12.ランスベル ―盟約暦1006年、冬、第9週―
気が滅入る作業を終えて、ランスベルたちはさらに北へと進んだ。〝竜の巣〟付近を離れると、洞窟内の温度は一気に下がり始める。一歩進むごとに気温が下がっていくかのようだ。
歩きながら、イムサは杖を脇に挟んで腰の袋から黄ばんだ白いものを手に取り、皮膚に塗っている。
「それは?」
ランスベルが尋ねると、イムサは「アザラシの脂肪です」と答えた。
アザラシというものが何かは分からなかったが、寒さを防ぐためにやっているのは想像に難くない。洞窟内の氷柱はどんどん長くなり、壁や床は白く凍結しているようになった。
「ランスベル、魔法を使いますか?」
アンサーラの提案に、ランスベルは首を横に振った。
「いや、このままドラゴンの力を借りて行くよ。もうすぐなんだよね?」
「はい。そのはずです」
さらに進むと、周囲はまさに氷の洞窟と呼ぶに相応しい様子になった。ドラゴンの力で守られていても皮膚がぴりぴりするほど冷たい。融けることのない氷に覆われた洞窟は美しいが、自分たち以外に動くものはなく、命そのものさえ凍りつかせてしまうようで恐ろしくもある。
その最奥は、真っ青な氷壁によって行き止まりになっていた。
アンサーラは氷壁の前まで進み、その中心付近に触れる。
「さあ、この向こうです」
「この氷の壁の……どうやって?」
ランスベルが問うと、アンサーラは手を動かしながら答えた。
「光の加減で見えにくいのですが、ここに道があります」
彼女の手をよく見れば、確かに壁の縁を掴んでいる。氷壁には、やっと一人通れる程度の切れ目があった。
「竜騎士様」
イムサが震える声でランスベルを呼んだ。
「ワタシ、火、必要です。待ちます。進む、無理」
纏った毛皮をしっかりと掴んで、彼は寒さに震えている。ランスベルはアンサーラに目で問うた。
「そのほうが良いでしょう。それほど時間はかかりません。それに、リザードマンは寒さに弱い生き物。ここまで追って来れるとは思えません」
ランスベルは頷いて、イムサに向き直る。
「分かりました。もし何かあったら大声で知らせて下さい。ギブリムが戻ってきたら、一緒にコー族の洞窟まで帰って、皆さんにギブリムを信じて従うよう伝えて下さい」
「はい。このドワーフ信じます」と、イムサは頷いた。
「コー族の伝承とか生活とか、もっと色々話したかったけど――」
そこまで言って、言葉を切る。それは言っても仕方のない事だ。
「――いや。助けてくれて感謝しています。どうかお元気で」
言い直して、ランスベルは手を差し出した。
イムサは怪訝な顔をしながらその手を取り、二人は握手を交わす。すぐ戻ってくるのに大げさだ、と思っているのだろう。
焚き火の準備を始めたイムサを残して、ランスベルたち三人は氷壁の道へと入った。
青く澄んだ氷壁の道を、アンサーラを先頭にしてランスベル、ギブリムの順で歩く。アンサーラの呼び出した魔法の光が、緑色の繭のように三人を包んでいる。
前後左右、どこまでも果て無く続く青い世界の中を歩いているようで、時々眩暈を起こしたように足元がふらついた。感覚が混乱しているのだ。
足元には冷気が白い霧のように漂い、歩くたびにキラキラと氷の粒が舞う。
恐ろしい事に、このほとんど透明な氷中の道は途中にいくつか分岐があった。方向感覚はすぐに失われてしまったので、もしはぐれたらどうなるか分からない。目の前にはアンサーラの艶やかな黒髪がゆったりと揺れていて、それだけがこの世界で唯一確かなもののように感じられる。
漆黒の川のような黒髪は初めて会った時から美しいと思っていた。光の中では銀色に、闇の中では金色に輝く瞳も神秘的で、彼女自身はどう思っているのか分からないが、ランスベルは好きだ。
それはデイエルフとナイトエルフの混血児であるアンサーラだけの特徴である。その神秘的な容姿だけでなく、エルフの誓約の者が彼女で良かったと思った事は旅の途中で何度もあった。彼女は目的地までの行程だけでなく、あらゆる場面でランスベルを導いてくれた。
