11.マリオン ―盟約暦1006年、冬、第9週―

 マリオンは王都ドラゴンストーンの東に広がる田園の中を一人、馬でファステンの町へ向かっていた。この道は田園地域のほぼ中央を南北に縦断しているので、村まではずっと田園風景が続く。


 田園風景と言っても、真冬の今は黒々とした剥き出しの大地が広がっているだけで硬く寒々しい印象である。秋の収穫前だったなら、黄金色の穂をつけて生長した麦が一面に広がり、秋の陽気と相まって柔らかな印象だったに違いない。


 右手には点々と果樹園や木立が見えるが、葉は落ちて枝だけになっていた。まだ収穫されていないカブやキャベツの葉の緑だけが、色を残している。


 左手には王都の壁と、その向こうにそびえるレッドドラゴン城が見えた。ここからだと両手を広げたくらいの大きさで一望できるので、城と王都がいかに計算されて作られたかが分かる。中央の頂上にある城へと段々に高くなる構造は、歪みも偏りもなく美しい。


 普段はその中で暮らしているマリオンが、外から王都を眺める機会は、実際のところ少ない。


 馬が小さく嘶き、息が白くたなびく。


 今日はこの冬一番の寒さだった。これから本格的な冬になるぞ、と王都の人々に先触れするような天気で、空はどんよりとした灰色の雲に覆われ、太陽はその向こうでぼんやりと弱々しい。


 ふと、人の気配に気付いてマリオンが前方を見れば、木立の中に少年とより幼い少女が立っていた。兄妹かもしれない。二人は金縛りにあったようにじっとマリオンを見ていたが、彼が近くまでやって来るとぎこちなく膝を折って頭を垂れた。


 王都の近くに住んでいれば騎士を見かけるのも珍しくない。帝国との戦いが始まってからは特にそうだろう。だが二人が驚いたのは、おそらくマリオンの馬装や外套クロークに刺繍された紋章を見たからだ。


 近衛騎士を王都の外で見かけるのは珍しく、しかもマリオンは近衛騎士団の元副団長なのだった。ステンタールが退いた後、一時的に団長の任を負っていた事もある。


 少年たちがその事を知っているのかどうか分からないが、近衛騎士が単騎でこんなところにいるのが珍しいのだろう。


 マリオンは馬上で胸を張り、姿勢を正して少年の前を通り過ぎた。


 男の子というものは、騎士に憧れるものだ。特に王の近衛騎士となればなおさらである。だから、彼らの憧れとなるような存在であらねばならない。


 そういう意味でも、ステンタールは〈王の騎士〉に相応しい騎士であったとマリオンは思う。


 一〇歳も年下の彼を近衛騎士団長に推したのは、同じく団長に推挙されていたマリオン自身であった。ステンタールは長身で肩幅が広く屈強な体躯をしていて、剣は素早く正確でありながら、時に激しく感情をぶつけるような大胆な攻撃をする。王国で最強の騎士と呼んでも差し支えなかった。


 何より幼い頃からテイアラン四九世王と共に過ごしてきたという生い立ちは、王のためにある近衛騎士団の長〈王の騎士〉としてこれ以上ないものだ。


 正直過ぎて熱くなりやすい性格は短所でもあったが、完璧な人間などいない。ましてや、殺されなければならないほどのものでは決して無い――マリオンはいつの間にかステンタールの事を考えていて、そして最後には、これまで何度もそうしたように目を強く閉じて怒りと無念とに耐えた。


 ステンタールが退団して次の団長を決めなければならない時、マリオンは自分がその任に就くだろうと思っていた。だが、ステンタールが非業の死を遂げ、その惨たらしい死に様を目の当たりにして、彼は決して殺人者を許さないと心に誓ったのだった。


 近衛騎士団は常に王の側にあらねばならない。だから城を離れて犯人探しなどできない。テイアラン四九世の仇討ちを誓ったステンタールが騎士団を退いたのもそれが理由である。そしてマリオンもまた、同様の理由によって騎士団を退こうとした。


 新たに〈王の騎士〉となったアルバンはそれを許さなかったが、代わりに前団長ステンタール殺害犯を捜索するという特命をマリオンに与えてくれた。これは前代未聞の措置であり、テイアラン五〇世王の即位に乗じたものであった。


