2.レスター ―盟約暦1006年、冬、第10週―

 帝国軍は準備を終えて、進発の命令を待っていた。その命令を出すレスターは整列した軍団の後方にいて、脚を組んで椅子に座り、コーヒーを待っている。


 つまり、合流したテッサニア軍と合わせて三万の兵からなる軍団が、たった一杯のコーヒーを待っているのだ。


 エルシア大陸では庶民から王までコーヒーを飲むが、もちろん同じものではない。上流階級の人々が飲むコーヒーは豆から違うし、一部の貴族などはコーヒーを淹れる専門の給仕――コーヒー職人――を側に置いている。


 コーヒー職人の中には独自に豆を配合して風味を調節する技術を持つ者もいて、今レスターの傍らでコーヒーを淹れている男もそうだ。錬金術の実験か、治療師の薬調合か、というような器具を使い、作業の内容もそれらに似ている。


 コーヒーには精神を落ち着かせる効能があると言われているから、薬の調合と形容してやったほうが適当かもしれない。周囲を満たす芳香は確かに良いものだが、そこまでの効能はないとレスターは思っている。


「どうぞお召し上がりくださいませ。皇帝陛下」


 コーヒー職人が、黒い液体の入ったカップを皿に乗せて差し出した。レスターはカップだけを持ち上げ、香りを楽しんだ後、口に含む。


 苦い――レスターは心中で顔をしかめた。だが表面上は「うん」と満足げに頷いて、「よいコーヒーだ」と職人を労った。


 コーヒー職人はほっと安堵して、深々と頭を下げる。

「ありがとうございます。皇帝陛下」


 実はコーヒーをおいしいと思っていない、というのはレスターの秘密の一つである。本当は甘いものが好きだ。その嗜好に従えば、コーヒーには砂糖をたっぷり入れなければならない。


 しかし、大きな戦いの前に何も加えない濃いコーヒーを飲む、というのはレスターの習慣であった。厳密には、彼の兄サイラスの習慣であったが、それを口にする者はもういない。それほどレスターの習慣として印象付けられている。


 これはレスターにとっても儀式のようなものだった。この濃くて苦いコーヒーを口にするたび、レスターは思う。


(なぜ兄上はこんなものを飲んだのだろう……)


 その疑問はレスターに兄の存在を思い出させ、同時に自分が何者かを思い出させる――。


 レスターの兄サイラスは彼の目の前で魔獣に殺された。


 血溜まりに倒れ、死を間近にしてさえ、サイラスは笑みを浮かべて瞳は希望に輝いていた。


 兄は、立ち尽くすレスターに語り掛ける。

 〝レスター、俺は――〟


 そこから先を思い出そうとしても、まるで靄がかかったように思い出せない。記憶がはっきりするのは帰路の途中からだ。


 当時父はすでに亡く、兄が王位についていたから、慣習に従ってレスターは王になった。女性が王位につく事は許されていないから、いずれレスターが王位につくのは予想できた事である。


 それでもレスターにとって、自分が王になるというのは全く予想外の出来事だった。天からあらゆる才能を授かったような完璧なサイラスが死ぬなどと、考えた事も無かったからだ。


 周囲は先王サイラスの仇を討てと言うが、そうするにしても、何をすればいいのかレスターには分からなかった。〝困ったら、俺に聞け〟と、サイラスはいつも言っていたが、死んでしまっては聞きようがない。