背後から聞こえる鎧の音はギブリムがそこにいる証である。彼は何度もランスベルの命を救ってくれた。ワームを退治して、ギブリムがしてくれた事に多少なりとも恩返しできたと思っていたのに、それを取引に使ってしまったのが悔やまれる。結局は、最後までギブリムに頼りっぱなしになってしまった。
少年時代に読んだ伝説や英雄物語から現実に抜け出してきたような二人と旅をして、ホワイトハーバーの商人の次男には決して見る事のない景色を見て、決して経験することのない旅をしてきた。それは、想像していた物語とは違っていたけれど――。
これまでの旅路を思い出して感慨に耽るほど、氷の迷宮は長くなかった。氷壁を抜けると、氷を円形にくり抜いたような空間に出る。そこには息を呑むほど美しいものがあった。
氷の大樹である。
太い幹も、大きく広がる枝葉も、全てが氷で出来ていて、枝分かれして広がる根も氷の地面の下に伸びているのが透けて見える。
アンサーラはこれを〝氷の木〟と訳したが、比喩でも何でもなく、まったく言葉通りのものだった。氷の大樹を見上げていると、アンサーラが振り向いた。
「これが〈エルフの港〉への入口になっています。わたくしが魔法で扉を開きます」
ランスベルは驚異の創造物を見上げながら、ただ頷いた。
「ランスベル」
ギブリムに呼ばれて振り向くと、さすがの彼も緊張感を漂わせている。
「誓約を果たす時が来た」
その時が来たのだと、ランスベルにも分かった。神妙な顔で頷き、荷物から〈盟約の石版〉を取り出す。最後の竜騎士と、ドワーフの〈盟約の者〉は足元に置いた石版を挟んで向き合った。
ギブリムが右手を開いて突き上げると、そこに一振りの剣が現れる。刀身は三フィートほどの片手用の剣で、刃と鍔が一体になった独特の造形をしている。刃は薄く、叩きつければ割れてしまいそうなほど繊細で儚げだ。
ギブリムは剣を横にして刀身をそっと左手に置いた。その扱い方を見ても危険な刃だということが分かる。
「我が氏族に伝わる七つの武器の他に、俺は八つめの武器を授かっている。これは盟約の時、ドラゴンがドワーフに授けた剣〈竜の灯火〉だ。いくつか鞘を作ったのだが、見ての通り、鍔まで刃になっているから切ってしまって納まらん。アダマンテインでさえ切り裂いてしまうのだ」
そう説明して、ギブリムは剣を差し出した。
〈竜の灯火〉をドワーフから受け取るという事は知っていても、それがどういう形をしているのかランスベルは知らなかった。聞かされているのは〈エルフの港〉から船出する時、それが〈竜の聖域〉へと導くという事だけだ。
その話から、ランタンのようなものか、本当に燃える炎か、あるいは炎のように明るく光る魔法の石か、とにかくそのようなものを想像していた。しかしギブリムがこの剣を〈竜の灯火〉だと言うのならそうなのだろう。
ランスベルは気を取り直して、腰の皮袋から〈
〈
その瞬間、〈
〈
『我、〈竜の灯火〉を得たり。誓約せし者よ、今こそ我らは汝に報いよう』
〈盟約の石版〉に刻まれたギブリムの誓約の言葉が光となって弾け、彼の身体が輝き出す。
「お、おお……」
全身光に包まれながら、ギブリムは身を震わせて声を漏らした。
その目は、前に立つランスベルを見ていない。それよりも遥か遠くを見ている。
「おお……おお……見えるぞ、あれが、あれこそが、〝大地の門〟だ! 場所もはっきりと分かるぞ! 壊れてもいない! あの門の向こうに我らが故郷の地があるのだ……」
ギブリムは涙を流すことも厭わずに、興奮してそう言った。
やがて光が弱まるにつれて、冷静さを取り戻したのか、目を閉じて涙を拭う。
光が完全に消えるのを待ってから、ランスベルはおそるおそる尋ねた。
「ギブリム……願いは叶えられた? 場所は覚えたの?」
ギブリムは涙を拭いながら、「ああ」と鼻声で答えた。鼻水を拭って赤くなった目を開き、そして最初で最後の、満面の笑みを浮かべる。
「必要なことは全て得られた。望めばいつでも、はっきりと思い出せる」
