10.ランスベル ―盟約暦1006年、冬、第9週―

 突然の出来事に、ランスベルはどうしていいか分からず混乱していた。自分の上に圧し掛かっている猪を殺すことは容易だが、そうしてはいけないと言うもう一人の自分がいる。


 ぬっ、と今度もまた突然に、奇妙な生き物がランスベルの顔を覗き込んできた。幾重にも分かれた角を生やした動物的な顔の人間、とでもいうようなもので、今まで見た事も聞いた事もない生き物だ。


 そいつはランスベルの知らない言葉を話しながら、小袋に手を突っ込んで黄色い粉を顔に吹き散らす。


 今度こそ、ランスベルは危機感から竜語魔法を使おうとした。自分はこんなところで倒れてはいけない、生き延びなければ、という強い意志が頭の中で爆発する。


 竜語魔法を叫ぼうと開いた口に謎の粉が入り込み、口の中から喉まで激しい刺激が襲った。まるで小さな針の塊を飲み込んだようにチクチクと体内を刺し、目にしみる。


「げほっ、げほっ、な、なにを……」


 ランスベルは苦痛に身体を折り曲げて激しく咳き込んだ。目も開けられなかったが、語りかけてくる声は徐々にはっきりしてくる。


「幻……魔法……想像……心、壁……」


 どこかで聞いたような言葉だ。そして唐突に思い出した。


 幻覚や感情を操るような精神に影響する魔法への対抗手段について、パーヴェルが同じような事を言っていた――。


「鎧でも盾でも壁でも構わないが、自分の精神を守るという意識を強固にするためには具体的に想像する事が重要だ」


 具体的に、と聞いてランスベルは「ドラゴンでもいいの?」と尋ねた。するとパーヴェルは珍しく言葉を濁した。


「ドラゴンでもいい……と、思う。すまないが、これに関しては私も上手く教えられないのだ。ドラゴンがいれば、竜騎士の精神もまた不可侵のものとなる。こんな事を教わる竜騎士は、最後の竜騎士であるお前だけだ、ランスベル……」


 ランスベルは金色のドラゴンを思い描いた。ブラウスクニースの慈愛に満ちた青い瞳、パーヴェルの剣、最後の竜騎士――思考を覆う霞が晴れていく。


 そして、ずっと語りかけている声がイムサのものだと気付いて、ハッと我に返った。


 涙で滲んだ視界に、ランスベルを覗き込むイムサの顔があった。周囲の騒音がたちまち蘇ってきて、武器のぶつかり合う音やリザードマンの怒号と悲鳴に溢れる。


「ケトン魔法です。見る、聞く、できますか!?」


 イムサの問いかけにランスベルは頷いて答える。


 彼の頭の向こうで火花が散って何事かと見上げると、すでに思考ははっきりしているにも関わらず、一瞬どうなっているのか分からなかった。地面に倒れている自分を跨いでギブリムが戦っているのだ。今の火花は敵の攻撃を盾で弾いた時に発したものだ。


 頭を巡らせると、周囲にはリザードマンの死体が円になって積み重なっている。


「ごめん、ギブリム、イムサさん! もう大丈夫!」


 はっきり大声でそう告げると、ギブリムは「うむ」とだけ言い、槍で敵を牽制しつつランスベルの上から退いた。急いで飛び起き、落ちていた竜剣ドラゴンソードを拾い上げる。


 周囲の状況を確認すると、戦いはもう終盤になっていた。


 戦場は二箇所に分かれていて、一つはランスベルたちがいる場所、もう一箇所は少し離れた場所で立ち回るアンサーラの周囲だ。


 ギブリムの鎧は所々傷ついていた。帝国の魔術師と戦っても傷一つ付かなかった鎧だ。おそらくランスベルとイムサを守るために力を使っているためだろう。


 申し訳ない気持ちと、敵の魔法にやられた悔しさと恥ずかしさが入り混じった感情でランスベルの頭はいっぱいになった。なんとか挽回しなければ、という気持ちで竜剣ドラゴンソードを構える。