 だからレスターは思い出の中の兄を頼った。

 兄上なら、どうしただろう――そう考えれば、すぐに答えは得られた。


 レスターは常に、記憶の中の兄に問うてきた。

 だからレスターは、兄サイラスを模倣した偽者に過ぎない。


 しかし、今ではそんな風に考える事も無くなった。

 模倣し続けた結果、レスターはサイラスそのものになったからだ。


 〝兄上なら、どうしただろう〟と自問する事も、もう無い。


 戦いを前に苦いコーヒーを飲む習慣も、今や自分のものであって兄のものではないのだ――。


 伝令がやって来たのを視界の隅に捉えたレスターは、考えるのを止めてカップを口元から離した。コーヒー職人が素早く皿を差し出してそれを受け取る。


 伝令を伝え聞いたバーナビー司令官の後任ダンカンは、レスターの傍らにやって来て片膝を付いて報告した。


「ファランティア軍は王都ドラゴンストーンの前で停止した、との事です」


 予想通りか――レスターは頷き、さっと立ち上がる。


「予定の位置まで全軍前進」


「はっ」


 レスターの命令にダンカンは立ち上がり、「全軍、前進!」と声を張った。


 待機していた伝令が一斉に駆け出して馬に飛び乗り、命令を繰り返しながら走っていく。合図の角笛が響き渡って、帝国軍は前進を開始した。レスターも馬上の人となる。


 エルシア大陸では経験したことのない冷たい風が吹いて、人馬の白い吐息が湯気のように上がった。冬枯れの植物と剥き出しの大地が続く茶色の景色の中、赤と黒の帝国色に身を包んだ軍勢が大地を揺らして進んで行く。


 視界の隅で時折キラリと光るのは、王都の南にあるハスト湖から流れ出るソレイス川の水面だろう。


 これまで予想外続きだったこの戦いも、次の一戦で終わる。結局こうなるのであれば、最初からこうしておれば良かった――と、レスターは思った。


 ファランティアをなるべく無傷で手に入れる、という考えは幼い日の自分――いや、兄サイラス――の言葉に端を発する。


 幼い頃、ファランティアでの滞在を終えた帰路の船上でサイラスはレスターにこう言った。


 〝素晴らしい国だったな、レスター。民は魔獣に怯えることなく、穏やかに平和に暮らしている。俺たちの国とは大違いだ。俺たちはこういう国を手に入れなきゃいけないんだ〟


 それ以降も、サイラスは事あるごとにファランティアの名を口にした。大切なもののように、憧れを持ってファランティアを語った。


 今のレスターはサイラスなのだから、可能な限り傷つけたくないと考えるのは当然で、間違ってはいないはずだ。


 ――だからこそ。


 ぞわり、とレスターの心の中で闇が蠢く。


 ――もうすぐだぞ。


 闇は囁く。


 うつむいたまま、呆けたように馬の首を見つめている自分に気が付いてレスターは顔を上げた。奇妙な胸の疼きを誤魔化すように、隣を行くダンカンに話しかける。


「ダンカンは、雪が降るのを見た事はあるか?」


「ありません、皇帝陛下」


 レスターは空を見上げた。澄んだ青空に薄い雲がいくつかあるだけで、雪が降ってくる気配はない。


「この辺りは雪が降るそうですね」とダンカンが言った。


 レスターはニコリと笑みを浮かべてから、正面を指差し、周囲の人々に聞こえるようにして言う。


「うん、その時はあそこで、暖かい部屋の中から見物しよう」


 指し示す方向には、レッドドラゴン城の先端が見えてきている。


 戦いの時が迫り、神経質になっていた人々もつられて笑顔になった。皆がレスターの言葉に同意する。


 やがて木立の向こうに王都と、その前に布陣するファランティア軍が見えてきた。


 王都はレッドドラゴン城を頂点にして緩やかに盛り上がっている。とても自然に出来たとは思えない美しい形だ。


 先行していた帝国軍の本隊はすでに停止して、隊列を整えて皇帝を待っている。レスターはその間をゆっくりと馬で抜けると、最前列より前に出た。


 頭の中の地図と照らし合わせても、王都を背負ったファランティア軍は予想通りの位置に布陣している。少し予想と違ったのは、単なる集団に過ぎないファランティア軍が陣形を整えようとしている事だ。楔形陣形を作ろうとしているようだが、まったく不完全なもので、思わず笑みがこぼれる。


 自軍左翼のテッサニア軍も打ち合わせたとおりの位置だ。

 よし、始めるか――と、レスターは大きく息を吸い込んだ。


「諸君、ここまでの長い道のりご苦労であった。見よ、あれが目的地である。帝国全土にもあれほど美しい都市はない。この戦いが終われば、あの都も帝国のもの――諸君らのものとなる。故郷に帰るのもいいが、故郷から家族を呼び寄せるのも良かろう。気に入った家があれば名前を書いておくのを忘れるな!」


