5.マイラ ―盟約暦1006年、冬、第10週―
夜が明けたら、敵の総攻撃があるだろう。
誰かがはっきりと口にしたわけではないが、城内の誰しもが、そう確信していた。
マイラはウィルマと共にアデリンの部屋にいたが、深夜になってから許可を得て、城内の仕事を手伝っている。
怯えきったアデリンと一緒に閉じこもっていると、恐怖が何倍にもなるような気がして、やがて耐え切れなくなってしまうと思ったからだ。忙しく動き回っていれば戦争も、迫り来る死も、アデリンの事も、考えずにいられる。
そうして夜をやり過ごしたマイラは夜明けが近づく頃、城壁の上にいた。
そこには敵を迎え撃つためのごつごつした岩石、大量の矢、油、干草の詰まった樽、篝火に熱せられた砂、敵の梯子を壊すための斧などが運び上げられ、それらの隙間に兵士たちが座り込んでいる。
暗く沈んだ兵士、すすり泣く少年兵、祈る兵士、弓を念入りに点検している兵士、肩から湯気を立ち上らせるほど素振りを繰り返す兵士など、その様子は様々である。
マイラは彼ら一人一人に食事を配って回り、追加を求める声に応じて行ったり来たりした。食事は朝食とは思えぬ豪華な内容で、城を去ったエッケルトに代わってニクラスが焼いたパンとドライフルーツ、焼いた塩漬け肉、シチュー、チーズ、ワインなどだ。
食料に関しては備蓄分を放出してでも好きなだけ与えるように、と言われている。それがどういう意味を持つかは考えないようにした。
全員に配り終え、追加を求める者もいなくなると、マイラはついに座り込んだ。そうして初めて、自分がくたくたに疲れていたのだと自覚する。何か食べなければいけないが、あまり食欲が無かったのでパンを一欠けちぎって口に入れ、ワインを少し含む。
その時、東の地平から太陽が顔を覗かせて世界を照らし始めた。
悪夢から目覚めるように、夜明けの光が帝国軍を消し去ってくれたらと夢想したが、もちろんそんな奇跡のような事は起こらない。
高い位置にあるレッドドラゴン城の城壁の上は眺めがよく、嫌でも帝国軍の陣地が見えてしまった。いく筋も炊事の煙が立ち昇り、風に散らされて朝靄のようになっている。やがて、その中で動き回る蟻のように小さな人影も見えるようになってきた。
それ以上見ていられなくて視線を下げると、太陽が地平を離れるにつれて、整然と並ぶ王都の建物の影が一斉に西へ伸び始める。
(あ、これ……ずっと前にタニアが言ってた……)
まるで遠い記憶のように思い出して、マイラは自分が夢見ていた光景を眺めているのだと気付いた。その夢の中では亜麻色の髪の騎士が隣にいて――平和な時代の少女じみた夢。
「とってもきれいだ」
マイラの考えを代弁するように、ニクラスが言った。
マイラの幼馴染はいつの間にか隣に立って同じ景色を眺めている。頬が赤らんでいるのは、忙しく動き回ったからだろう。朝日を受けた彼の髪は亜麻色に見えなくもない。
少しだけ夢が叶ったような気がして、マイラは「うん」と答える。そして、痛む足に鞭打って立ち上がった。
「私、もう戻らなきゃ」
「王妃様……じゃなかった、陛下のところか?」
「うん。夜明けまでって言われてるの。後片付け手伝えなくてごめんね」
「いいさ。俺も食べ物を全部出したら戦いの準備――」
ふいに、ニクラスは言葉を失った。その瞳に宿る感情は、アデリンで見慣れている――恐怖だ。手が震え始めている。
それに気付かないふりをしてまるで何事もないように、〝じゃあ、また後でね〟と言うべきなのはマイラにも分かっている。だが、死を意識した今となってはその一言が重くて口にできない。
(あの時、ランスベル様も同じ気持ちになったのかもしれない。だとしたら、私……)
ランスベルと別れた秋の夜、去り行く彼にマイラは同じ言葉を言わせてしまった。彼の気持ちも考えず、残酷な事をしてしまったと今さら気付く。
ニクラスは何かを言おうとして唇を震わせていたが、結局何も言わずに背を向けた。マイラも何も言えないまま、二人は無言で別れた。
城壁から下ると、中庭には兵士たちが集結していてお互いに声を掛け合ったり、命令を受けたりしている。城全体が夜明けと共に息を潜めるのを止めて目覚めたかのようだ。
行き交う兵士の邪魔にならぬよう気を付けて、マイラは東棟を目指した。兵士たちの中を突っ切って
マイラはなるべく兵士たちの顔を見ないように、足元を見て小走りに東棟へ飛び込んだ。どんな顔をすればいいのか分からなかったからだ。
