4.トーニオ ―盟約暦1006年、冬、第10週―

 帝国軍の野営地はたくさんの篝火によって、夜とは思えぬほど明るかった。真冬の寒さから身を守るためで、それはテッサニア陣営も同様である。


 トーニオは個人用の小さな天幕テントで横になっていたが、一睡もしていない。それは篝火の明るさや、野営地を歩き回る兵士たちの足音や話し声や、夜明けの開戦に向けて高まる緊張感といったもののためではない。


 戦場で吐血して倒れるまで誰もロランドの不調に気付かなかった。すぐ近くにいたトーニオでさえ、そうだ。周囲に病を隠し通したロランドの精神力は化け物じみている。


 だが、そんな化け物でも病に倒れる。そしてもうすぐ死ぬ――そこで、トーニオの思考は停止してしまうのだった。まるでロランドの死の向こうに自分の人生はないかのように。


 〝主人のほうが高齢ですし、普通に考えたら先に逝きますよね。その後の事も考えてあるくらいですよ〟


 〈白鯨号〉の船上で叩いた軽口は、今や空しいだけだ。


 天幕テントに人影が写り込むより前に、トーニオはその足音に気付いていたが、横になったまま待った。


「トーニオ様、ロランド様がお呼びです」と、外から誰かが囁く。


「わかった。すぐに行く」


 そう答えて、トーニオは地面に敷いた寝床から音もなく起き上がった。


 ぴったりとした黒の上下に、黒く染めた柔らかい革の胴衣ソフトレザージャーキンを着て、靴底に毛皮を貼り付けたブーツもすでに履いている。手はむき出しだが、両脇に挟んでいたので寒さにかじかんではいない。ベルトや胴衣ジャーキン、ブーツに仕込んだナイフは大小合わせて十四本ある。


 それらを確認し、寝床に置いた顔まで隠せる頭巾を引っ掴むと、こっそり天幕テントを出た。


 たくさんの篝火に照らされていると、それだけ影も多くなる。トーニオは影から影へと進み、誰にも姿を見られないようにロランドの天幕テントまでやって来た。周囲に人影は一切なく、護衛の近衛兵さえ姿が見えない。


 ロランドの指示だろうと思いつつも、トーニオは警戒して近付き、気配を確認して中に入る。


 天幕テントの中は酷い臭いに満ちていた。簡易ベッドには穴が開けられ、ロランドの排泄物はそこから地面の穴へと落ちるようになっている。毛布によって覆われていても、その臭いまでは隠せていない。


 横たわるロランドの呼吸は浅くて早かった。元々細かったが、今は不健康にげっそりとして頬はこけ、顔は土気色で唇は青い。急激に衰弱しているのが見て分かる。


 トーニオが音もなく近付くと、ロランドはゆっくりと目を開けた。

「……来たか」


 トーニオはロランドに呼ばれることも、何を命じられるかも、予測していた。ロランドはレスターの暗殺を命じるはずだ。


 いかなトーニオといえども、レスターの暗殺は容易ではない。そもそもトーニオにさえ予測できたのだから、レスターが予測していないとも思えない。警戒は厳しいだろう。


 だが、死にゆくロランドには他に望みなどあるはずもない。

 そして、成功する可能性も皆無ではない。失敗すればもちろんトーニオは死ぬ。


「陛下、なんなりとお命じ下さい」


 トーニオは命令を待った。


「こちらへ来い……」と、ロランドが呟く。


 周囲に人の気配はないから、誰かに会話を聞かれる心配はないのだが、その用心深さはロランドらしい。トーニオは枕元に膝を付き、顔を近づけた。ロランドの呼気には死臭が混じっている。


「テッサ、執務室……机に隠し棚……指輪と、金貨が、ある。指輪を……娘に渡せ」


 トーニオは目をぱちくりさせた。何の話をしているのか分からない。死の淵で妄言を吐いているのかと怪しんだが、ロランドの目は正気だ。


「探せ……パリンシャット、港の両替商に……金貨を。妻と娘を……探せ……渡すのだ、指輪を」


 ロランドの最後の命令は全くの予想外で、トーニオは混乱した。ロランドに娘がいるなど聞いた事がないし、血縁者の存在を今まで隠し通してきたなど信じられない。だが、病をここまで隠し通してきたロランドならば、あるいは――。


 痙攣する細い指がトーニオの腕を掴んだ。瀕死の病人とは思えぬ力で、細い指が腕に食い込み、痛みが走る。


「なぜ黙って……いる。いつもの軽口はどうし――げふっ!」


 ロランドが吐血した。粘っこく黒い血がどろりと垂れる。それを拭うでもなく鬼気迫る必死の形相でトーニオを見上げる。


 それは初めて見せる表情で、ロランドは本当に死ぬのだ、とトーニオは実感した。


「最後の命令だ……」


 ぜえぜえと異音交じりにロランドが駄目押しする。吐血した血液で喉を詰まらせないようにと、トーニオはロランドを横向きに寝かせながら、やっとのことで言葉を口にした。


「承知しました、陛下。それとも閣下とお呼びしたほうがよろしいでしょうか」


 ロランドは僅かに口元を歪める。

 笑ったのだとしたら、これはもうトーニオの知っているロランドではない。


 安心したのか、再び呼吸が落ち着くのを待って、ロランドは口を開く。

「この命令をもって……お前の所有権を放棄する」


 今度こそトーニオは狼狽した。


「えっ!? それはどういう……意味です?」


「言ったとおりだ……お前の所有権をお前自身に返す。エリオに戻って自分の人生を生きろ」


 世界がぐるぐると回転するような混乱がトーニオを――いや、エリオを襲った。


 自分はロランドの所有物である、ということが、これまでのエリオにとって全ての前提だった。それが現在のエリオの根本なのだ。それを失ったら――エリオは思わず問う。


「俺はどうすれば……何をしたらいいのですか」


「自分で考えよ。考えるのは得意であろう……」


 声こそ弱々しくか細かったが、言葉は冷酷で厳格なロランドのものだ。


「だが、今は、最後の命令を……頼む。夜が明ける前に出発するのだ……誰にも見られてはならぬ……」


 腕に食い込むロランドの指から力が抜けた。それに気付いて、エリオはロランドの手を取りベッドの上にそっと置く。


「お任せ下さい、陛下」


 エリオは立ち上がり、ロランドから離れた。糸の切れた人形のように横たわっている主君を最後に一目見て、天幕テントから出る。


 そしてエリオは命令に従って、夜の内に人知れず帝国軍の野営地を抜け出した。

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