 すでに勝利が確定したかのように拍手喝采と笑い声が上がり、それが全軍に伝播していった。その声は当然、ファランティア軍にも響いているだろう。レスターが馬を走らせ、兵士たちに自らの姿を見せ終える頃、喝采の声は徐々に静まってきた。それを待ってレスターはさっと手を挙げ、再び声を張る。


「これまで蛮族の長弓ロングボウには煮え湯を飲まされてきた。それは認めよう。余も怒りにはらわたが煮える思いだ。今こそ、怒りを解き放つ時である。だが忘れるな、諸君は栄光あるアルガン帝国の兵士である。あのように――無様であってはならない!」


 ファランティア軍を指差すと、また笑い声が上がった。今度はすぐに手で抑える。


「統制を乱すな。軍隊とはこういうものだと手本を見せてやろう。威風堂々と、前進せよ!」


 合図の角笛が伝播して、どん、どん、と太鼓がゆっくりとしたリズムを刻む。兵士たちはそれに合わせて一歩、また一歩と前進を始めた。三万人の兵士が足並みを揃えて前進しているので、一歩ごとに地響きがする。


 帝国軍の前進は非常にゆっくりとしたものだったので、ファランティア軍には対応するのに充分な時間が与えられた。楔形陣形――そう呼べるほどしっかりしたものではないが――の先端が、レスター率いる本隊のほうを向く。


 もちろん、これは作戦どおりである。


 左翼のテッサニア軍に目をやると、こちらの動きに合わせすぎているような気もしたが、初動から気取られないようロランドが上手くやっているに違いない。


 帝国軍の前衛が一斉に大盾タワーシールドを構え、その後列は盾を持ち上げて屋根のようにする。そろそろ長弓ロングボウの射程に入るためだ。何度もやられているので、敵の射程はほぼ把握できている。


 予想通り、長弓ロングボウの一斉射があって、死を呼ぶ不吉な音を立てて矢が帝国軍の前衛に降りそそぐ。


 レスターはもう一度左翼を見て、今度はぎょっとした。

 テッサニア軍が動いていない。


 予定通りならすでに、ファランティア軍と王都の間に入って、王都からの援軍と分断するよう動き出していなければならない。


 経験の少ない無能な指揮官なら間違いも犯すだろう。だが、レスターはロランドの指揮能力に関しては疑ったことがない。だから最初にレスターの脳裏を過ぎったのは、ロランドの裏切りであった。


 〝裏切り〟という言葉に、レスターの胸がどくんと脈打ち、戦いの興奮に似た何かで頭の芯が熱くなる。


 これまでファランティア軍が見せた見事な後退戦術は、とてもファランティア人にできるものではないから、レスターはそこにブランの影を見ていた。今ではブランを単なる猪とは見做していない。長弓兵を集めていたのも、帝国のクロスボウ部隊に対抗するためだったのではないかと勘繰るほどだ。


 もしブランとロランドが繋がっているとしたら――レスターは素早く考えを巡らせた。


 テッサニア軍がファランティア軍ではなく帝国軍の後ろに付けば、こちらが挟撃される形になる。後退できない状況で長弓ロングボウによって受ける被害は大きなものとなろう。かといって、背後のテッサニア軍に向いても、やはり後ろから長弓ロングボウで射られる。ファランティア騎士の突撃を受けるかもしれない。


 その状況を打破するには、甚大な被害を覚悟して正面突破するしかないが、もし王都に残っているファランティア軍が退路を塞ぐように出てきたら――レスターも経験した事の無い、決死の退却戦となるだろう。


 それがブランの策なら、想像以上に賢しい男だという事になる。ロランドの策だというなら、充分にあり得る。


 充分にあり得るが、しかしロランドがそうするだろうか――。


 仮にレスターを捕らえる、あるいは殺害できたとしても、それは一時の勝利に過ぎない。帝都レスタントに残してきた息子は幼いが、帝国議会の支援を受けて次の皇帝として即位するだろう。帝国議会にロランドの影響力は及んでいないはずだ。エルシア大陸の帝国領土は揺るがない。