東棟は現在、高貴な人々がいる場所となっていて、外と同様に騒がしい。鎧を抱えて走る従者や、笛を持った伝令らしき若者が出入りしている。
そんな南側とは対照的に、北側は静かで人影もない。そこは昔と変わらず職人や召使いたちの仕事場だが、窯も調理場も役目を終えたためだ。職人の姿は無く、火は消え、冷たくなっている。
外からの声が低く響く狭い廊下を足早に進んでいると、ぱたぱたと足音を立てて誰かが螺旋階段を駆け下りて行った。地下には召使いや城で下働きする人々の休憩所や大部屋がある。
その螺旋階段を反対に上へと向かい、東棟北側から
クルスは王都まで撤退してきた軍の中にいたので、ここにいてもおかしくはない。だが、見つけたところでどうしようというのか。ニクラスにさえ、掛ける言葉が無かったというのに――マイラは唇をきつく結び、下を向いて先を急ぐ。
北方人たちは思い思いに食事をしながら戦いについて語り合い、それを横目に将軍補佐のディーター卿が軍の編成について話している。上座にブラン王の姿はあるが、アデリンはいない。まだ部屋にいるのだろう。マイラは軽く頭を下げて、素早く大広間を通り過ぎた。
奥の廊下から近衛騎士が守る扉を抜けて〈王の居城〉に入り、回廊を進むとアデリンの部屋からハイマンの声が聞こえてくる。
部屋の前まで来ると開け放たれた扉から中の様子が分かった。マイラが入っていいような雰囲気ではなく、足が止まる。
すでにアデリンは身支度を整え、ウィルマを従えて寝室から出ていた。コルセットはしておらず、腹部は張り出し、スカートは大きく広がっている。頭巾で髪をまとめて王冠を頂いていた。アデリンの妊娠は公表されていないが、もはや隠しようがないほど外見に現れている。
他には護衛の近衛騎士四名とハイマン将軍、それに近衛騎士団長〈王の騎士〉アルバン卿がいた。
アデリンはマイラの姿を見つけて少し安堵した様子だ。それが良い事なのか悪い事なのか、マイラにはもうよく分からない。
ハイマンはアデリンと話している最中だ。
「――近衛騎士団は王国で最も練度が高く統制の取れた部隊です。その指揮権を私に委譲してくだされば、近衛騎士一人で王国民一〇人いや三〇人は救えましょう。部隊全体ではもっと多くの民を救えます。どうか、陛下、近衛騎士団を私めにお与え下さい」
答えたのはアデリンではなく、アルバンであった。
「何を馬鹿な。近衛騎士の忠誠はそのように扱っていいものではないぞ、将軍。陛下のお側を離れるなどあり得ぬ。陛下の御身を、王国の未来を、危険に晒すつもりか?」
「無論、それは分かったうえでお願い申し上げているのだ。近衛騎士団を城に留め置くなど、名剣を持ちながら抜かぬようなものだ」
ハイマンは頭を下げたまま、横目にアルバンを見て反論した。
口を開こうとしたアルバンに先んじて、アデリンが発言する。
「確かに将軍の言うとおり。近衛騎士団はハイマン将軍の指揮下に入って、その指示に従うように」
「陛下!?」
アルバンは気色ばんで一歩前に踏み出そうとした。アデリンの瞳に怯えが浮かぶ。
だが、ウィルマがまるで〈王の騎士〉のように立ちはだかった。アルバンが〝でしゃばるな、女〟とでも言いたそうに目を剥いても、ウィルマは怯まない。侍女長の背後に隠れて、アデリンは震える声でとどめとばかりに言う。
「……だって、あなたたちは結局誰も守れてないじゃないの。テイアラン四九世陛下も、私も……私は侍女たちに守ってもらうからいい」
アルバンの顔がみるみる怒りに赤黒く染まっていく。だが、最後には頭を垂れて「御意に、陛下」と怒りに震える声で言った。
これで話は終わりというように、ウィルマが宣言する。
「では、陛下。大広間へ」
「い、行かなきゃ……駄目?」
この期に及んでアデリンは尻込みして見せたが、ウィルマは首を横に振る。それで渋々、テイアラン五〇世は歩き出した。ウィルマとアルバン、ハイマン、近衛騎士たちが後に続く。
アデリンは廊下に控えていたマイラの前で立ち止まり、その手を取って、肉厚な手で包んだ。彼女の手は生暖かく、じっとりと湿っている。
「あなたも来て、マイラ。最後まで一緒にいてちょうだいね」
引きつった彼女の笑顔に不吉な予感がした。
しかしマイラには「はい、陛下」と答える以外に選択肢は無かった。
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