3.ハイマン ―盟約暦1006年、冬、第10週―

 〈盟約〉に守られたファランティアといえども、一〇〇〇年の間ずっと争いが無かったわけではない。最後にファランティアで起こった騒乱は、およそ三〇〇年前の竜騎士戦争である。


 レッドドラゴン城はその名のとおり、竜騎士戦争時代には赤竜騎士クロードの居城であった。


 竜騎士が二つの陣営に分かれて争ったその時代、すでにファランティア人は町や城などの拠点を取り合う戦いをしておらず、野戦での決着を常としていた。何故なら、空を飛び、強大な力を持つドラゴンと竜騎士に対抗できるのは同じドラゴンと竜騎士だけで、高く強固な城壁を作っても意味がないからだ。


 王都ドラゴンストーンはまさしくそんなファランティアを象徴するような都市である。囲う壁は軍隊の攻撃に備えたものではなく、門は利便性を重視して五つもある。攻撃側はどの門へ攻撃することも可能で、守備側は全ての門を守らなければならない。


 王都の構造に利点があるとすれば、城が都市の中心にあって最も高い場所である、という事くらいだ。城に本陣を置けば、壁の外にいる敵の動きまでも見渡せる。


 ハイマンはこれを利用して、五つの門には少数の守備隊のみを置き、本隊は城に待機させた。城からは広い幹線道路と環状道路でどの門にも急行できるから、敵の動きを見てから本隊を動かすという作戦である。


 ファランティア王国軍が王都ドラゴンストーンに退却した日の深夜、レッドドラゴン城と五つの門は煌々と篝火に照らされていた。王都の外に設営された帝国軍の野営地も同様である。


 帝国軍は長期間に渡って王都を包囲するような準備はしていない。夜陰に乗じて動く気配も今のところないので、おそらく明け方を待って攻撃してくるつもりだろう。


 白竜門へと続く正門の塔から、王都の南東に陣を置く帝国軍の様子を見てハイマンはそう結論付けた。踵を返してその場を離れ、中庭へと下りる。


 それから馬に乗って、一人で城を出た。


 ランタンの明かりで足元を照らしながら暗闇の町を行く。王都は誰もが息を殺しているようで、しんと静まり返っている。


 わっ、と大声でも上げたい気分になったが、たとえ誰も見ていなくともそんな突飛な行動はできない。代わりに拳で自らの太ももを叩く。


 ハイマンは王都まで退却した自分の判断を後悔していた。ブランを頼り、信じてしまった自分が許せなかった。ブランの〝次なる策〟とやらは、王都を守るものではなかったのだ――。


「戦いには犠牲がつきものだ。勝つためには、特にな」と、巨漢の王は言った。


 ハイマンが目で問いかけると、テイアラン五〇世は怯えた声で答える。

「ブラン王にお任せしましょう」


 ――思い返すと、再び怒りが燃え上がった。

 冬の凍えた夜風の中でも、顔が火照っていると感じられるほどに。


 ハイマンは貴族が多く住む東区まで馬を進めた。


 多くの貴族が軍に合流していて、家族は王都から避難させているから、ほとんど無人の街になっている。


 灯り一つなく静まり返った我が家の前を通り過ぎながら、ハイマンは自分の領地にいるはずの妻や子供たちの事を考えた。


 ストラディス家の領地は田舎だが、東部の南端一帯という広大なものだ。帝国軍はホワイトハーバーより南の地域には全く手出ししていないが、それも王都の戦いが決着するまでかもしれない。


 ハイマンの目的地はこの街で唯一、平時と同じく明かりを灯している館だ。門の前で馬を止め、「夜分に申し訳ないが」と呼びかけるも、誰かが出てくる気配はない。


 それもそうか――と、ハイマンは馬を下りて呼び鈴を鳴らし、門に手をかける。閂は掛かっていなかったので、門は押せば開いた。勝手に馬を庭まで入れて適当な場所に繋ぐ。


 館に向かって前庭を歩いていくと、正面玄関の扉が開き、中から明かりを持った人物が出てきた。つるりとした禿頭の丸顔で体型もふっくらと丸みを帯び、柔和な印象だが、その言葉は見た目ほど優しくはない。


