3.アンサーラ ―盟約暦1006年、冬、第9週―
アンサーラは夜明けまで瞑想して過ごした。ドワーフの地下都市に入ってからずっと夜明けを見ていないが、九二三歳になるアンサーラの時間感覚はそう簡単に失われるものではない。
冷気に対する魔法は二種類用意してある。一つは透明な液体で、冷気に直接晒される部分――例えば顔や手――に塗ることで魔法の効果が現れる。もう一つは赤黒い不気味な色をしていて、体温が低下した時に飲んで使う。かなり強力なので非常用である。
これらの薬が完成するまで一緒にいたランスベルは、三人のドワーフがいる家には戻らず、この家の一階で眠っている。
アンサーラは自我を強く意識して瞑想を終え、目を開いた。そして静かに長い息を吐く。自らの内的宇宙の深遠から戻るのが年々難しくなっている。内的宇宙の深遠から戻って来なくなる、というのは多くのエルフが迎える区切りの一つである。
それは魂の終着点ではないが、細かな意味合いを削ぎ落とせば〝死〟の概念に近い。
アンサーラの目でも室内は完全な暗闇なので、光を呼び出すため指先を小さな道具入れに差し込んだ。その中はさらに細かく区切られているが、長年使い慣れた触媒入れなので間違える事はない。
中指の先に苔をほんの少し付けて取り出し、それを親指ですり潰すようにしながら呪文を唱えて空中に放つと、ぼんやりとした緑の燐光が室内の闇を払った。人間には弱すぎる光だが、アンサーラには十分だ。
組んだ足の上にある二本の剣を壁に立てかけ、足を解いて立ち上がる。
裾が膝まである柔らかな絹のチュニックに、同じ素材のぴったりした薄いズボンという格好である。この絹はエルフの魔法によって作られたもので、人間たちが一般的に使っているものとは比較にならない強度と機能性がある。
滑らかな石のベッドにほっそりした指を這わせてその感触を確かめ、椅子代わりに腰を下ろすと、生い茂る蔦のような模様が描かれた革のロングブーツに足を通した。
膝上まで届くこのブーツはアンサーラのために作られたもので、履き心地は軽い。模様は単なる意匠ではなく、揃いの
エルフの中には革を身に着ける事を忌避する者もいるが、アンサーラは気にしない。人間よりも優れた技術で加工された革からは獣や死の臭いはしないし、それに絹や綿より丈夫で使いやすく、外での活動に向いている。
長い生を振り返って見れば、アンサーラはエルフの領域よりも外の世界にいる事のほうが多かった。
一揃いの革の手袋はまだ必要ないので荷物の上に置いたまま、ベルトで細い腰を締める。そして二本の剣を手に取って左右に吊るした。
この二本の剣は鏡に映したように細部までそっくりで、重さのバランスに至っては羽毛一つ分の違いすらない。二本合わせて〝ハーラルーラン〟という銘が付けられている。エルフ史上最高の刀剣鍛冶師として知られるルカイエンの鍛えた名剣で、〝この二本の違いが分る者こそ、振るうに相応しい〟という言葉も共に伝えられている。
その意味を理解した剣士が何人いるのかアンサーラは知らないが、少なくとも彼女はその一人である。
窓の向こう、通りの反対側の家に明かりが灯ったので、アンサーラはガラス越しにそちらを見た。ドワーフたちが目覚めたのだろう。
この地下都市の建物から扉は全て外されているが、窓はそのままになっている。窓枠から埃に埋もれつつあるものの、ガラスは透明で歪みもない。取り外して人間の町に持って行けば銀貨数十枚と交換できるほどのものだ。
かつてエルフとドワーフがこの世界で争っていた頃、エルフは人間たちに植物の栽培と魔法を教え、ドワーフたちは金属加工と建築技術を教えた。ドワーフの場合は教えたというより、下働きさせていた人間が勝手に真似たというべきだろうか。
エルフたちは人間を庇護下に置いたつもりだったが、ドワーフからすれば支配しているように見えていた。それはエルフから見たドワーフも同様である。そして人間からすれば、どちらの種族も支配者に違いなかった。
今やエルフはこの世界を去り、古き伝統に従うドワーフは地底に去った。地上に残った変わり者は人間社会に同化し、世界は人間のものになりつつある。人間社会と相容れない古き種族は、戦うか逃げるか、選択を迫られている。
(ドラゴンも、彼らに守られた王国も、その担い手たる竜騎士も、もはや消え去るべき古きもの……という事なのかもしれない)
アンサーラは窓辺を離れて石のベッドに置いた燭台に魔法で火を灯し、それを手に階段を下った。ランスベルの寝ている部屋に入ると、明かりに照らされたランスベルはパッと目を開いて、重ね掛けした毛布と毛皮のマントを跳ね上げ、剣を掴む。