ギブリムは手を差し出した。握手に慣れているランスベルが思わず掴むと、ドワーフはすごい力でぐいっと引っ張りランスベルの額に頭突きする。
二人の兜が当たった衝撃に、ランスベルは思わず「いたっ」と声を上げた。
「すまんな、嬉しさのあまり思わずドワーフ流でやってしまった。まあ、俺も人間相手にやるのは初めてだ」
そう言ってギブリムは、身体を揺すって笑う。
普段あまり感情を見せないギブリムの嬉しそうな姿にランスベルは安心して、涙が滲んだ。
「よかった……本当に、ギブリムには助けてもらったから……」
涙声になってしまいそうになり、口をつぐむ。
ギブリムもそれは理解しているのだろう。優しく腕を叩いた。
「お前のそういうところは嫌いではない。だが、涙の別れは良くない……と、ドワーフの間では言われている。人間はどうだ?」
「……たぶん、涙よりは笑顔のほうがいいと思う」
「そうか。ならば、涙は無しだ」
ギブリムは毛皮のマントでごしごしと自分の顔を拭いた。ランスベルもそれに倣う。
「俺はもう行く。イムサとコー族を待たせているし、一刻も早く氏族の者に……いや、ドワーフたちに知らせてやりたい」
そう言ってギブリムは荷物を担ぎなおした。
ランスベルも〈盟約の石版〉を荷物に戻して、肩に掛ける。
そして再び、ランスベルとギブリムは向き合った。
「別れる時も〝握手〟とやらをするのか?」
ギブリムの問いに、ランスベルは頷いて答えた。そして差し出されたギブリムの手を掴むと、さっきのお返しとばかりにぐいっと引っ張った。岩のように重いギブリムをドラゴンの力で引き寄せ、その肩を抱く。
「もっと親しい相手とは、こうする」
「力比べというわけか?」
ギブリムが力を込める気配を感じて、ランスベルは慌てて身体を離した。
「違うよ、なんで別れの挨拶に力比べを……って、ああ、冗談?」
ギブリムは豊かな髭の中から白い歯を見せて、ニヤリとしてみせた。
(僕を笑顔にしようとして……)
また、涙が出そうになるのをランスベルは堪えなければならなかった。
ギブリムはランスベルから離れると、真面目な顔に戻ってアンサーラに声をかける。
「あんたほど頼もしい味方を俺は知らん。エルフの盟約の者があんたで良かったよ」
「わたくしも同じ気持ちです。バン家の方に、わたくしは助けられてばかりです」
ランスベルの背後でアンサーラは答えた。頭を下げた気配がする。
「祖父からあんたの話は聞いていたが、あんたが父親と同じ道へ戻ったかもしれないと疑う気持ちもあった。許して欲しい」
「あの日から九〇〇年の間、ナイトエルフの狂王ザラーサンサーラの娘と言われながら生きてきました。その事はもう整理がついています」
「そうか」とギブリムは言って、頷いた。
「ではな、アンサーラ、ランスベル」
ギブリムは最後に二人と視線を交わして、別れを告げた。
「ありがとう、ギブリム。さようなら」
「ごきげんよう、ギブリム」
ランスベルとアンサーラも別れを告げると、ギブリムは二人に背を向けて氷壁へと戻っていく。一度くらいは振り向くかとランスベルは思ったが、結局、一度も振り向くことはなかった。
「……さて。ではわたくしたちも参りましょうか」
ギブリムを見送って、アンサーラが言った。
「そうしよう」
アンサーラは氷の大樹の前まで行くと、目を閉じ、両手を大きく広げて呪文の詠唱を始めた。氷壁に反響して、この世のものとは思えぬ美しい歌声に満たされる。
ランスベルが聞き入っていると、氷の大樹の幹から琥珀色の光が洩れ始めた。光は幹の中心を押し開けるように広がって、やがて扉のような形になる。
「わたくしが入ると門は閉じてしまいます。ランスベル、先に光の中へ進んでください。普通に歩く感覚で何も問題ありません」
アンサーラにそう言われても、初めての事なのでランスベルは少し緊張した。
「わかった」と頷いて光の中に足を踏み入れる。
暖かく、心地よい風を全身で感じながら、琥珀色の光の向こうへとランスベルは誘われた。
〈次章へつづく〉
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