 マリオンはアルバンに感謝して騎士団を離れ、以来、ステンタール暗殺の犯人を追っている。


 やがて王都が手のひらに乗るほど小さく見えるようになった頃、マリオンはファステンの町に到着した。


 マリオンが最後にファステンを訪れたのは一二歳の頃なので、今から三〇年も前になる。それでも町並みを見て、空気の匂いを嗅ぐと、当時の記憶が蘇ってきた。


(覚えているものだな……)


 我ながら感心しつつ町中に入っていく。


 町の様子はマリオンの記憶とほとんど変わっていなかった。大きかった建物がみな小さく見えるが、それはマリオンが成長しただけでなく馬上にいるからでもあろう。


 はしゃぐ子供らの甲高い声が聞こえ、水場では女達が何事か雑談しながらそれぞれの仕事をしていた。屋根の上で作業している男が木槌を振り下ろすトントントンという音の調子もいい。


 それは平和で日常的な光景だった。とはいえ、戦争の影響が全く無いわけではない。


 町の広場に向かう道すがらでも、二軒ほど扉に板が打ちつけられた家があった。ファランティアでは手続きに多少の手間はかかるが、民は自由に移動できるので、より安全と思われる北部や西部に避難したのだろう。


 ホワイトハーバーを占拠した帝国軍が秋の終わりに進軍してきた時、王都周辺は緊迫した雰囲気になった。北方連合王国の援軍が間に合い、東部街道で帝国軍に勝利して以来、王都周辺は安全だと言われている。ファステンを見る限り、それを信じている民のほうが多いようだった。それがマリオンを複雑な気分にさせる。


 暗殺者を追って団を離れているマリオンでも、彼らよりはずっと実情を把握していた。東部における緒戦で指揮官を失った帝国軍は、ホワイトハーバーまで撤退したが、軍の再編を終えて進軍間近と見られている。皇帝レスター本人がその軍勢を率いるという噂もある。


 対するファランティア・北方連合王国同盟軍はハイマン将軍の指揮下でこれに備えているが、前回同様に東部街道が戦場になる可能性は低い。南部から猛烈な勢いで北進を続けるテッサニア軍は、キングスバレーのトビアス公までも破って王都に向かっている。東部街道では位置的に、テッサニア軍に背後を取られてしまう。


 そのため、次の戦場はもっと退いた場所――すなわち王都に近い場所になると予測されていた。


 その時が来れば、マリオンも騎士団に戻らなければならない。そして近衛騎士団が守るのはテイアラン王ただ一人であって、ファステンで暮らす民ではないのだ。


(確か、あの家の向こうが広場になっていたはず……)


 戦争の事はひとまず心の片隅に追いやって、マリオンはゆっくりと馬を進めた。住民たちは誰しもマリオンを見て頭を垂れたが、話しかけてくる者はいない。


 マリオンの記憶は正しかった。目印にした家を過ぎて、広場に出る。


 定期的に市が開かれ、時には催し物などもある場所だが、今は畳まれた露店の骨組みが残っているだけだ。広場の半分は片付けられていて、そこには本来、畑で立っているはずの案山子がいくつも並んでいる。訓練用の的に使われているのだろう。


 王国中から兵が集められている今、ファステンも例外では無い。ただ軍への合流を求められていないだけだ。騎士か近衛兵がファステンの防衛を任され、住民たちを訓練しているはずである。


 帝国軍が王都に迫った場合、ファステンは拠点として占領されるか、略奪に遭う可能性が高い。軍に兵を合流させるよりも、自分たちの町を守らせたほうがいいという判断だろう。


 訓練用の案山子を横目に、マリオンは広場を見回して目的の店を探した。ブーツの形に見えるよう銅版を加工して作った看板が、西日になり始めた太陽の光を受けて鈍く輝いている。


 あれだ――マリオンは馬首をその店に向けた。


 店の前まで行って下馬すると、着込んだ鎖帷子チェインホーバークがチャリチャリと音を立てる。マリオンは近衛騎士の甲冑を着ていないが、袖なしの軍衣サーコート外套クロークも近衛騎士団の正式なものだ。帯剣もしているし、馬に括りつけた荷物には馬上で扱いやすい縦長の盾カイトシールドもある。


 道中の人々がすぐ見抜いたように、マリオンは誰が見ても近衛騎士と分かる格好をしていた。だからマリオンが店内に姿を現すと、中にいた二人はすぐさま反応した。店主の男は緊張した面持ちで頭を下げ、妻と思しき婦人は頭を下げてから、店の奥へと駆け込んで行く。


