1.ハイマン ―盟約暦1006年、冬、第10週―
ついに王都が見える距離まで、ファランティア・北方連合王国軍は後退してきてしまった。
ホワイトハーバーから進軍してきた帝国軍に、南部から猛烈な勢いで北進してきたロランド率いるテッサニアの帝国軍が合流してしまい、数の上では帝国軍が完全に勝っている状況である。
(いや、もとより物量では勝ち目がなかったか)
自ら陣頭指揮に立っているハイマンは、疲れて鈍くなった思考を持ち直そうと集中した。
ホワイトハーバーから再び進軍を始めた帝国軍に対して、ファランティア・北方連合王国軍は後退戦術で応戦してきた。
後退戦術という言葉だけなら、ハイマンも外国の戦術書で見たことがある。しかし内容には目を通さなかった。何故ならハイマンにとってもファランティア騎士道は常識であり、〝後退しながら敵に損害を与える〟という出だしの一文だけで受け入れ難いものだったからだ。
この作戦は北方連合王国軍――すなわちブランの発案によるもので、内容の説明を受けている間もハイマンには強い抵抗感があった。だが、ハイマンにとっては不幸な事に、その有効性も理解できてしまった。
帝国軍最大の武器とも言えるクロスボウを射程で上回る
実際これは効果的で、退路を塞ごうとした帝国軍部隊や追撃をしかけてきた騎兵との小規模な戦闘はあったものの、味方に大きな被害を出すこと無く、敵には被害を与えてきた。
北方連合王国軍の
兵士にとっては敵と接触しなくていいのだから危険は少なく、怖い思いをしなくて済む。だが、このような消極的な戦術では士気は上がらない。
そしてなにより、士気の低下が深刻なのは騎士たちだ。
ハイマンと同じように、騎士たちも後退戦術には強い抵抗感を示し、戦線離脱しようとする者までいた。結局は〝女王陛下の命令〟となれば従わざるを得ないが、彼らはこの不名誉な戦いを恥じている。
もし北方連合王国軍がハイマンの完全な指揮下であれば、士気の低下を防ぎ、一時の勝利を得る事ができたかもしれない――ハイマンは頭の中で何度も夢想した戦いをもう一度再現した。
特徴的な方法でクロスボウ部隊を運用する帝国軍は、横に並べた兵を何列も重ねて〝面〟で前進してくる。そこにはこちらを威圧する意図もあるだろう。
(いや、これは妄想に過ぎない。現実逃避だ)
ハイマンは自戒した。
仮に北方兵を自由に使えるとしても、ファランティア兵に組織的な動きは難しいだろうし、テッサニアから来た帝国軍が合流してしまった今となっては兵力差があり過ぎる。まともにぶつかれば包囲されてしまうだけだ。現実的ではない。
妄想の中で人命は失われないが、現実では人間が死ぬ。
だが本当に、最後の望みをかけて、これを実行する時が来たのかもしれなかった。
敢えて振り返りはしないが、背後には王都があるのだ。
これ以上後退するという事は、王都に逃げ込むという事である。王都が戦場になるなど、あってはならない事だ。そもそも、王都ドラゴンストーンは軍隊との攻防を想定して作られた都市ではない。
全方位に五つも門があり、そのうち三つは抜ければレッドドラゴン城まで一直線に幹線道路が伸びている。途中にある第二門は防火設備であって防衛設備ではない。残り二つの門にしても、抜ければ城に到達するのは容易である。環状道路を経由して幹線道路に出れば城まで一直線だ。
「ハイマン将軍」
戦士長のトーレンに呼びかけられ、ハイマンは物思いに耽るのを止めた。その男が近くに来たのは目を向けなくても獣のような体臭ですぐに分かる。
「斥候から連絡があった。帝国軍が前進を始めたってよ」
トーレンは熊を模した鉄製の兜が特徴的な、熊の毛皮で覆われた巨漢の戦士である。それでも、ブランに比べれば一回り小さい。
