、冬晴れの空が広がっている。いっそ雪でも降ってくれればいいのに――と、マイラは夢想した。


 雪が全てを覆い隠し、厚く積もった雪の下でマイラたちは眠るように安らかに逝くのだ――。


 現実に戻ったマイラは、近づいていた戦いの音が小さくなっているのに気付いた。戦いが終わりつつあるのか、それとも休憩時間になったのか、マイラに戦の事は何一つ分からない。


 アデリンに視線を戻すと、彼女はどこから持ってきたのかワインの瓶を胸に抱えている。こんな時でさえ――と思ったものの、こんな時だからこそ酒の力が必要なのかもしれない。


「陛下」


 マイラが呼びかけると、アデリンは顔を上げた。


「もし宜しければ、お酒を召し上がってはいかがですか? 気分も多少は慰みましょう」


 アデリンの表情が凍りつき、それから抱えているワインをじっと見つめる。


 このような状況下でも奇妙な反応だとマイラは思った。アデリンの向こう側にいるウィルマも彼女の様子を見ていたが、何かに気付いたようにハッとする。


 ウィルマは何か言いかけて、止めた。


 その表情は何とも複雑で、怒っているのか、褒めようとしているのか、慰めようとしているのか――そのどれもあり得る、そんな表情だ。


「そ、そうね……」


 アデリンが呟いたので、マイラは視線を彼女に戻した。


「でも、そうね、それがいいかもしれない。飲んだら、きっと楽になるわ。マイラも一緒に……飲んでちょうだい。一人では寂しいから……」


 マイラは驚いて首を左右に振る。

「そんな、陛下と同じものを頂くなんて……」


 その時、〝どんどんどん〟と大広間から通じる扉を叩く音がした。悲鳴を上げそうになって、皆が口を塞ぐ。誰もが、恐怖に目を見開いている。


 扉を叩く音は数回続き、それから声が聞こえた。分厚い扉に阻まれているので、何を言っているのか分からない。


(ここに誰かいるって気付いてる!)


 それだけは確かで、血の気が引いていくのが自分でも分かった。だが、口に出してしまったら皆を怖がらせるだけだ。マイラは言葉を飲み込んだ。


 扉の向こうの人物は、〝どしん、どしん〟とより強い力で扉に当たり始めた。体当たりしているのか、何か木槌のようなものを打ち付けているのかは分からない。


「あ、ああ……」


 アデリンは言葉にならない声を漏らしながら、震える手でワインを開栓し始める。今までとは違う鋭い音が扉から響く。ばりばりと木が裂けるような音がする。


「き、きた!」


 そのアデリンの一言で、ついに恐怖が絶頂に達し、皆が一斉に悲鳴を上げた。


 少しでも扉から離れようと、奥に走っていく者もいれば、そうしようにも腰が抜けて動けない者もいる。アデリンは座り込んだまま、震える手で一心にワインの栓を抜き、中身を酒杯に注いでいる。


「へ、陛下……逃げなきゃ、隠れないと……」


 マイラは何とかアデリンを動かそうと腕を掴んで引っ張ったが、アデリンの巨体はマイラ一人の力でどうにかなるものではない。


「確実に逃げる方法はこれだけなのよ、マイラ!」


 はっきりとそう言って、アデリンは酒杯をマイラの眼前に突き出した。その目は恐怖に見開かれ、口元は歪んでいる。笑みを浮かべているようにも見えるが、全く別の感情に起因するものだ。


 この人は何を言っているの――マイラは混乱した。


 その隙にウィルマが横から酒杯を取り上げる。驚くマイラとアデリンの前で、ウィルマは青ざめた顔をして無表情のまま言った。


「陛下、侍女長として、まずは私が。マイラさん、あなたは自分でお決めなさい」


 そして一気に酒杯をあおる。


 ごくりと飲み込んでから一瞬の間があって、ウィルマは「ぐぎっ!」と奇声を発し、喉を伸ばして両手でかきむしった。喉が見る見るうちに赤黒く変色して、顔が赤くなっていく。口の端から血の泡を吹き、ウィルマは彫像にように硬直したまま、ばたんと倒れた。顔色が赤から青に変わり、そしてぴくりとも動かなくなる。


「え……な、なに? 侍女長……?」


 混乱しつつも、マイラはウィルマに手を伸ばす。呼吸はしておらず、脈もない。苦悶の表情を浮かべたまま、全身を硬直させて――死んでいる。


「いやぁっ!」


 マイラは悲鳴を上げた。同時に、大広間から続く扉が一際大きな音を立てる。扉は破られる寸前だ。


「く、苦しまないって言ったのに……でも、効果は間違いない」


 アデリンはウィルマの手から酒杯をもぎ取ると、そこに死のワインを注ぎ直した。


「マイラ、もう時間がない。扉が破られる。さあ、一緒に逝くのよ。お願い、最後まで私と一緒にいてちょうだい……」


 目を見開き、狂気の表情で、酒杯を手にしたアデリンがじりじりと迫る。


 マイラは逃げられなかった。地面にへたり込んだまま立ち上がれない。地面を蹴る足は、土の上を滑るだけだ。


 視界がアデリンの巨体で埋め尽くされる。狂気じみたその目に見据えられ、顔を背けることもできない。


 扉の向こうからやって来る死と、目の前の酒杯に入った死。


 どちらの死がより悲惨かとマイラは混乱する頭で考えた。次々と、今まで出会った人々が脳裏を過っていく。父、母、祖父、ニクラス、クルト、学生時代の友人、タニア、大切なマイラの騎士ランスベル――そして、一つだけはっきりと分かった。


 死後も共に居たいと思う相手は、少なくともアデリンではない。


 マイラは口を固く閉じた。アデリンが死のワインを唇に押し当ててくる。それは恐ろしいことに、甘く芳醇な香りを放っている。


「マイラーっ!」


 その時、ニクラスの声がはっきりと聞こえ、マイラは硬直から解放された。酒杯を押し除けてアデリンから逃れ、叫ぶ。


「ニクラス! 助け――」


 しかしアデリンはマイラを逃がさなかった。腕を掴んで力ずくで引き寄せると、助けを求めて開かれたその口にワインを流し込んだ。

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