 ロランドを王としてテッサニアが独立しても、帝国勢力が食い込んだままの現状では混乱が起こるだけだ。


 ほんの少しの間だけでもテッサニア王を名乗れれば良い――などという短絡的な考えでロランドが動くとは思えない。


 ロランドは裏切っていない、とレスターは結論付けた。

 それ以外の何か不測の事態が起こっているのだ。


「皇帝陛下、テッサニア軍が動きません。伝令を走らせますか?」

 ダンカンが馬を寄せて、鋭く囁く。


「そうだな……いや、待て……あれは?」


 テッサニア軍とは別に、不測の事態が戦場で起こっていた。

 ファランティア軍が後退しているのだ。


 こちらの前衛に被害を与えつつ後退する、というこれまでの戦術をまたもや繰り返している。


(これがブランの指示なら……いや、きっとそうだ)


 レスターはまだブランを見くびっていたと思い知らされた。


 ブランは王都を餌にレスターを釣ろうとしている。あの美しい都と、たくさんのファランティア人の命を犠牲にしてでもレスターを仕留めるつもりなのだ。


 レスターはこれまでサイラスと同様に、自らが指揮する戦場で安全圏にいたことがない。ブランはそれを知っているに違いない。王都が戦場になれば、レスターは必ず王都に入ってくると分かっているのだ。


 背筋がぞくぞくして、レスターは口元を微かに歪めた。

 ブランを手に入れたい――と、この時はっきりレスターは自覚した。


 レスターは馬首を左翼のテッサニア軍へと向けながら、ダンカンに指示する。


「立ち止まれば被害が増えるだけだ。全軍に通達、進軍速度を上げろ。王都に逃げ込むつもりならそうさせてやれ。深追いは無用だ」


「はっ。陛下はどちらに?」


「ロランドの所に行く」


 レスターは馬の腹を蹴って走らせた。ダンカンが慌てて周囲の騎士へ「陛下にご同行しろ!」と命じながら付いて来る。


 完全武装の騎士一〇人に守られて、レスターはテッサニア軍の本陣までやって来た。


 旗や大きな布を組み合わせた急ごしらえの幕に覆われ、隙間を埋めるようにテッサニア人の騎士が立っている。後方部隊からテントを持って来させる時間が無かったのだろう。何か異常事態が起こっているのは明らかだ。


 ロランドの副官であるベルナルドが駆け寄ってきて、レスターを出迎える。

「皇帝陛下、申し訳ございません! 閣下は指揮を執られる状態になく――」


 ベルナルドとレスターの間に、護衛の騎士が馬ごと割って入った。

 レスターは馬を下りると、幕の中へと入っていく。


 ベルナルドはレスターを留め置きたいような仕草を見せているが、皇帝の身体に直接触れて止めるわけにもいかず、結局一緒に中まで付いて来る。


 ロランドは鎧姿で簡易な椅子に座し、レスターの入幕に合わせて頭を垂れた。


「ロランド、何があった? 顔を上げてよい」


 レスターの許しを得て、ロランドは顔を上げる。顔面は蒼白というより土気色をしていて、目は赤く、口の端に血の泡が付いている。胸当てに付いている汚れは彼自身の血だろう。


 ロランドが重病であることは、誰の目にも明らかであった。鎧を着て背筋を伸ばし、座っているだけでも信じられないほどだ。


「……何故、黙っていた?」


 レスターの問いに、ロランドは答えようとして「こふっ」と小さく咳をする。口の端からつうっと血が流れた。


 それを見て、レスターはその場にいる全員に向けて言う。


「テッサニア軍の指揮権をダンカンに与える。ベルナルドは引き続き副官に付け。ロランドはテッサに戻って――」


 畏れ多くも、ロランドは皇帝の言葉を遮った。


「そう申される、と思ったから黙っていたのです。最後まで、ここで、指揮を執ります」


 血の泡を飛ばし、必死の形相で、命を振り絞るようにロランドは言った。


 レスターはその視線を受け止めて思った。


(最後まで、ロランドはロランドというわけか。病に倒れるなど惜しいことだ)


 それは本心である。


 レスターは「わかったよ」と、肩をすくめてロランドの言葉を受け入れた。


「ファランティア軍は王都の中まで撤退した。意味はわかるな?」


 ロランドは頷き、呻くように言う。

「盾を据えた、馬車を五台、ご用意なさいますよう――」


「そうしよう」

 最後まで聞かずにレスターは即答して、ロランドに背を向け、外に出る。


 彼を病に取られた事が、レスターは本当に悔しかった。

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