「おい、飛び出すな」

 機先を制してギブリムが言った。

「少し疲れた。イムサを守って戦え」


 また同じ失敗を繰り返すところだった――ランスベルは反省して、イムサを守るようにして立つ。


 ちょうど二人のリザードマンがほぼ同時に襲い掛かってきた。


 ランスベルは相手の槍を竜剣ドラゴンソードで跳ね上げると、脇をすり抜けてもう一人の攻撃を空振りさせながら背後に回り込み、剣を横に振るってその首を刎ねる。


 槍を空振りしたリザードマンは標的をイムサに変えて突きかかったが、戻ってきたランスベルが槍の穂先を切り落とした。


 イムサもただ守られているだけではない。杖の瘤で相手の頭を殴打する。


 戦いはそう長くは続かなかった。


 やがてアンサーラが合流してきて、最後のリザードマンが倒れ、戦いは終わる。全員が敵の返り血で汚れていた。アンサーラでさえも。


「ギブリム、ごめん。怪我は大丈夫? アンサーラも……」


 ランスベルは申し訳ない思いでいっぱいだったが、二人は全く気にしていない様子だ。


「心配いらん。それに、お前を守ると誓約した。そのためなら腕の一本や二本は失くしても構わんくらいの覚悟はできている」


 平然とギブリムは答えた。本当にその覚悟ができているのだ。どうしたらそんな風にできるのだろう、ランスベルは教えて欲しかった。


「動きに支障が出るような怪我はないようです。それにこれは、わたくしの落ち度でもあります。あなたがわたくしに付いて来ると思い込んでしまいました」


 自分の身体をまるで他人のもののように言って、アンサーラは目で謝った。


 そんなこと無い、悪いのは僕だから――そう言おうとして、ランスベルは止めた。それよりも言うべき言葉がある。


「二人がいなければ、ここで旅が終わっていた。どうもありがとう。それに、イムサさんにも助けてもらって……ありがとうございます。イムサさんが魔法を解いてくれたんですね?」


 イムサは首を左右に振った。


「魔法逃げる、手伝いだけ。ケトン魔法、ワタシ知ってた。強い魔法、無い、思ってた。しかし、正しく無い」


 ランスベルはもう一度頭を下げてから、周囲を見回す。


「そう言えば、その魔法使いはどうなったの?」


 ふん、とギブリムが鼻を鳴らした。

「そこいらに倒れていないか。二発ほど殴ってやった。そのうち一発はイムサだがな」


「イムサさんが?」


 イムサを見ると、コー族のドルイドは頷いた。


「後ろ、ドワーフ言いました。ドワーフ、顔は前、槍は後ろ、突き。ワタシ、これで」


 イムサはリザードマンの血に塗れた杖を見せた。そして真剣な表情のまま言葉を続ける。


「竜騎士様。ワタシ、このドワーフ信じます。このドワーフ、約束守る、自分、盾しました。騙す者、しない」


「伝承とやらが間違いだと認めるわけだな」と、ギブリム。


 イムサはギブリムの前に立ち、一度だけ頭を下げた。


「ワタシ、伝承疑う。このドワーフ、ギブリム信じます。しかし、全部嘘、全部正しい、違う思うです」


「むう」

 ギブリムが唸る。


 ランスベルは慌てて間に入った。

「まあ、一歩前進という事で良いんじゃないかな?」


 戦いの緊張感から解放されたためか、ギブリムとイムサは似た者同士かもしれない、などと考える余裕ができて少し可笑しく思う。


 ふん、と鼻を鳴らしてギブリムは背を向け、槍を召喚した。


「ランスベルとイムサは少し先で待っていろ。リザードマンの生き残りがいるかもしれんからドラゴンの力は解くな。俺はまだ生きているやつにとどめを刺してから行く。アンサーラは手伝ってくれ。手早く済ませたい」


 ギブリムの言葉に、ランスベルの楽しい気分は吹き飛んだ。すっかり慣れてしまった周囲の死臭と死体の山を急に意識して、嫌な気分になる。


 結局、僕の覚悟なんていつもこんなものだ――ランスベルは自虐的に思った。


「僕も……手伝うよ」


 ランスベルの肩にアンサーラが手を置いて引き止めた。


「無理に自分を追い込む必要はありません。これは戦いの中で命を奪うのとは違います。戦いの事後処理……言うなれば作業です。気分の良いものではありません」


「気分の良くないものだって言うなら、なおさら二人にだけそんな思いをさせるのは嫌だよ」


 アンサーラは首を左右に振った。


「いいえ、違います。おそらく、わたくしもギブリムもあなたのようには感じていません」


「そうだ。お前は慣れる必要もない。さっさと行け」


 槍の石突でリザードマンの死体をひっくり返しながら、ギブリムが言った。


 無力感と、何に対してのものか分からない罪悪感に苛まれながらランスベルが立ち尽くしていると、イムサが短刀を抜いて歩き出す。そして、リザードマンの死体を一つずつ確かめ始めた。


「イムサさん?」


 ランスベルに呼びかけられて、イムサは振り返る。

「強い魔法、危険。生きている、コー族、危険」


 ランスベルの肩をそっと払って、アンサーラが気遣う。


「でしたら……ランスベルは彼を手伝ってもらえますか。まだ動けるリザードマンが潜んでいたら危険です」


「うん、わかった」と、ランスベルは頷いた。

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