4.トーニオ ―盟約暦1006年、冬、第10週―
帝国軍の野営地はたくさんの篝火によって、夜とは思えぬほど明るかった。真冬の寒さから身を守るためで、それはテッサニア陣営も同様である。
トーニオは個人用の小さな
戦場で吐血して倒れるまで誰もロランドの不調に気付かなかった。すぐ近くにいたトーニオでさえ、そうだ。周囲に病を隠し通したロランドの精神力は化け物じみている。
だが、そんな化け物でも病に倒れる。そしてもうすぐ死ぬ――そこで、トーニオの思考は停止してしまうのだった。まるでロランドの死の向こうに自分の人生はないかのように。
〝主人のほうが高齢ですし、普通に考えたら先に逝きますよね。その後の事も考えてあるくらいですよ〟
〈白鯨号〉の船上で叩いた軽口は、今や空しいだけだ。
「トーニオ様、ロランド様がお呼びです」と、外から誰かが囁く。
「わかった。すぐに行く」
そう答えて、トーニオは地面に敷いた寝床から音もなく起き上がった。
ぴったりとした黒の上下に、黒く染めた
それらを確認し、寝床に置いた顔まで隠せる頭巾を引っ掴むと、こっそり
たくさんの篝火に照らされていると、それだけ影も多くなる。トーニオは影から影へと進み、誰にも姿を見られないようにロランドの
ロランドの指示だろうと思いつつも、トーニオは警戒して近付き、気配を確認して中に入る。
横たわるロランドの呼吸は浅くて早かった。元々細かったが、今は不健康にげっそりとして頬はこけ、顔は土気色で唇は青い。急激に衰弱しているのが見て分かる。
トーニオが音もなく近付くと、ロランドはゆっくりと目を開けた。
「……来たか」
トーニオはロランドに呼ばれることも、何を命じられるかも、予測していた。ロランドはレスターの暗殺を命じるはずだ。
いかなトーニオといえども、レスターの暗殺は容易ではない。そもそもトーニオにさえ予測できたのだから、レスターが予測していないとも思えない。警戒は厳しいだろう。
だが、死にゆくロランドには他に望みなどあるはずもない。
そして、成功する可能性も皆無ではない。失敗すればもちろんトーニオは死ぬ。
「陛下、なんなりとお命じ下さい」
トーニオは命令を待った。
「こちらへ来い……」と、ロランドが呟く。
周囲に人の気配はないから、誰かに会話を聞かれる心配はないのだが、その用心深さはロランドらしい。トーニオは枕元に膝を付き、顔を近づけた。ロランドの呼気には死臭が混じっている。
「テッサ、執務室……机に隠し棚……指輪と、金貨が、ある。指輪を……娘に渡せ」
トーニオは目をぱちくりさせた。何の話をしているのか分からない。死の淵で妄言を吐いているのかと怪しんだが、ロランドの目は正気だ。
「探せ……パリンシャット、港の両替商に……金貨を。妻と娘を……探せ……渡すのだ、指輪を」
ロランドの最後の命令は全くの予想外で、トーニオは混乱した。ロランドに娘がいるなど聞いた事がないし、血縁者の存在を今まで隠し通してきたなど信じられない。だが、病をここまで隠し通してきたロランドならば、あるいは――。
痙攣する細い指がトーニオの腕を掴んだ。瀕死の病人とは思えぬ力で、細い指が腕に食い込み、痛みが走る。
「なぜ黙って……いる。いつもの軽口はどうし――げふっ!」
ロランドが吐血した。粘っこく黒い血がどろりと垂れる。それを拭うでもなく鬼気迫る必死の形相でトーニオを見上げる。
それは初めて見せる表情で、ロランドは本当に死ぬのだ、とトーニオは実感した。
「最後の命令だ……」
ぜえぜえと異音交じりにロランドが駄目押しする。吐血した血液で喉を詰まらせないようにと、トーニオはロランドを横向きに寝かせながら、やっとのことで言葉を口にした。
「承知しました、陛下。それとも閣下とお呼びしたほうがよろしいでしょうか」
ロランドは僅かに口元を歪める。
笑ったのだとしたら、これはもうトーニオの知っているロランドではない。
安心したのか、再び呼吸が落ち着くのを待って、ロランドは口を開く。
「この命令をもって……お前の所有権を放棄する」
今度こそトーニオは狼狽した。
「えっ!? それはどういう……意味です?」
「言ったとおりだ……お前の所有権をお前自身に返す。エリオに戻って自分の人生を生きろ」
世界がぐるぐると回転するような混乱がトーニオを――いや、エリオを襲った。
自分はロランドの所有物である、ということが、これまでのエリオにとって全ての前提だった。それが現在のエリオの根本なのだ。それを失ったら――エリオは思わず問う。
「俺はどうすれば……何をしたらいいのですか」
「自分で考えよ。考えるのは得意であろう……」
声こそ弱々しくか細かったが、言葉は冷酷で厳格なロランドのものだ。
「だが、今は、最後の命令を……頼む。夜が明ける前に出発するのだ……誰にも見られてはならぬ……」
腕に食い込むロランドの指から力が抜けた。それに気付いて、エリオはロランドの手を取りベッドの上にそっと置く。
「お任せ下さい、陛下」
エリオは立ち上がり、ロランドから離れた。糸の切れた人形のように横たわっている主君を最後に一目見て、
そしてエリオは命令に従って、夜の内に人知れず帝国軍の野営地を抜け出した。
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