ハイマンはトーレンを見て、問う。
「ブラン王から何か……下知はあったか?」
ブラン――その名を口にすると、自らの忠誠心を試されているような気分になる。
勇猛果敢な戦士であり、人好きのする豪放磊落な性格でありながら、指揮官としては理に適った戦いをする。話しているうちにいつの間にか尊敬の念を抱いてしまう王の中の王のような男。アデリンとは比ぶべくもない王の器。
ファランティア王国軍の全指揮権を有する自分が、王とはいえ他国の者の意見をあてにするなど屈辱以外のなにものでもないはずなのに、ブランにはこの状況をどうにかする策があるのではないかと期待せずにはいられない。
そんなハイマンの思いを知ってか知らでか、トーレンはいつものようにむっつりと答える。
「これまでと同じだ」
「なに?」
反射的にハイマンは聞き返した。
〝これまでと同じ〟なら、
ハイマンはついに振り返って王都を見た。
とうに霜が下りた真冬の空気は冷たく澄んでいて、草は枯れ、木々からは葉が落ちている。そのためか、王都がはっきりと見える。
そして王都を背負う、ファランティア各地から集まった兵士と騎士たち総勢二〇〇〇〇人。
これだけの軍勢があれば戦えるのではないかと思わせるが、彼らの顔は不安げで士気の低下は明らか。王都まで撤退すると言えば、一目散に逃げ込むだろう。
反対に帝国軍は、
そんな敵が王都に雪崩れ込めばどうなるか。悲惨な結果は目に見えている。
踏み止まって戦うしかない、とハイマンは決意した。
楔形陣形でもって敵陣の奥まで進み、皇帝レスターを討ち取れれば良いが、そんな妄想のような結果にはならないだろう。
それでも、ここにいるファランティア軍が敗れれば降伏する理由にはできるはずだし、善戦できれば一方的な降伏条件に交渉の余地が生じるかもしれない。
ハイマンは〝交渉〟という言葉から坊主頭で丸顔の男を思い出し、苦笑した。まさか自分がモーリッツを頼もしく感じる瞬間が来るなど考えた事も無かったからだ。将軍補佐のディーターを呼び寄せて、命じる。
「ここで帝国軍を迎え撃つ。全軍に戦闘準備を通達せよ。楔形陣形を取れ」
「はっ……え?」
ディーターは困惑した表情で、そう言った。
楔形陣形については口頭でしか説明した事がない。まともな陣形にすらならないだろう。もちろんそれは分かっている上でハイマンは命令している。全員に〝死ね〟と言うつもりで。
トーレンが珍しく、慌てた素振りを見せて口を出してきた。
「何言ってんだ、将軍。ブラン王の指示に従え」
助け舟を得た、とばかりにディーターはトーレンを見た。
ハイマンはトーレンを睨みつけて言い返す。
「ファランティア軍の全指揮権は私にある。テイアラン女王陛下が解任せぬ限りな」
「上位王には次の策がある。従え。おめぇの判断は間違いだ」
〝次の策〟と聞いて、ディーターは懇願するような目をハイマンに向けた。何が言いたいのかは口にせずとも分かる。正直なところハイマンも同じ気持ちなのだ。〝次の策〟とやらにすがりつきたい思いだった。
しかし、ハイマンは自分の考えが間違っていると思いたくなかった。
ここに集まった人々の命を犠牲にしてでも、王都と、まだ戦火が及んでいない地域の民を守れれば本望であると思いたかった。
ハイマンは居並ぶファランティア兵たちを見回し、天を仰ぐ。
慌てふためく自軍の雑多な音の向こうから、統制された軍隊の足音が聞こえてきた。ゆっくりと目線を下げると、やがて帝国軍の先頭が見えてくる。
トーレンが北方兵に向かって、「射撃準備!」と号令した。
ハイマンを無視するつもりかもしれない。
そしてハイマンは、苦渋の決断をした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます