4.ランスベル ―盟約暦1006年、冬、第9週―

 ランスベルはとにかく、これ以上ドワーフたちを刺激したくなかったので、コー族と名乗った三人に対して下位竜語で「下がれ、下がれ」と言った。


 だが、ドルイドと名乗った男は拙いテストリア大陸語で必死に頼み込んでくる。その内容は半分ほどしか聞き取れなかったが、族長と話して欲しいとランスベルに懇願しているようだった。


 それで仕方なく、ランスベルは「わかった。外で待て」と言うしかなかった。


 自分が不安定な場所に立っているのは分かっていたので、ランスベルは凍った雪の斜面から跳躍して一気に飛び降りた。途端に、さっきまで立っていた場所から割れた表面が氷の板になって滑り落ち、大きな音を響かせて砕け散る。


 床に着地したランスベルは振り向いてその光景を目にし、ばつが悪そうな顔をして仲間のほうを向いた。案の定、ギブリムが腕を組んで「ふん」と鼻を鳴らす。怒っているのだとランスベルは思った。


「ごめん……」と謝りつつ、手斧ハンドアックスをバンに返す。バンは目を丸くしたまま、その手斧ハンドアックスを受け取った。ドラゴンの力を解くと、身体に重さが戻ってくる。


「アンサーラはコー族について何か知っている?」


 アンサーラは首を横に振った。


「いいえ。この時期、人間は遥か東へ移動しているはずです。ですから、何か問題が起こっていて、助けを必要としているのかもしれません。ただ、ランスベルが竜騎士と名乗った事に反応したようでしたから、そこは気になります」


 アンサーラの言わんとしている事は、ランスベルにも分かる。アルガン帝国の魔術師という前例があるのだ。コー族と名乗る彼らがどういう訳か〈竜珠ドラゴンオーブ〉の存在を知っていて、それを狙っている可能性も無くはない。


「だが、お前はあの人間たちの話を聞くつもりなのだろう?」

 ギブリムがむっつりと言った。


「うん、まあ、あの時はね……」


 ランスベルはそう言ったが、下位竜語は言葉以上に正確なので了解の意思は全員に伝わったはずだ。


(あの時はそう思ったけど今は違う、と言ってしまう事もできるけど、それは嫌だな……)


 そんなふうに思っていると、アンサーラが提案した。


「どちらにせよ、外に出れば彼らが待っているはずですし、話を聞くだけ聞きましょう」


 アンサーラの視線に気付いて目を合わせると、彼女は微かに頷いて見せた。気持ちを見抜かれているようで、嬉しくもあり、気恥ずかしくもある。


 それからアンサーラはギブリムに向けて付け加えた。


「それに、ここに立ち入らないようにと言って聞かせる必要もあるでしょう?」


 ギブリムは「ふん」と鼻を鳴らして、バンとボルドにドワーフ語で何か言い、そして三人で瓦礫の山に向けて歩き出す。「道を作るから待っていろ」と言い残して。


 三人のドワーフが瓦礫の山の上までくさびと縄で道を作るのに、それほど時間はかからなかった。道はジグザグに蛇行して大穴まで続いている。ドワーフたちは自分たちの仕事を確認しながら下まで戻って来た。


「ロープを手かがりに、沿って登れば安全だ」


 ギブリムの説明に、ランスベルは頷いて瓦礫の山を見上げる。


「ダーガバレ・ドラグノフ」


 バンに呼ばれて振り向くと、彼は拳で自分の胸を力強く二回叩いた。それからドワーフ語で何か言う。その後ろに立つボルドも同じ仕草をして、同じような言葉を口にした。


「ドワーフの別れの挨拶だ。帰還を望む、というような意味だな」


 ギブリムに通訳してもらわなくても、その仕草や声の調子で別れの挨拶なのは分かる。


 ドワーフ語を勉強して、彼らともっと仲良くできたらいいのにと思うと胸が苦しくなる。しかし最後の竜騎士として旅をしていなかったら、彼らと知り合う事も無かったはずである。


 ランスベルはドワーフの流儀を真似て「さようなら」とファランティアの言葉で言った。もし下位竜語を使ってしまったら、今生の別れという意味まで伝わってしまうからだ。


「俺が先に行く。付いて来い」


 そう言ってギブリムはロープを確かめながら登って行く。ランスベルも後に続き、アンサーラは胸に手を添えるエルフ流の挨拶をしてから最後尾に付いた。


 瓦礫の山を登りきる直前にランスベルは最後に一目と背後を振り返ったが、そこにいるはずのバンとボルドの姿も、壮大な地下都市の名残も見えず、ただ暗闇があるだけだった。


 元より、戻る事のない旅路だ――ランスベルは前を向き、外に踏み出す。


 びゅおう、と音を立てて強い横風が吹き、視界は白一色になった。しかしランスベルが困惑する前に風は止み、同時に視界も晴れる。そこに広がる光景は想像していたものと全く違っていた。雪深い森か、山中の景色に近いものと思っていたのだ。


 だが、そんなものはどこにも無い。〈極北の地〉は驚くほど何も無かった。


 アンサーラが言ったとおり、空は夜のようだったが、地下の暗闇に慣れた目にはそれでも明るく見える。星が瞬き始める暗い群青色の空という感じだ。そんな空の色を僅かに映して、茫漠とした白い平地が視界の果てまで、ただただ続いている。


 この世界には、地平線を境にしてその二色しかない。


 視界内にある唯一の起伏は、前方にちょこんと突き出た突起だけだ。岩なのか山なのか、どのくらいの大きさなのかも判別できない。他に比較するものがないので、距離感も大きさも掴めないのだ。


 動くものと言えば、茫漠とした大地を渡る白い風のみである。風が凍った雪を巻き上げて白い壁を作り、海の波のように幾重にも、時に折り重なって地面を進んでいく。外に出た時は、ちょうどこの波が来ていたので何も見えなかったのだろう。


 背後にそびえる山が、〈世界の果て山脈〉の一部なのは見れば分かる。連なる山々は半分以上が灰色の雲の中に入ってしまい、降り積もった雪とも同化して途中から薄ぼんやりと消えてしまうが、その存在感は間違えようがない。


 山を見上げたランスベルは、空に三つめの色を見つけて目を見張った。赤い燐光が蛇のように蛇行して頭上を横切っているのだ。赤く見える星の集まりではない。アンサーラが呼び出す魔法の光に似ているが、もっとはっきりとしている。まるで水面を漂っているかのようにゆらゆらと揺れているが、地上の風向きとは関係ないようだ。長さは一マイル以上ありそうだが、もっと短いようにも、長いようにも思える。


 ギブリムに、がつんと篭手ガントレット腕甲ヴァンブレイスを小突かれ、ランスベルは我に返った。


 大穴から下った所に、五人のコー族が火を囲んでいる。弓を手に警戒しているが、ドルイドと名乗った男が前に出て杖でその動きを制していた。


 ギブリムもアンサーラも動かないのでランスベルが先頭になり、一行はコー族の焚火まで斜面を下る。


 ドルイドという言葉をランスベルは本で知っていた。北方の昔話に登場するドルイドは、森に住む魔法使いや不思議な力を持つ賢者、あるいは動物を操る森の守護者である。時には味方として道を示し、時には敵として登場する。


 ランスベルたちが近付くと、ドルイドを名乗った男以外のコー族は恐れるように距離を取った。彼らが恐れているのはランスベルでもアンサーラでもなく、ギブリムなのは明らかだ。ドルイドもギブリムを警戒しつつ、ランスベルに向かって膝を付く。


「ワタシ、コー族ドルイド、イムサです」


 ドルイドはイムサと名乗り、そして話し始めた。そのテストリア大陸語は北方訛りで片言に近いものだが、意思の疎通は可能だ。


 彼はまずコー族について説明した。

 〝コー〟とは彼らの言葉で〝遠く〟を意味し、そう呼ばれる理由は二つある。


 一つはコー族の祖先が〈世界の果て山脈〉の南からやって来たという事だ。


 極北の民と交わってきたコー族は祖先の言葉を失ったが、ドルイドだけは伝統的に〝古き言葉〟を伝えてきた。ドルイドには部族の知識を伝承する役目があるらしい。


 もう一つの理由はコー族が〝アシニー〟をしない部族だから、というものである。


 〝アシニー〟とはトナカイを追って移動する事で、そうする人々をアシニッドと呼ぶ。つまり極北の民は自らをアシニッドと呼ぶが、コー族はアシニッドではないというわけだ。とはいえ、コー族は孤立しているわけではなく、アシニッドの諸部族と関わりあって生活しているとイムサは語った。


 言葉の問題もあって話はなかなか要領を得なかったが、ランスベルはその部分について念を押して確認した。部族間の問題に巻き込まれるのではないか、と心配したのだ。しかし、その心配は無用だった。コー族はアシニッド諸部族の争いには関与せず、中立の立場を固持してきたという。


 それはコー族が物々交換のための市場を提供しているからで、特定の部族に肩入れすれば信用を失ってしまうからだ。


 そこまで話してから、ランスベルは本題について尋ねた。

「それで、どんな問題が?」


「族長、話すです」と、イムサは即答した。


 唐突に話が終わってしまったので、ランスベルは困惑しつつ概要だけでも話してくれるように頼んでみたが、イムサは頑として話さない。要は〝族長を差し置いて自分が話すわけにはいかない〟という事らしい。


 それでイムサは、ランスベルにコー族の集落へ来て族長に会って欲しいと再び頼んできた。


 ランスベルが困っていると、アンサーラが横から質問する。


「コー族はどこに住んでいるのですか?」


 地面を指しながら「下です」と、イムサは答えた。


「どちらの方角でしょうか?」


 イムサは杖で北の方角を示し、その問いに答える。この地で唯一の突起より僅かに東だ。


「わかりました」


 アンサーラはイムサに軽く頭を下げて感謝の意を示してから、ランスベルとギブリムに「少し話しましょう」と言ってその場を離れた。二人は黙って付いて行く。


 少し離れた場所まで歩き、アンサーラは小声でランスベルに問う。

「どうするおつもりですか?」


 ランスベルが答える前に、ギブリムが口を挟む。

「無視して先に進むべきだろう。少なくとも、話は聞いてやった」


 それで、ランスベルは気になっていた事を彼に尋ねた。

「なんだかギブリムを警戒していたけど、ドワーフと彼らは何かあったの?」


「いや。感謝されるならまだしも、恨まれる覚えはない。バンが斧を投げたせいかもしれん」


 アンサーラは尖った小さな顎に手を当てて考えていたが、目を上げて口を開いた。


「ずっと心配していたのですが、ドワーフの作った建造物があのようになってしまうほどの大地震です。ここの地下も影響を受けている可能性があります。コー族から現状について情報を得られるなら、彼らに付いて行くのも良いかもしれませんね。ずるいかもしれませんが、族長と会って話を聞いたからといって彼らの要望に答える義理はありませんし」


「んー、ギブリムはどう思う?」


「意見は変わらん。無視して先に進むべきだ。だが、道案内はエルフの役目。アンサーラが必要だと言うなら、それに従おう」


 ギブリムの言うとおりだ、とランスベルは納得した。

「わかった。それじゃあ、コー族の所に立ち寄るって事でいいね」


 ランスベルの言葉を合図に、三人はコー族の焚火まで歩いた。

 見上げれば、頭上には赤い光の帯が揺らめく夜空がある。


(本当に、夜のままなんだ……)


 ふいに、ランスベルは実感した。〈世界の果て山脈〉の向こう側にこんな世界があるなど、誰が想像できるだろうか。そして実際に、自分はそこにいるのだ、と。


 見渡す限りの氷の世界を眺めていると、自分の心までも凍り付き、世界の一部となって消えていくように感じる。しかし、そこに恐怖はない。ただ平穏があるだけだ。


 もっとも、そんな事を考える余裕があるのは魔法で守られているからだろう。


 コー族は顔以外を全身すっぽりと分厚い毛皮で包んでいる。顔の皮膚は日焼け痕のようにボロボロで、眉もまつ毛も髭も、凍り付いていた。


 最後の竜騎士にならなければ、この旅に出なければ、見ることの無かった風景。出会うことのなかった人々。そして、死ぬことのなかった人々――ランスベルは茫漠とした凍土を見ながら、なんとなく、そんな事を思った。


 コー族の五人はすでに出発の準備を整えていたので、ランスベルが「一緒に行く」と告げると、すぐに極北の旅が始まった。


 先頭を歩くのはドルイドのイムサで、頭に角――確認していないが、おそらくトナカイのもの――を飾りのように付けている。それが目印になって、白い風が吹き抜けても見失わずにいられた。


 他の四人のコー族はランスベルを囲うように距離を取って四方に一人ずつ歩いている。手にした弓には矢がつがえてあり、襲撃を警戒している動きだ。


「〝白い悪魔〟注意です」と出発時にイムサから言われたが、それが何なのか、ランスベルは聞きそびれてしまった。歩きながら話そうなどと考えていたのが、そもそもの間違いであった。


 アンサーラの魔法と竜騎士の鎧に守られたランスベルでさえ、風は肌を切り裂くように冷たく、吸い込んだ空気は肺の中から体温を奪っていく。吐く息は白く、長くたなびき、最後にはキラキラと光る氷の粒になって霧散する。


 コー族たちはむやみに口を開かず、ごく短い声で最小限のやり取りをしていた。「ほー」とか「かっ」とか「おっお」などである。とても歩きながら話ができる環境ではない。


 ランスベルのすぐ隣には、大きな荷物を背負ったギブリムが歩いている。


 コー族はギブリムがいると安心できないようで、時々ちらりと不安げな視線を向けていた。


 アンサーラは一行から少し離れて最後尾を付いている。凍った雪を踏みしめるガシガシという音を立てる事もなく、影のように付いてくるので、まるで幻か何かのようだ。


 そうしてしばらく歩いていると、この地で唯一の目印になりそうな突起が少しずつ大きくなり、僅かに左へずれているようにランスベルは感じた。


 実際、イムサも時々立ち止まっては、突起に対して水平になるように杖を持ち上げて方角を確認している。他に目印になりそうなものは何もない。天の星は雲に隠れ、背後にある〈世界の果て山脈〉では巨大過ぎて〝だいたいそっちが南のほう〟という程度の役にしか立たない。


 イムサがまた立ち止まったので杖を持ち上げるかと思いきや、彼はランスベルを手招きした。近くに寄ると、イムサは顔を保護するために鼻まで覆っていた布を下げた。布はもう凍っていて、パキパキと音を立てる。そして素早く、口をあまり開かずに何か言った。ランスベルに聞き取れたのは「水」という言葉だけだ。それから彼は杖で地面を指す。


 ランスベルの目には、ただ地面が続いているようにしか見えない。

 もっとよく見ようとして身を乗り出すと、イムサが腕を掴んだ。


「注意。落ちる。死です」


 そう言って杖で地面を叩く。こもった音が響き、地面の下で楕円形の気泡が動くのが見えた。凍った池か何かが目の前にあるのだ。ランスベルはぞっとした。


 イムサは再び布を目元まで引き上げ、進路を東に変えて一行を先導する。


 ランスベルの腕を掴んだイムサの力は強かった。白く凍った髭やリーダーらしき振る舞いから年配者なのかと思っていたが、予想より若いのかもしれない。


 再び、氷を踏みしめる足音だけが響くようになった。


 繰り返し押し寄せる白い風がまた迫ってくるのが見えて、ランスベルは顔を下げて備える。その時、「むっ」とギブリムが唸って、腕を横に伸ばしランスベルの歩みを止めた。


「何かいるぞ!」


 はっとしてランスベルは顔を上げる。ギブリムが叫ぶのと、白い塊が雪の中から飛び出してきたのは、ほぼ同時だった。


 一番外側にいたコー族に、その白い塊が覆い被さろうとしている。


『ブラウスクニース、我に力を!』


 竜語魔法の叫びと共に、周囲の動きがゆっくりとしたものに変わった。白い塊が巻き散らした雪の一粒一粒が視認できるほどだ。


 白い塊の正体は、巨大な獣だった。


 身長は一五フィート以上、体重はランスベルの五倍以上あるだろう。雪と見紛うばかりの真っ白な体毛に覆われていて、赤く光る目と黄ばんだ鋭い牙が並ぶ口、そして短剣のような爪以外に黒い皮膚が見える箇所はない。熊に似ているが、頭は平たく首はほとんど無いように見える。前足は太くて長く、後足は同じく太いが短い。


 襲われたコー族は反撃を諦めて手足を縮め、獣に対して背中を向けながら丸くなろうとしている。


(こんなに接近するまでギブリムもアンサーラも気付かなかったなんて……)


 驚きつつも、ランスベルは肩にかけた剣を手にして前に出る。


 槍を手にしたギブリムが止めようとしたが、それを飛び越えて、獣と倒れかかっているコー族の間に割り込んだ。剣を抜く暇はない。振り下ろされる獣の爪と牙を鞘で受け止める。


 あまりの重さに、ランスベルは思わず「うっ」と呻いた。生臭い息が顔にかかり、粘ついた涎が飛び散る。獣は自分の体重そのものを武器としていた。足が地面にずぶずぶとめり込む。


 倒れたコー族は、やっと自分が助かったと気付いて逃げ始め、入れ違いに出てきたギブリムがランスベルの脇から槍を突き出す。


 白い獣はその巨体に似合わない素早さで横に逃れた。ギブリムの攻撃が避けられた驚きと、突然重さが無くなったせいで、ランスベルも前のめりに体勢を崩される。


 獣が地面に四つ足で着地し、ランスベルが今度こそ剣を抜こうとした時、氷雪を巻き上げた白い風が到達して周囲を真っ白にした。同時に一行の左右から、さらに二匹の獣が飛び掛かる。


 ランスベルの左方向で悲鳴が上がった。

 前方では〝ぐしゃり〟と何かが潰れたような音。そしてドスンという地響き。

 右方向から、ごふっ、という獣のものらしき声。


 視界が利かなくなる瞬間を狙って、時間差で襲ってきた――その事に気付いて、ランスベルは戦慄した。ドラゴンの力を借りているせいで長く感じられてしまう恐怖の一瞬が過ぎて、視界が晴れていく。


 目の前にはギブリムがいて、腕を前方に伸ばしていた。その先には頭を潰された獣が横たわっている。白い体色は地面とほとんど同化しているが、頭部は弾けたように赤と灰色と黄ばんだ白とが混じりあい、その中にほとんど埋まるようにして魔法のハンマーが見えた。


 ドワーフであるギブリムは視界が利かなくても関係ない。正面から飛びかかって、逆にハンマーで倒されたのだろう。


 新たに現れた二匹の獣のうち、ランスベルの右方向に現れた一匹の前には二本の剣を抜いたアンサーラが立ち塞がっていた。獣はアンサーラの隙を探るように、ごふっごふっと息を吐きながら巨体を左右に揺らしている。


 そして左から聞こえた悲鳴は、コー族のものだった。


 吹き去って行く白い風に紛れるようにして、一匹の獣がコー族の足に食らいついたまま連れ去ろうとしている。人間にはとても追いつけない速さだ。他のコー族からすれば、仲間が風に連れ去られたように見えるだろう。だが、ランスベルにはその動きが見えているし、追うこともできる。


 ランスベルは地面を蹴って、コー族を引きずる獣を追った。

「待て!」というギブリムの制止の声は、一瞬で背後に消える。


 ランスベルに追いつかれると判断したのか、獣は逃げるのを止めて立ち上がった。コー族を咥えたままなので、その身体が逆さまにぶら下がる。膝から下はおかしな方向に曲がっていて、牙が深々と突き刺さっていた。


 ランスベルが回り込もうとすると、獣もそれに合わせて向きを変える。まるで咥えたコー族を盾にしているかのような動きだ。この獣にそのような知能があるのかランスベルは知らないが、まるで悪魔のような獣だと思った。


(〝白い悪魔〟って……こいつの事かもしれない)


 振り回されたコー族は痛みに絶叫し、がくん、と全身を弛緩させる。気絶したようだ。


 こうした戦いを想定した訓練をランスベルは受けていないので、どうするか考えなければならない。フェイントをかけて回り込めるかもしれないが、これ以上振り回されるとコー族の脚が千切れてしまう。獣の足は短すぎて股の下を潜るのも無理だ。


 背後に回り込むには飛び越えるしかない――ランスベルは竜剣ドラゴンソードを空高く放り投げると、両手を前に突き出して竜語魔法を叫んだ。


『走れ、炎!』


 炎の渦がそれぞれの手から放射される。獣を挟むように角度を付けていたので、獣にもコー族にも当たっていない。獣は突然の炎に全身をびくりと振るわせて硬直する。ランスベルはその隙を突いて跳躍した。


 放り上げた剣の柄を空中で掴み、獣を飛び越えて背後に着地する。獣が振り向くより早く、まるでアンサーラのように回転して剣を突き出した。


 分厚い皮膚と、その下にある柔らかい脂肪を貫き、筋肉の層を越えて内臓に達した手ごたえがあった。心臓があると思われる位置を狙って突き刺したが、獣は痛みを感じていないかのように振り向きざま腕を振り回したので、ランスベルは驚き、深々と突き刺した竜剣ドラゴンソードから手を離して飛び退く。


 それは獣の最後の抵抗であった。口の端からぶくぶくと赤黒い血の泡を出して、ズシンとうつ伏せに倒れる。最後までコー族の脚を咥えたままだったので、ランスベルは慌てて駆け寄った。


 コー族は運良く巨体の下敷きにはならなかったが、脚の怪我は酷い。獣の下顎に足をかけ、上顎を手で持ち上げようとしたところで「待って下さい!」とアンサーラの声がした。


 見るとアンサーラがすぐ近くまで来ていた。後を追って他のコー族、続いてギブリムが走って来る。アンサーラはすぐにコー族の脚の状態を調べた。


「牙を抜いたらすぐに手当てしないと失血死します。わたくしが魔法で応急処置しますので、合図をしたら口を開いて下さい」


 そう言いながら、アンサーラは腰の道具入れからどんぐりに似た木の実を三つ取り出して、息を吹きかけるように呪文を囁く。


「どうぞ」


 アンサーラの合図で、ランスベルは力を込めて獣の口を持ち上げた。

 獣の口が開き、酷い悪臭とともに血の塊がごぼりと溢れ出る。大量の血液で見えないが、牙が脚から引き抜けた感触があった。


「抜けた!」


 アンサーラは血で汚れるのも構わず手を入れて、コー族の脚を外に引き出した。右手に木の実を握り締め、左手で血塗れの脚に触れて呪文を唱える。


 その頃には、他のコー族とギブリムも追い付いていた。

 呪文を唱え終えたアンサーラはイムサに尋ねる。


「出血は止まったはずですが、すでにかなり血を失っています。集落まではあとどれくらいかかりますか?」


 イムサは〝分からない〟という顔をした。


「家まで、どのくらいですか?」


 ゆっくりとした口調でアンサーラが聞き直すと、イムサは少し考えてから「五ストーンです。半分です」と答える。


 ストーンというのは距離の単位なのだろうが、その事について考えている余裕はない。


「何か添え木になるものと布をください」


 アンサーラの言葉に従って、全員が荷物から役に立ちそうなものを探した。


 ギブリムは倒れたコー族の矢筒から矢を何本か取り出し、やじりをへし折ってからアンサーラに渡す。ランスベルや他のコー族たちも荷物から使えそうな布や毛布を取り出して渡すと、アンサーラは手馴れた様子で折れた脚を固定し、毛布で全身を包んだ。


 雪で両手に付いた血をできるだけ落としてから、アンサーラは小瓶をランスベルに渡す。


「間に合わないかもしれません。この方が目覚めたら、これを飲ませてあげてください」


 ギブリムは、コー族から離れてランスベルに言った。

「ドラゴンの力は解くな。こいつはお前が運んだほうがいい」


 ギブリムの言うとおり、この期に及んでもまだコー族はギブリムに不審な目を向けている。ランスベルは頷いて、倒れたコー族を持ち上げた。


「急ごう」


 下位竜語で言うと、イムサは「はい」と答えて歩き出した。

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