 店主はカウンターから飛び出して、もう一度頭を下げながら名乗った。

「店主のヨルケでございます。騎士様」


 マリオンは頷いた。


「私の名はマリオン。見ての通り、王の近衛騎士である。報せを聞いてまいった」


「まさか近衛騎士様が直々に来られるとは――」


 目を丸くしたまま、そこまで言ったところで店の奥からの物音にヨルケは振り返った。マリオンもそちらに目をやる。店の奥から婦人に腕を掴まれて、少年が連れ出されて来た。年齢は一〇歳前後というところだ。


「ヨルケの妻メヌエでございます、騎士様」と婦人は名乗って頭を下げ、それから「これが息子のライエルです」と少年の背中を押して一歩前に出させる。少年は不服そうに自分の足元を見下ろしたまま、さらに頭を下げた。


 マリオンはライエルを正面から見下ろした。少年は肩を縮めて微かに震えている。


「私の名はマリオン。ライエルよ、顔を上げなさい」


 ライエルはまだ幼い顔をしていて、青ざめ、涙ぐんでいた。しかしその表情にあるのは恐怖だけではない。恐怖の中にも反抗の意思が見て取れる。


「手を付いて許しを乞いなさい、ライエル!」


 メヌエが金切り声を上げたが、マリオンは手を向けて夫人を抑えた。それからライエルを見据えて尋ねる。


「奴は今も、旧ロフォーテン家の屋敷にいるのか?」


 ライエルは一瞬抵抗してみせたが、頷く。


「間違いないか?」


 少年は顔を歪めて、悔しそうにもう一度頷いた。


 マリオンは両親に向けて問う。

「あなた方は知っていたのか?」


 ライエルの両親は二人とも慌てて首を左右に振った。


「ドラゴンに誓って、知りませんでしたとも!」


 ヨルケがそう答え、メヌエが早口に付け加える。


「この子が食べ物や飲み物を少しずつ持ち出していると気付いた時には、野犬の子供でも育てているんじゃないかと思ったのです。そういう事が以前にもありましたから……それで、ライエルを問い詰めましたら、魔術師を匿っているって言うので驚いて。急いで近衛兵のエルマー様にお知らせしました」


 ライエルの表情が、まるで両親に裏切られたような苦渋に満ちたものに変わるのをマリオンは見ていた。


「なぜ、すぐに知らせなかった?」


 マリオンはライエルに問うたが、少年は答えない。近衛騎士は片膝をつき、目線を少年と合わせてもう一度尋ねた。


「手配されていると知らなかったのか?」


 ライエルは結んだ口元を震わせていたが、ついに口を開いた。


「……手配されているのは知ってました。だけど、あの人は悪い人じゃないんです。屋敷にいた頃は町の子供たちに読み書きや計算を教えてくれて……僕も習っていたからどんな人かよく知っています。それに――」


 ライエルは振り向き、両親を睨みつけて言った。


「困っている人や弱っている人がいたら助けるようにって、いつも言っていたじゃないか」


 両親は二人とも困惑したように眉をひそめた。メヌエが何か言おうとしたが、結局何も言わなかった。


 マリオンは「ライエル」と呼びかけて少年を自分のほうに向き直させてから、目を見て話す。


「君のご両親の教えは間違っていない。君は善を為そうとした。だが、秩序を重んじる事を忘れてしまった。ゆえに、君のした事は間違いだ」


「人を助けたのが間違いだっていうんですか?」


 ライエルは少し反抗的な物言いをしたが、マリオンはそれを許して、首を左右に振った。


「秩序を重んじない善は、ただの自己満足に過ぎん。あるいは、他の誰かにとって悪行となろう。時には秩序と善が対立するように思える事もあるが、それは考え方が間違っているのだ。秩序は善を内包したものでなければならず、また、それを目指すのが正しい行いというものだ」


 ライエルの表情は困惑に変わった。


 まだ理解できんのだろうが、無理もない――マリオンは立ち上がり、最後に少年へ告げる。


「この事を良く覚えておいて、いつでも、何度でも、考えなさい」


 話が終わるのを待っていたのか、ヨルケとメヌエがほぼ同時に問う。


「あの、私どもはどうすれば?」

「あの、この子はどうなるのでしょう?」


「過ちは正さねばならぬ。だが子供のした事。鞭打ち三回が妥当であろう。そのように伝えておく」


 マリオンは外套クロークの裾をひるがえして店を後にした。


 ファランティアの法では、鞭打ち刑は罰金で償う事もできる。一回につき銀貨一〇枚なので、今回なら銀貨三〇枚だ。それなりに大金だが、ヨルケの店を見る限り支払える額であろう。