「こんばんは。ハイマン将軍」

 ゆっくりとした物言いで、モーリッツはハイマンを出迎えた。


「主人自ら出迎えとは。家人はどうした?」


 ハイマンが問うと、モーリッツはわざとらしく驚いたような顔をして答える。


「おや、ご存知ありませんでしたか。私はもともと、召使いも家令も抱えておりませんよ。金の無駄ですからね。領地は妻に任せておりますし、普段からこの館には私一人です」


 そう言って、モーリッツはハイマンを館の中へと招く。

「どうぞ中へ。ここでは言葉さえ凍り付いてしまいそうです」


「うむ」


 館の中を案内されて、ハイマンは応接間に通された。モーリッツが燭台に火を移して部屋を明るくする間、勝手に長方形のテーブルの奥に座る。


「少々お待ちを」

 モーリッツはそう言い残して部屋を出ていった。


 一人残されたハイマンは応接間を見回した。


 世間ではモーリッツを成り上がり者だとか金の亡者だとか言う者も多いが、部屋は必要最低限の装飾しかない質素なものだ。地方貴族のほうがまだ飾っているだろう。


 モーリッツに関しては真偽の定かでない噂話も多く、元より貴族ではないとか、そもそもファランティア人ではないという話もある。


 少なくともハイマンの知っている事実としては、モーリッツは二〇代の頃にブレーマン家へ婿入りし、小さく貧しかった領地に富をもたらした。その手腕を買われて先々代のテイアラン四八世に召し上げられ、王都でも着実に実績を重ねて内政長官にまでなった、というものだ。


 少しして、モーリッツは長方形のトレイに紅茶を淹れるための道具や食器を乗せて戻ってきた。それを見てハイマンはきっぱりと言う。


「長居するつもりはない」


 しかし、モーリッツには通用しなかった。


「まあ、そうおっしゃらずに。夜が明けて帝国軍が攻撃を始めるまでお暇でしょう。それに、この茶葉は東方から仕入れた高級なもので、ちょうどあと一回分残っているのです」


 確かにモーリッツの言うとおり、ハイマンにやるべき事は残っていない。終わりの始まりを待つばかりだ。しかし事実だからこそ指摘されると面白くない。


 モーリッツはハイマンの返事も待たずに紅茶を淹れる準備を始めた。目の前でそんな事をされれば、無視して立ち去るのも無作法である。仕方なく、ハイマンは腕を組んで待った。


 暖炉にかけられた湯が注がれ、紅茶の香りが部屋を満たす。聞こえるのは、食器を触るかちゃかちゃという音だけだ。ハイマンは自分で紅茶を淹れたことがないので、モーリッツの手馴れた所作に感心してしまった。もちろん、それは口にも顔にも出さない。


 紅茶がハイマンの前に置かれ、モーリッツは自分の分を手にしてハイマンと反対側の席についた。長いテーブルを挟んで二人は向かい合う。


「さて、それではご用件をお聞きしましょう」と、モーリッツは紅茶の香りを楽しんでから言った。


「城下にまだ伯が残っていると聞いて来た。どうするつもりなのかと思っただけだ。伯なら誰よりも早く、この事態を予測していたはず。なぜ逃げない?」


「それは買いかぶりというものです。逃げる間などありませんでした」


 見え透いた嘘を――ハイマンはモーリッツを睨んだ。


「言葉遊びをするつもりはないのだ、モーリッツ。本当に逃げそびれたのなら、せめて城内に来て最後まで勤めを果たせ」


「勤め……ですか。今は私にできる事などありませんよ。将軍ならお分かりでしょう。城内でも城下でも、どこにいても同じ事です。言うなれば、そうですねぇ……愛するものの手を握ったまま一緒に最後を迎えたいという気分なのです」


「言葉遊びをするつもりはないと――」


 その言葉を遮って、モーリッツは話し始めた。相手の言葉を逆手に取って主導権を握るのがモーリッツという人物の会話術だったから、それは珍しい事だ。


「私にとって、ファランティア王国は最も理想に近付いた国家でございました。外敵に脅かされることなく育まれた社会と文化は、強き者が権勢を揮い、弱き者から搾取する事を当然とする外の世界とは全く違う社会へと向かっていました。ご存知のように、それでも幾度かの動乱はありましたが、それは人の性というものなのでございましょう。それでも、あと五〇年あれば……貴族と平民の差は肩書き程度の違いへと変わっていたに違いありません。そしてその先に私の理想とする国家が……一人の王が国の未来を決めるのではなく、民の一人一人が王として国の未来を決める。そんな社会が……あったかもしれません。ですがそれはドラゴンの守護があってこそのものでした。その証拠に、ドラゴンが去り、あっという間にファランティア王国は外の世界に飲み込まれてしまった」


