11.ニクラス ―盟約暦1006年、冬、第10週―
レッドドラゴン城内にはいくつか井戸がある。そのうちの一つが、東棟と城壁の間にあった。ニクラスはアントンと共に、そこを守るよう命じられている。
二人とも支給された武具を身に付けているので、格好は衛兵と変わりない。しかし着慣れておらず、立ち振る舞いは不恰好である。
庭師のアントンは草刈に用いる両手用の大鎌を持って来ていた。いざという時は使い慣れた道具のほうが良い、という判断らしい。
ニクラスの場合なら、パンを焼く窯で使う火かき棒とか整形するための木べらという事になるが、それなら槍のほうがましだ。
ニクラスは寒さのためではなく、戦いへの恐怖のために震えていた。隣で青い顔をして震えているアントンも、きっと同じだと思いたかった。時々、お互いの存在を思い出そうとするかのように顔を見合わせているのは、そうしなければ逃げ出してしまいそうだからだと思いたかった。自分だけでなく誰も彼も、本当は怖いのに我慢しているだけだと信じたかった。
でなければ、自分はあまりにも臆病で、みじめだ。
夜明けと共に始まった戦いの音は、最初は遠く、徐々に近づき、正午を過ぎて城壁のすぐ外から聞こえるようになった。そして、今は静かになっている。
いつの間にか戦いが終わっていて、アントンと二人、忘れられていたなら良いのにとニクラスは何度も想像した。だがその夢想は、いつも不幸な結果に終わる。
すでに城は帝国軍に占領されていて、隠れている者がいないかと探しにきた帝国兵に見つかり惨殺されるとか、様子を見に大広間に行ってみると帝国軍の騎士たちが戦勝を祝っていて、余興とばかりになぶり殺されるとか――そんなのばかりだ。
妄想の中で死を迎えるたびに、ニクラスはぶるっと身を震わせてアントンを見た。それで、ついにアントンが文句を言う。
「肉屋に連れて行かれる豚みたいな顔すんなよ。お前の臆病がうつる」
お前だって本当は怖いくせに――と、ニクラスは思ったが怒りは湧いてこない。
「ごめんよ」
「謝るなよ」
アントンはばつが悪そうに顔を逸らして、何かに気付き、「あっ?」と声を漏らした。ニクラスはびくついて槍を持ち上げる。アントンの視線の先には、
ニクラスがほっとして槍を下ろすと、まだ兵士の一団を見ていたアントンが怪訝な顔をして言う。
「あれって……ハイマン将軍じゃないか?」
ニクラスも目を凝らして兵士たちを観察した。確かに、一団の中にハイマン将軍がいる。
「うん、ハイマン将軍だと思うけど……将軍が本陣を放棄するのか?」
何気なく口にしてから、二人は顔を見合わせた。その理由として思い浮かぶのは悲観的なものしかなく、アントンの顔は見る見る青ざめ、恐怖に塗り潰されていく。
「にっ、逃げよう!」
「えっ、逃げ……どこに!?」
すでにアントンは北西の方角に走り出していた。とにかく正門から離れようとすれば、その方角になる。ニクラスは慌てて追いかけた。東棟まで走り、建物の北東の角を曲がろうとして、アントンが突然立ち止まる。
その時点でニクラスは引き離されていたので、激突することなく、立ち尽くす彼に追いついた。息を切らせて「ど、どうした?」と問いかけつつ、角から顔を出す。
立派な毛皮のマントを纏った巨漢の戦士――ブラン上位王が、北に向かっていた。その先には北方人の戦士が五人、彼らの王を待っている。
アントンは建物の壁に寄りかかって、へなへなと崩れ落ちた。泣きそうな顔でニクラスを見上げる。
「ニクラス……俺たちもう駄目だよ。ブラン王まで逃げ出してる。きっと女王陛下も逃げたんだ。俺たち、ここで死ぬんだよ……」
ニクラスは絶句した。〝死〟という言葉に頭を殴られたような衝撃を受ける。それまで決して口にしないようにしてきた言葉だ。
「戦っても、斬られても死ぬ。降伏しても、生きたまま串刺しにされて死ぬ。どうしたって死ぬ……死ぬ……」
頭を抱えて、ぶつぶつとアントンが呟く。
〝死〟という言葉を聞くたびに、ニクラスは衝撃に打ちのめされた。
死ぬ――という事は、もうパン焼きの練習はしないという事であり、パン職人になれないという事であり、両親にもプレストンの友達にも会えないという事であり――そして、マイラとも会えないという事である。想いを伝えられないまま、永遠に離れ離れになってしまうという事である。
現世で特別な絆を結んでいれば、
死ぬまでにどれだけの時間が残されているのか分からないが、死を迎える前にどうしてもやっておかなければならない事が一つだけある、とニクラスは気付いた。
踵を返して、だっと走り出す。武器も盾も兜も、捨てられるものは全部捨てて
マイラがどこにいるのか分からないが、もしいるなら
走るのは苦手なニクラスもこれが最後とばかりに全速力で走った。脚がもつれて転んでも、すぐに立ち上がる。
眩暈を起こして後ろ向きに階段へ落ちそうになったニクラスの腕を誰かが力強く掴んだ。
助けてくれたのは、見覚えの無い騎士だ。兜から覗く顔はファランティア人ではないが、格好はファランティア騎士のそれである。
「急いでいるところ悪いが、ブランはどこにいる? 大広間にはいなかった」
その騎士も息を乱していて、急いでいるのが分かる。
「
ニクラスの不明瞭な問いにも、騎士は答えてくれた。
「陛下は侍女や召使いの女たちと一緒に、〈王の居城〉に籠っているらしい」
「ありがとうございます……!」
擦れた声で礼を言い、ニクラスは階段の残りを駆け上がる。「こちらこそ」と騎士が言ったような気がして振り返ると、甲冑の騎士はすでに階段を下りきっていてマントの一部がちらりと見えただけだった。
〈王の居城〉へと続く扉は、かなり頑丈なものだ。ニクラスは取っ手を両手で掴み、人並以上ある体重をかけて引っ張ったが、びくともしない。向こう側から鍵がかかっている。
「くそっ」と口の中で毒づいて、ニクラスは扉を叩いた。何度叩いても、反応がない。やっと喉が開いて声が出せるようになると、ニクラスは叫んだ。
「誰か! どなたか! 開けて下さい!」
何度か叫び、叩くのを繰り返しても、やはり反応はない。焦って扉に体当たりしても、肩が痛くなるだけで扉はびくともしない。
もしかして誰もいないのかも――そう思って、扉に耳を押し当てる。すると分厚い扉の向こうでくぐもった悲鳴が聞こえた。
(やっぱり誰かいる! マイラはここにいるんだ!)
ニクラスは周囲を見回した。椅子やテーブルや花瓶を叩きつけても扉は破れないだろう。大広間まで戻って使えそうな物を探すと、上座に大きな
ニクラスはその
(いける!)
希望と共に力が湧いてきて、ニクラスは狂ったように何度も
「マイラーっ!」
ニクラスは叫んだ。
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