 仮に支払えなかったとしても、援助してくれる住民がいるはずだ。ヨルケがよっぽどの貧乏人で、かつ町中から嫌われているのでなければ、ライエルが鞭を打たれる事はない。実際に鞭打ち刑が行われたという話は、昨今ほとんど聞かない。


 マリオンは再び馬上の人となって広場を離れた。


 元々はロフォーテン家の所領であったこの町は、屋敷から一望できるようになっている。逆に言えば、町から屋敷が見える。道に迷う心配はない。


 町の中心を離れて屋敷に向かう道を進み、その周囲を囲む木立までやって来ると、マリオンは馬を下りた。近くの木に馬を繋ぎ、それから鎖帷子チェインホーバークを脱ぐかどうか迷ったが、結局そのまま木立の中から屋敷に近づいていった。


 鎧の音で自分の存在が相手に伝わるのを心配したからだが、こっそりと忍び寄る訓練などした事がない。それに魔術を使って警戒されていたら、マリオンにはそれを見抜く術も、身を隠す術もない。


 覚悟を決めて剣の柄に手を置き、いつでも抜けるよう身構えたまま、木立の中を進む。緊張感が胃を絞めつけ、口の中が乾く。ファランティア騎士の例に漏れず、マリオンもまた実戦を経験した事が無かった。


 最近では東部や南部で戦いを経験した騎士や兵士も増えたが、王の近衛騎士団が前線に出た事はない。レッドドラゴン城でも王都でも、どこでも我が物顔で歩くようになった北方の蛮族たちが裏で〝ぴかぴかのお人形〟と近衛騎士たちを揶揄しているのも知っている。


 だが、マリオンには機会さえあれば彼らとも互角以上に戦える自信があった。騎士の家系に生まれ、物心付く頃から戦闘訓練を積んできた生粋の騎士なのだ。違いがあるとすれば実戦の経験――主に心構えの部分だとマリオンは思っている――だけだ。


 朽ちた落ち葉が堆積した地面は柔らかく、マリオンの頑丈なブーツでもほとんど音を立てない。そのため逆に、鎖帷子チェインホーバークの立てる音や、外套クロークの衣擦れが異様に大きく感じられる。


(これでは相手に気付かれているだろうな……)


 マリオンは何週間も前の、魔術師を徴用するという話を思い出していた。彼らは昔話に出てくる魔法使いのように爆発する火の玉を投げたり、電撃を放ったりはできないと言っていた。


 今はそれが嘘でないと信じるしかない。もしも嘘だったら、木立を抜けて姿を現した瞬間にマリオンは魔法で殺されるだろう。炎か電撃か冷気か――何かで。


 木立の向こうに屋敷が姿を現すと、マリオンは足を止めて木の陰から屋敷を観察した。館の七割は解体され、敷地の隅で瓦礫の山となっている。


 盟約による守護が失われた日――今にして思えば、全ての始まりの日――に起こった魔術師の暴走により損壊した館は、その後モーリッツ伯の手に委ねられた。だが、モーリッツ伯がどんな計画を持っていたにせよ、それが中断しているのは間違いない。


 館は解体作業の途中という状態で、何本もの支柱と梁がむき出しのままになっていた。火災によって焼け焦げた跡が残っている箇所もある。残った三割の部分も、切り取られた館の断面というふうで一階と二階が露出し、廃墟の様相であった。まるでずっと以前から廃墟だったようにも見える。


 マリオンが三〇年前にこの館を見た時は、〝思ったより小さいな〟と感じたものだ。ロフォーテン家は王家に連なる大貴族である。その館にしては、という意味で。


 単純に大きさで比べればマリオンの生家と同じくらいだったが、近くで良く見ると、やはり格の違いは明らかであった。窓枠など細々とした箇所にも施された装飾、庭や生垣、あらゆるものが屋敷全体を華美過ぎず上品に仕上げていて美しかった。


 しかし、それらも今や見るも無残な有様である。

 まるでファランティア王国のようだな――と思って、はっと我に返る。


(何を感傷に浸っているのだ、私は)