エルフは通常の瞑想であれば眠っているように見えても周囲の状況を把握している。だからランスベルには熟睡しても構わないと言っているのだが、やはり扉のない家では安心できないのだろう。
「あっ、ああ……ごめん、もう朝?」と、ランスベルが少し寝ぼけた様子で言った。
「ええ。出発の準備をしましょう」
アンサーラがそう言う間にも、ランスベルはベッドから床に足を下ろし、頭をぶつけないように注意して立ち上がった。ドワーフ用のベッドはランスベルには窮屈なようだ。
「朝って感じが全然しないんだよなぁ……それも今日限りかもしれないけど」
「さて、それは……どうでしょう」
アンサーラはわざと悪戯っぽく言って、蝋燭の火をランタンに移して部屋を明るくし、ランスベルは自分の荷物から革のブーツと
「自分の目で見ろって事だね。結局、本当の意味で実感できるのって、その瞬間だけのような気がする。過去のある瞬間を思い出せば、その時感じた事は思い出せるんだけど、大切な何かが抜け落ちてしまってるっていうか……生の感情みたいなものがさ」
「それは真理ですね」と、アンサーラは頷いた。
身長に合わない長すぎる剣を肩に掛けたランスベルと共に家を出て、通りを渡って向かいの家に入る。
家の中は強烈なアルコール臭がした。感覚の鋭いアンサーラだけでなく、ランスベルもそう感じたのが、その表情から分かる。
ギブリムとバンはいつもと変わらぬ様子で朝食を並べていたが、ボルドだけはぐったりとしていた。何があったのかは聞くまでも無いので、アンサーラは黙って食事の席に着く。
「ボルドさん、病気?」
ランスベルが下位竜語で話しかけると、ボルドは「ドカ」と手を左右に振って否定した。ランスベルは不安げに他のドワーフを見る。
ギブリムは心配無用とでも言うように頷きを返し、バンはニヤリとして酒ビンを指差した。それでランスベルも「ああ、そういうこと」と納得する。
「二人と一緒なのも今日までだものね」
食事に手を伸ばしながらランスベルがそう言うと、ギブリムも食事に手を付けながら答える。
「うむ。だが氏族の者を寄越すようにと連絡してある」
「そのほうがいいね」
ランスベルは口に含んだ食べ物が見えないように手で隠しつつ言った。彼の育ちの良さが分かる仕草だ。
「コボルドに灰色小人、他にも入り込んでいるやつらがいたら、叩き出さねばならんからな。手が多いに越したことはない」
ギブリムの言葉に、意外という顔をしてランスベルは口の中のものを飲み込んだ。
「あれ、でも、この街は放棄するかもって言ってなかった?」
ギブリムは少しの間、黙ってランスベルを見てから口を開く。
「おそらく、放棄することになるだろう。だが、その前に連中を一匹残らず退治する。当然だ」
ランスベルはすぐに反応しなかった。意味が分からないのだろう。アンサーラはこれこそドワーフの本質だと思った。
この区画からドワーフがいなくなって二〇〇年近く経過しているように見える。人間ならその存在を忘れてもおかしくないような時間だ。その上、放棄する事がほとんど決定している。
それでもドワーフにとって、ここは今でも彼らの領土なのだ。ギブリムの言葉には、〝ここは我々のものだ〟という強い執着が感じられる。
地下都市を旅する途中で宿代わりに借りた家々にしてもそうで、立ち去る際には塵一つ残さないほどしっかりと家を掃除し、ドワーフの通貨であるオランを数枚置いていく。
数日留守にしている間に借りたならまだしも、二〇〇年間持ち主が戻っておらず、また帰ってくる事もないだろう家にそこまでするのは、土地や物の所有権に対するドワーフの常識が前提にあるからだ。
ランスベルが〝分からない〟という顔をして視線を送ってきたので、アンサーラは微かに首を横に振って答えた。それでランスベルも理解したらしく、話題を変える。
「ところで、アンサーラが冷気から身を守る魔法の薬を作ったんだけど、ギブリムは――」
「エルフの魔法はいらん」
ぴしゃりとギブリムは言って、ずんぐりした親指で自分の荷物にぶら下がっている円筒形の革袋を指した。
「俺たちにはこれがある」
「それは?」
「人間たちが〝ドワーフの火酒〟と呼ぶものだ」
ギブリムの言葉に、ランスベルは「へー」と反応した。
「ものすごく強い酒だって聞いた事あるよ。でもただのお酒じゃなかったんだね?」
ギブリムは黙って頷く。
一瞬の沈黙の後、アンサーラはランスベルの腕をつついて小声で言った。
