11.呪い王 ―盟約暦1006年、冬、第9週―

 やっと呼吸できるようになって、シェハは死体の下から這い出た。


 この王国始まって以来の強力なまじない師である自分の呪術が完全に効かない相手は、神以外では初めてであった。


 何か術の手順を間違えたのではないか、いや、きっとそうだ。そうに違いない――シェハはそう信じた。


 この呪術によってシェハは、最も強力な戦士である三人の王に殺し合いをさせて相打ちさせた。今度もそうなるはずだったのだ。しかし結果は、長剣を持った人間が棒立ちになっただけだった。


 杖を持った人間とドワーフに似た人間が仲間を助けに来たので、シェハは今度こそ完璧に術をかけるつもりで忍び寄った。他のリザードマンを盾にして、間違いなく死角から近付いたはずであった。


 だが、ドワーフに似た人間は振り向きもせずに槍の石突でシェハの腹を突き、悶絶させた。それで気配に気付いたのか、もう一人の人間が振り向き、杖の先端でシェハの胸を強かに打ったのだった。


 先祖伝来の呪術道具である骨の首飾りは砕かれた。おそらくシェハの胸の骨にもひびが入っているだろう。倒れたシェハの上に殺された戦士の死体が落ちてきて、その下でシェハは必死に痛みを消す呪術をかけ続けた。そのかいあって、やっと動けるようになったのだ。


 這い出たシェハは振り向き、そして恐るべき光景を目にした。


 一〇〇人からなるシェハの戦士団は、すでに三〇人ほど残して倒されている。敵は一人も倒れておらず、長剣の人間も呪術の影響から逃れている。


 勝ち目が無い、という事はすぐに分かった。


 特に恐るべきは、エルフに似た黒髪に金色の瞳をした細身の人間だ。目にも止まらぬ速さで次から次へと戦士たちを斬り殺していく。


 シェハが普通の、愚かなリザードマンであったなら、それでも突撃していったであろう。勝ち目が無くとも、戦いが始まったのなら最後まで戦い続けるべきだ。それが常識である。しかしシェハは賢い〝まじない王〟だ。王が健在なら王国は維持できるはずだ、という考えが閃く。


 それは考えれば考えるほど、正しい理屈だった。


 これが理解できないような愚か者は処刑するなり追放するなりすればよい――シェハはそう決心して、戦いの場から逃れようと必死に地面を這う。


(俺は特別な存在なのだ。常に幸運に恵まれてきたのだ。こんなところで死ぬはずが無い)


 ようやく壁まで辿り着いたシェハの目の前には、やはり幸運が待っていた。やっと一人入れるかどうかという裂け目が出来ていて、そこからは硫黄の香りと共に暖かい空気が洩れてくる。下に温泉があるのだ。


 ちらりと背後に目をやると、戦いは決着寸前であった。

 勝ち目の無い相手に、死に向かって突撃する最後の一団が見える。敵も味方も誰もシェハに気付いていない。


(やはり、俺は特別な存在なのだ)


 シェハは裂け目へと、身体を蛇のようにくねらせて入り込んだ。


 真っ暗で何も見えない中、急斜面を滑り落ちていくと、突然の浮遊感で全身の鱗が立ったようにぞっとした。しかしそれは長く続かず、シェハの目論見どおり、暖かい温泉に着水する。手足を酷く打ちつけたが、死ぬような怪我ではない。


 辺りは何も見えない真の暗闇であったが、温泉に浸かってゆっくり体力の回復を待てば良かった。すでに危機は去ったのだ。


 シェハは目を閉じて、王国の未来について考えながら眠りに落ちた。


 目が覚めては傷を癒す呪術を使い、また眠るというのを何回か繰り返して、シェハはやっと満足に動けるまで回復した。胸の痛みはまだ残っているが、重い石を飲み込んでしまったような不快感があるだけだ。


 どれくらい時間が経ったのか、暗闇の中でまどろんでいたシェハには分からなくなってしまったが、激しい頭痛と痛みを伴う強い空腹感があるので、少なくとも四、五日は経っていると思われた。


 さあ、自分の王国に戻る時が来た。


 一〇〇人の戦士団は全滅してしまっただろうが、産卵地には女、子供、卵が残っているし、護衛に一〇人の戦士を残している。それに一〇〇人も減ったおかげで、南にある人間の王国から温泉を奪い取る必要もなくなった。じっくりと王国を再建してから攻め込めばよい。


 いずれにせよ、まずはここを出なければ――暗闇の中を手探りして立ち上がり、ハッとした。


 どうやって上に戻るかを考えていなかった。


 シェハには照明を得る手段がない。明かりを作る呪術はないのだ。燃えるものがあれば着火させる事はできるが、身に着けた貴金属は燃えない。闇の中を手探りで這いまわり、周囲を調べてみたが、どうやらここには小さな温泉が溜まっているだけで何も無いようだ。


 空気の流れや音の反響から、なんとなくシェハが入ってきた裂け目の位置は分かるが、かなり高い位置にある。仕方なく壁を登ろうと試みたが手がかりになるものが何も無くて登れない。登れそうな壁面を探してみたものの、見つからなかった。


「――誰か!」


 恐怖に駆られて、シェハはついに叫んだ。狭い空間に震え声が反響する。


「誰かおらぬか!」


 反応は無い。


「お前たちの王はここにいるぞ!」


 誰の声も聞こえない。


「王を救出せよ、ここから引き上げるのだ。それと食い物と飲み物を寄越せ!」


 何の物音もしない。


「誰か……誰か、ここから出してくれぇぇぇ!」


 深い穴の底、自分一人の王国でまじない王は叫んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る