8.レスター ―盟約暦1006年、冬、第10週―
人々の怒号、悲鳴、鉄のぶつかり合う音――そうした戦場の騒音は、王都の外にあるアルガン帝国軍の本陣からは遠く聞こえた。サイラスが死んでから、つまりレスターが王になってから、これほど離れた場所で戦いの音を聞いていた事はない。
かつてのレスターなら戦闘は常にこうあるべきと考えただろう。なぜなら、王や皇帝が危険に晒される必要はないし、むしろ積極的に避けるべきだからだ。
だが、サイラスならこう考える。味方の後ろに隠れている王に命を捧げる者はいない。戦場でお互いの命運を共有することによって得られる絆なくして、人々の守護者にはなれない。
今のレスターはサイラスそのもの――あるいはそれ以上――なのだから、本来ならこんな場所にいるべきではない。
近くから見ても、王都ドラゴンストーンは荘厳で美しかった。だが、その中では今、凄惨で残虐な行為が行われている。美しい都市が血に汚されているのだ。
そう思うと胸の奥が疼き、奇妙な興奮が頭の芯を痺れさせる。
これは何なのか、どんな感情なのか、サイラスのものなのか、心に潜むレスターの残滓なのか――考えてはいけない、と自分の中で誰かが警告した。
「……誰か」
気を紛らわせるため、レスターは近くの者に呼びかけた。
近衛騎士の一人が側にやってきて、「いかが致しましたか、皇帝陛下」と膝を折る。
レスターは王都から立ち上る幾筋かの黒煙を指差して言った。
「あれは火事ではないかな? 手の空いている者をやって、火が出ているなら消させてくれ。この美しい戦利品をこれ以上傷つけたくない」
「畏まりました、皇帝陛下」
そう言って、近衛騎士はさらに別の者を呼びつけてレスターの命令を伝言する。
火は使わぬよう命じてあるし、この戦場に魔術師はいないから、事故のようなものだろう。ファランティアにいる魔術師は全員始末したとセドリックから聞いている。だから審問官を連れて来てもいない。
まだずっと先の話だが、敵対する魔術師を全て殺すか、魔術師でなくとも彼らに対抗できる手段が見つかったら、審問官についても始末を考えなければならないだろう。
その事が頭を過るたび、後悔という名の棘がちくりとレスターの胸を刺す。審問官という隠れ蓑を魔術師に着せたのは、サイラス的なやり方ではなかった。まだサイラスに成り切れていなかった頃のレスターの仕業である。
しかし彼らの力が必要だったのも事実だ。特にアベルという〈嫉妬に選ばれし者〉は別格で、ほんの数秒あれば世界中どこにいる相手でも暗殺なり拉致なりできる。魔法根絶という帝国の理念が枷となって堂々とは使えないが、少なくとも自分に向けられないよう手を打てた事は評価すべきだろう。
やがてダンカンが鎧を鳴らして近くにやって来た。
「皇帝陛下、あちらに準備が整いました」
彼が指す方向から、馬三頭引きの大型馬車がごろごろと音を立てて向かって来るのが見える。窓は盾で守られ、馬にも鎧を付けてある。
「ロランドの立案したとおりになっているな?」
レスターは問うた。これはロランドの考えだ、という事が重要なので敢えて名前を口にする。
「はい、皇帝陛下」
「うん。では、白竜門に向かう」
そう宣言して、レスターは歩き出す。
(しかし、あれはもはや余の知るロランドではない。ただの、つまらない、有能な指揮官だ。それも死にかけの……いや、もう死んでいるかもしれないな)
昨晩はロランド子飼いの男――エリオだかトーニオだか知らないが――が忍び込んでくるものと思っていたが、それも肩透かしに終わっている。
――残念だ。
レスターの中で誰かが言った。脳裏に〈豚っこ〉の姿が過ぎり、下腹部がじんわり熱くなる。
――だが、目の前の王都にはブランがいる。
頭の中で誰かが熱っぽく囁く。
レスターは恐れを感じながら、その声を無視した。
そして大型馬車は、近衛騎士に守られながら白竜門へと進んで行った。
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