 モーリッツは紅茶を一口含んでから、話を続ける。ハイマンは黙って聞いた。


「ブラン王率いる北方の戦士たちがドラゴンの代わりになるのではと思った瞬間も、私にだってありました。しかし彼らは所詮人間です。ドラゴンたちは見返りなど求めませんでしたが、ブラン王は見返りを……いいえ、それ以上のものを求めておられます。かの王の目論みはきっとこうでしょう。ファランティア王国を餌にしてレスターを釣り上げ、王国ごと食らう。そして前菜の後は帝国という主菜が待っているわけです」


 ハイマンは、モーリッツが自分と同じ結論に達している事を驚きはしなかった。盟約の時代、事ある度に対立してきたからこそ、モーリッツの知見は認めている。むしろ、自分などよりずっと早い段階で分かっていたのではないかと思っているほどだ。


 だが、続くモーリッツの言葉には度肝を抜かれた。表情に出さぬよう気にする事すらできないほどに。


「おそらく、テイアラン四九世陛下を殺害したのはブラン王です」


「なっ……」


「これは、ステンタール卿の部屋の暖炉から見つけたものです。他にも怪しい点について列挙して差し上げることもできますが、もうその必要はないでしょう?」


 モーリッツはローブの裾に手を突っ込み、端の焼け焦げた紙を取り出してハイマンの前に広げる。そこには『ブランは陛下を裏切り、殺――』と書かれていた。最後の文字は書く途中で止めたように見える。


 ハイマンはいつもの無愛想な表情に戻すこともできず、言葉を失ってその紙を見つめていた。その間にモーリッツは座り直して話を続ける。


「正直に申し上げますと、私はテイアラン四九世陛下をお守りすることに興味はありませんでした。私の目的は、このファランティア王国の国家体制を維持すること。この社会と文化を守ることでした。今更ですけれども、そうすることが可能な唯一の選択肢は、帝国に降伏することだけでしたね。しかし陛下はブラン王にすがってしまわれた。あの時、あの大広間で唯一私だけが絶望していたのでしょう。皆がブラン王を希望の星のように眺めておりましたし、かの王は生き生きと輝いておりました」


 話すべきことを全て話し終えたのか、モーリッツは沈黙して、ゆっくりと紅茶を嗜む。


 〝陛下を守ることに興味がない〟などと、主君に対する裏切りの告白である。ステンタールが聞いたら顔を真っ赤して剣を手に詰め寄るだろうな――と、ハイマンはその場面を想像した。それは大変な事件になるだろうが、意外な事に、愉快な妄想であった。


「私は今でも将軍として王国軍を動かせる。ブランを討ち、先王の仇を討つこともできるだろう。我々のほうが北方人より数で勝っているし、連中は我々を甘く見ているからな」


「ステンタール卿なら、そうすべきと言ったでしょう」


 思わず、ハイマンは無愛想な顔つきに戻って昔の調子で言い返した。


「私はモーリッツ伯に聞いているのだ」


「それは大変、失礼いたしました」


 モーリッツもまた昔に戻ったようにそう言ってから、続ける。


「ハイマン将軍なら、私の答えなど聞かずともお分かりでしょうけれど、敢えて尋ねておられるのなら、お答えしましょう。もしそうなさった場合でも、王都は戦場になります。四つの軍が争い合う混乱の中で王都は破壊され、たくさんの人が死ぬでしょう」


「四つの軍?」とハイマンは聞き返した。


 ファランティア王国軍、北方連合王国軍、アルガン帝国軍――三つの間違いではないのか、と。


 モーリッツはゆっくりと頷いた。


「テッサニアのロランドに野心あり、と私は見ています。こちらが内紛を起こせば、レスターはその期に乗じます。ロランドはその柔らかい脇腹を突こうとするのではないでしょうか」


 モーリッツの物言いがハイマンは嫌いであった。だから今も胸の内に苛立ちを感じていたが、同時にそれを懐かしいとも感じている。そして一つの可能性に思い至った。城の会議室であれば決して口に出すことは無かっただろうが、今ここには二人しかないので、遠慮の必要はない。