「あの……ランスベル、念のため言っておきますが、今のはギブリムの冗談ですよ……。酒には身体を温める作用がありますが、火酒はあくまでただの酒です。それとは別に、冷気への備えがあるのでしょう」
ランスベルは咀嚼するのを止めて、ドワーフたちを見、再びアンサーラに視線を戻して、食べ物を飲み込んだ。
そして「いや、分かってるよ?」と無意味な虚勢を張り、食事に戻った。
食事を終えた一行は、いつもどおり後片付けをして出発の準備を始める。
アンサーラはランスベルに魔法の薬を渡し、肌の露出している部分だけでなく、なるべく広い範囲に塗るようにと伝えた。念のためだ。自身もそうして薬を塗り、魔法が発動したのを確認してから残りの装備を身に着け、最後にマントを羽織る。
このマントはあらゆる世界を旅するエルフにとってなくてはならない装備だ。その世界のあらゆるエレメントを織り込んで作られており、着用者をどんな環境にでも適応させる。その場に合わせて色が変わるのは、その力の副作用のようなもので本質ではない。魔法が発動していない今は、黒っぽい土色をしている。
このマントの魔法があれば、アンサーラには冷気を防御する魔法は必要ないのだが、いざとなれば自分以外の誰かに――例えばランスベルに――マントを使う事も考えておかなければならない。
最初に準備を終えたアンサーラは街路に出て全員が集まるのを待ち、一行は北に向けて旅を再開した。
家々の間を走る街路を抜けて坂道を上り、二階建ての家よりも高い位置にある橋を渡って街を越え、階層を貫く塔の螺旋階段を上へと進む。
先へ進むにつれて、周囲の気温はどんどん下がり続けていた。魔法が働いているため寒さを直接感じるわけではないが、アンサーラのマントは灰色から白へと色を変え、吐く息がはっきりとしていく。遠くから聞こえる笛のような風音が、次第にごうごうという獣の咆哮へと変わる。
やがて、北門がある通路へ出るという階段の下まで来ると、細い階段の入口から猛烈な強風が噴き出していた。ずんぐりした岩のように見える三人のドワーフは、風を意に介さず階段まで歩き、上っていく。最後尾のアンサーラは前を歩くランスベルが時々よろけるのを支えて進んだ。
そしてついに、一行は門のある通路へと歩み出た。猛烈な風が咆哮を上げて全身を叩く。風には白い粉雪や、きらきらと光る氷の結晶が混ざり、吐く息は雲のように長く尾を引いて地下都市の暗闇へと消えていく。
「なんてことだ……」
ボルドが吹き付ける風に目を細めて、そう呟いた。小さな声は風の中に消える。
前方の、おそらく門があった場所は瓦礫の山と化していた。
土砂と石材が混じりあった山の上にぽっかりと大穴が空いており、そこから雪まじりの風が吹き込んでいる。雪は積もって、一行のすぐ目の前まで白い斜面を作っていた。
「地すべりだ。山肌ごと、ごっそり落ちたんだ……」と、バンが言った。
「建設時に地層は調査してあるはずだ。支えられるように計算されていたはずだ」
信じられない、というようにボルドが反論する。
バンもギブリムもそれには答えなかった。答えはすでに目の前にあり、認める以外にない。
この通路は大アーチ橋に続く通路とよく似ていた。高さ三〇フィートの立派な柱が天井のアーチを支え、六〇フィートの幅があり、一行が出てきたのと同じような階段の入口が壁面に並んでいる。
ギブリムは屈んで地面に手を触れ、そして都市内部へと続く通路のほうを見た。
「傾いている」
独り言のように言って、風を背に歩き出し、二人のドワーフもそれに従う。毛皮のマントが見えない糸で引っ張られたように、ドワーフのずんぐりした背中を包み込む。
ランスベルは壁に手を付いて、動けなくなっていた。松明の炎が風に吹き消されてしまい、周囲が見えなくなってしまったのだろう。
アンサーラの目には、積もって固まった白い雪の斜面が大穴の向こうの暗い群青色の空色を映しているのが見えている。アンサーラは呪文を唱えて光を呼び出した。風の影響を受けない緑色の光が周囲から闇を払う。
「ありがとう、アンサーラ」
ランスベルはそう言ってから、手で風を防ぎつつ周囲を見回した。
「まるで夜みたいだ」
「実際、夜なのです」
「えっ?」
「極北では冬の時期、太陽の昇らない期間があります」
ランスベルはもう一度、雪の斜面と大穴のほうを見てから、振り向いた。
「ところで、皆はどこへ?」
「少し奥のほうを調べてくるだけだと思います」
アンサーラの言葉どおり、すぐにドワーフたちは戻ってきた。三人の出す騒音と声が近付いてくる。
「支柱が割れているんだよ。それで通路が傾いて、床の一部が崩落したんだ」というバンの声に続いて、ボルドの声が響く。
「地すべりのために通路全体に歪みが出たのだ。それで支柱の一つに想定外の比重がかかってしまって割れた。そんなところだろう」
「……一生に一度あるかないかの大地震だったものなあ」
声と共に、バンが姿を現した。
続いてボルドが顔をしかめて「のん気な物言いだな」と言いながら出てくる。
最後にギブリムが歩いてきた。
「いずれにせよ、ここからダーガが侵入したのは間違いあるまい」
三人のドワーフは戻ってくると、そのまま大穴へ続く雪山の前まで歩いた。ギブリムが腕を組んで見上げながらファランティア語で言う。
「しかし、これはこれでやっかいなものだ」
それは表面だけ見れば、ただ雪に覆われただけの斜面に見える。しかしその下には大小様々な石材や土砂が埋まっているはずだ。凍りついて固まっているとしても、崩れないほど安定しているかどうかは分からない。
表面を覆う雪にしても固く凍っているように見えるが、柔らかい層と固い層に分かれていた場合、登っている途中で表面だけが雪崩れ落ちる事もあり得る。運が悪ければ生き埋めになってしまうだろう。
アンサーラ一人なら、危険を顧みず、自分の俊敏さを信じて駆け上がる事もできる。ドラゴンの力を借りればランスベルにも可能かもしれない。しかしギブリムは無理だ。
「一歩ずつ慎重に登っていけばいいんじゃないの?」と、ランスベルが当たり前のように言った。
「そうですね」
「うむ」
アンサーラが頷き、ギブリムも同意する。
ギブリムはバンとボルドに「ここを登るのに協力してくれ」とドワーフ語で頼んだが、アンサーラには命令しているように聞こえた。二人のドワーフは「はい。ヴァルデン」と言って、雪山に向かって歩き出す。
その時、アンサーラは吹き込んでくる風の中に雪を踏みしめる足音と、生物の呼吸音を聞きつけた。目を細めて雪山の上の大穴を見やる。隣でギブリムも大穴を見上げた。
雪山の上に三つの人影がにゅっと伸びた。ずんぐりしているがドワーフではない。弓を構えている。三人のうち、一人が大声で何か言った。極北の地に住む人間の言語だ。〝ドワーフ〟と言ったような気がする。
ランスベルがアンサーラに尋ねた。
「人間……のように見える。冬は東に移動しているって言ってなかった?」
「わたくしにも、分かりません」
アンサーラが答えてすぐに、バンがドワーフ語で叫んだ。驚くほどの大声が怒気をはらんで響き渡る。
「下がれ! お前たちはギブリム氏族の土地を侵犯している。今すぐ下がらねば攻撃する!」
そして腰の後ろに手をやり、マントの下から
三つの影は慄き、怯えた声を上げた。そして、弓が引き絞られる音をアンサーラは聞き取った。
いけない――と思った瞬間、ランスベルが叫ぶ。
『ブラウスクニース、我に力を!』
ほぼ同時に人影の一人が矢を放ち、バンは
ランスベルの動きはアンサーラでも驚くほど速く、正確だった。跳躍して、左手で回転しながら飛ぶ
ランスベルの右足が、ばりっと氷を踏み割り、雪に覆われた斜面に亀裂が走った。アンサーラは飛び出すのを止めて、何が起こっても対処できるようにと身構える。
「我が名は金竜騎士ランスベル! 敵ではない!」
ランスベルの下位竜語を聞いて、三人は明らかに動揺した。
聞いた事のない言葉であるにも関わらず、言葉以上に正確な意味が伝わる魔法の言語に驚いたのか、それとも竜騎士という名乗りに驚いたのか、アンサーラにも分からない。
ちらりと横目にドワーフの様子を見ると、三人とも立ち尽くしている。おそらくランスベルの離れ業に驚いているのだ。正直なところ、それはアンサーラも同じである。
三人のうち一人が動いたので、アンサーラはそちらに注意を向けた。中央に立つ一人が杖のような物で左右の二人を軽く叩く。すると二人は手にしていた弓を背後に捨てて両手を上げた。
杖を持った人影は、まるで礼拝するように膝を付いて、懇願する。
「竜騎士様、許し必要です。私、コー族、ドルイドです。竜騎士様、助け必要です。あなた必要です」
ランスベルはその男を見上げていたので、アンサーラの位置からでは見えなかったが、きっと驚いた顔をしているはずだ。
コー族のドルイドと名乗ったその人間は、拙くはあるが確かに、テストリア大陸の言葉を話したのだ。
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