「もしや貴様、密かに帝国と結ぼうなどと画策しておったのではなかろうな?」


 それを聞いて、モーリッツはローブの裾で口元を隠した。笑ったのかもしれない。


「さすがはハイマン将軍。よくお分かりで。確かに、画策はしました。しかし誓って申しますが、実行はしておりません。なぜなら結局は――」


「四つの軍による戦いの中、王都は破壊されるからだ」


 のろのろした物言いに苛立って、その最後をハイマンは引き取った。モーリッツは嘘っぽい笑顔を見せながら深々と頷く。


 それから、二人は長い時間を沈黙して過ごした。

 ハイマンは無力感に苛まれていた。そして、それはモーリッツも同様だったろう。


 対立する事も多かったが、一番長い付き合いになってしまった。


 モーリッツだけが唯一、盟友と呼んでもいい存在になってしまった。


 二人だけになってしまった。


 そして唐突に、ハイマンは気付いた。

 事実上、ファランティア王国はもう滅んでいるという事に。


 こみ上げる涙と嗚咽をハイマンは全身全霊をもって耐えた。モーリッツが見ているのだ。


 動揺の波が過ぎて、震え声にならないのを確信してからハイマンは口を開く。


「……結局、我々にできる事はもう無いのだな。私はブランの指示に従って王国軍を動かすしかない」


 だからこそ、モーリッツはあんな話をしたのだろう。誰かに本心を話しておきたかったのだ。それに相応しい相手はもうハイマン以外にいないから。


(気味の悪い話だが、モーリッツも人の子という事か……)


 モーリッツは沈黙を答えとした。

 ハイマンは椅子を倒しそうな勢いで、すっくと立ち上がる。


「ならばせめて、最後まで生き残れるよう努力することだ」


 ハイマンは冷めてしまった紅茶を一気に飲み干し、扉まで歩いた。背後でモーリッツが言う。


「ご武運を。ハイマン将軍」


 彼がいつものように頭を下げているだろう事は、振り向かずともハイマンには分かった。だから、そのまま扉を開いて部屋を出て、屋敷を後にした。


 レッドドラゴン城に戻って馬を預けたハイマンは、大塔グレートタワーに向かう途中で呼び止められた。


「将軍、ハイマン将軍!」


 帝国軍が動いたか――と、一瞬緊張したハイマンだったが、呼び止めてきた相手は伝令ではない。


 土埃にまみれて汚れているものの、身に着けた甲冑は立派なものだ。篝火に照らされて陰影がはっきりとした顔は、無精髭に覆われていてもファランティア人のものではないと分かる。


 まさか――ハイマンは驚きに目を丸くした。


「ギャレットです、ハイマン将軍。自由騎士の叙勲を受けた――」


「ギャレット!? ギャレット卿か!」


 騎士が名乗るのと、ハイマンが声を上げたのはほぼ同時だった。


「まさか生きているとは……ということは、もしやグスタフ公も!?」


 期待を込めてハイマンは問うたが、ギャレットは首を横に振る。

「いえ、残念ですが、自分一人です」


「そうか……」と、嘆息するハイマンにギャレットは言った。


「参上するのが遅くなってしまい申し訳ありませんでした。王都に到着したのは門が閉ざされる直前で……もし時間があるのでしたら、詳しい話もできますが」


「うむ。帝国軍が動くまではやる事がない。そうだな……」


 ハイマンは腕を組み、口髭の端をつまんで考える。


 ギャレットに言ったとおり、戦いの準備はできていた。ハイマンは戦いが始まるまで、本陣となっている大広間にいるつもりでいる。だからギャレットを連れて大広間に行こうと思ったが、そこには北方人もいるはずだ。把握していないがブランもいるかもしれない。モーリッツの話を聞いてしまった今、ブランとは不必要に顔を合わせたくない。


「では、私の部屋へ。埃を落とす湯と髭剃りも用意させよう」


 ハイマンはさっさと歩き出した。ギャレットも「心遣い、感謝します」と言いながら後を追う。


 二人は東棟へと向かった。


 かつて住み込みの侍女たちが使っていた部屋は、今では身分の高い貴族や騎士、要人の部屋となっている。住み込みの侍女も数人を残して城から出てしまったし、テイアラン五〇世の命により〈王の居城〉で寝起きを共にしているので、東棟に残っている侍女はいない。


 ハイマンの部屋で長旅の埃を落としながら、ギャレットはこれまでの事を語った。夜明けまで続くかと思われたほど長い話の末、最後にギャレットはハイマンに問う。


「自分はこれまで、何度も騎士たちの最後を見てきました。彼らは皆、何かに縛られていた。騎士の称号そのものや、叙勲の時の誓いや、家名、名誉、人々の期待に。彼らは不自由でありましたが、迷いが無かった。どう生きるべきか、あるいは、どう死ぬべきかを知っているように見えました。自分は結局、剣を振るう以外の人生を見つけられなかった。ならば、最後まで迷い無く剣を振るいたいのです。ハイマン将軍、自由騎士とは何に仕える者なのでしょうか。自分は、何のために戦えば良いのでしょうか?」


 ハイマンは即答できなかった。


 正直に言えば、自由騎士という称号は単なる肩書きで深い意味はない。外国人で傭兵出身のギャレットにファランティアの騎士道が理解できるとは思えなかったから、その剣の腕前と戦いの経験を利用するために与えたものでしかなかった。


 だが、正直にそう答えるわけにはいかない。ギャレットの目は真剣そのものだ。


 もはや戦いの趨勢はほとんど決し、ギャレット一人にそれを覆す力などない。だから彼を利用するためでなく、死地と知りながら赴いた忠誠心に報いるため、ハイマンもまた真剣に考えなければならなかった。


 ギャレットを自由騎士として叙勲したのは、先王テイアラン四九世であるから、王に直接仕える者というのが正しく思える。もしこれを答えとし、また、モーリッツの話まで聞かせれば、ギャレットに主君の仇討ちを命じる事も可能だ。北方最強の戦士とも言われているブランだが、ギャレットならば討てるかもしれない。


 しかし、今さらブランを討ってどうなるというのか。モーリッツの予想が現実になるだけだ。


 ファランティア王国に仕える者だと言っても、実質的にはすでにファランティア王国は滅んでいる。ブランが勝っても、レスターが勝っても、土地は勝者のものになり、権力構造は再編される。


 社会を守れ、文化を守れ、というのも曖昧すぎて迷わせるだけだ。ギャレットは騎士であって政治家でも哲学者でも、ましてや芸術家でもない。


 騎士とは本来何であるか、そんな根本的な問いにまで考えが及んだ時、モーリッツの言葉が思い出された。


 〝民の一人一人が王として――〟

 ハイマンはそこに答えを得た。


「国とは王あってのものではなく、民あればこそのもの。民を守るために戦う事こそ、国を守るという事であり、騎士の本分である。自由騎士は何に縛られる事なく、自由に、その本分に従えばよいのだ」


 その言葉を心に刻み付けるように、ギャレットは一拍の間、目を閉じた。


「ありがとうございます、ハイマン将軍。自分が何をすべきか、よく分かりました。この手の届くかぎり民を守り、この剣の届くかぎり民の敵を討ちます」


 感謝したいのはむしろハイマンのほうであった。自分にもまだできる事があると分かったからだ。全てを諦めてブランに従い、兵を動かすのではなく、少しでも民の犠牲を減らせるように努力する事はできる。そのために、王国で最も高い技量と練度を持つ近衛騎士団を動かせれば守れる命もあるに違いない。


「夜明けが近い。もうすぐ戦いが始まり、王都が戦場になるだろう」


 そう言ってハイマンは立ち上がると、ストラディス家の紋章と将軍職を示す徽章が描かれたマントを外し、ギャレットに差し出した。


「これを身に着けておけ。王都のどこにでも入れるし、ファランティア兵なら誰でも命令に従う。お前の戦いの役に立つはずだ」


 ギャレットは椅子から立ち上がり、「はい」と言って遠慮もなくマントを受け取った。「うむ」とハイマンは満足げに頷いて、「では、な」と言って部屋を後にした。


 東棟を出たハイマンはひとまず、大塔グレートタワーの大広間に向かった。主君がそこにいなければ〈王の居城〉の自室にいるはずだ。


 夜明けを前にして東の空は白み、空気はぐっと冷え込んでいる。人も馬も、誰の口からも白い息が立ち上り、仮眠を取っていた兵士たちも動き始めている。


(この寒さが、少しでも帝国軍の活力を奪ってくれたらいいのだが)


 ハイマンはそう願った。

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