 マリオンは剣の柄をぎゅっと握りなおして、なるべく遮蔽物になりそうなものの陰に隠れながら敷地内に入った。


 館の残された部分には扉も残っていたが、律儀にそこから入る必要もない。マリオンは崩れた壁の隙間から中を覗き見て、館に侵入した。


 二階部分を合わせても、原型を留めているのは六部屋程度だ。

 近い扉から一つずつ部屋を確認していき、そして三つ目の部屋で探していた男を見つけた。


 男は、壊れた家具と瓦礫に囲まれて部屋の隅で膝を抱えていた。鮮やかな薄緑色だったローブは黒く汚れ、悪臭を放っている。裾から出た手首は枯れ枝のように細く、フードの影の中にある顔も最後に見た時よりずいぶんやせ細っていた。しかし、露出している鼻と顎の形は変わっていない。


「コーディー」


 マリオンが呼びかけると、男は反応してゆっくりと顔を上げた。その目は虚ろで、いかなる感情も読み取れない。


「書記官、なぜ姿をくらました。ドンドンも一緒か?」


 書記官と呼ばれて、コーディーは自嘲気味に口元を歪めた。マリオンの嫌いな笑みだ。


「ドンドンは……知りません。アリッサが死んだ悲しみが大きすぎて自分自身を消してしまったのかも。もっとも、あの子は実の母親を消してますからね。意外と平気かもしれませんが」


 コーディーの声は擦れていて、耳を澄ませないと聞こえないほど小さく、聞き取り難かった。


 マリオンは剣の柄を握ったまま、じりじりと距離を詰める。


 コーディーは瓦礫に背を預け、観念したように両手両足を投げ出した。近付くと、ローブから露出した細い手首に細かい傷が何本もあるのにマリオンは気付いた。手首を切ろうとしてやり切れなかった傷跡のように見える。


「なぜ城から姿を消した――いや」

 マリオンは途中で言葉を切って、言い直す。


「なぜ魔術師たちを毒殺した?」


 コーディーはまた自嘲的な笑みを浮かべるだけで、何も答えなかった。

 マリオンはその表情への嫌悪感と怒りを抑えながら話し続ける。


「ステンタール卿に、魔術師たちがちょっとした祝宴を企画していると教えたな。これから味方として戦う魔術師にワインの一樽くらいは差し入れてもいいのではないか、と話したそうだな。偶然それを耳にしていた召使いがいたのだ」


 コーディーは何も答えない。マリオンはじりじりと近寄りながら話す。


「あの夜、ステンタール卿の別邸にワインを届けた酒屋は、ワインを受け取ったのが〝腹の出た魔術師〟だと言った。その特徴に一致するのはドンドンか、あの夜に死んだオービルという魔術師だけだ。だが、ドンドンはレッドドラゴン城から出ていない。私は何度も酒屋に足を運び、確認し続けた。さすがにうんざりしたのか、最後に酒屋はこう言った。〝だから何度も言ってるでしょ。背の高い、腹の出た魔術師でしたよ〟とな。酒屋の身長は私と大差ない。その彼が〝背の高い〟と形容するような人物は死んだ魔術師の中にいない。書記官、お前以外にそんな身長の魔術師はいないのだ。身長を伸ばすのは難しいが、腹を出っ張らせるのは簡単だ。綿を詰めた袋でも腹に巻き付ければいい。どうだ、反論はあるか?」


 マリオンはコーディーの部屋と残された持ち物を調べていたが、そのような変装に使えそうな物は見つけられなかった。それこそ、綿を詰めた袋でも見つかっていたらこの場で突きつけていただろう。だからもしコーディーが、〝魔術で簡単に身長も体型も変えられるのですよ〟とでも言ったなら、マリオンにはそれに対抗できるような証拠は無い。


 しかしコーディーは小さな声で「……ありません」とだけ言った。


「つまり、ステンタール卿に罪を着せて仲間の魔術師たちを皆殺しにした、と認めるのだな」


 コーディーは口元を歪ませて「ええ」と答える。


 その瞬間、マリオンの全身に怒りが駆け巡った。一歩前に踏み出してその首を刎ねてしまいたかった。だが、長年培ってきた自制心のおかげでなんとかそれに耐え、呻くように問う。


「なぜ、そんな……ことを?」


「愛のためです」


 今度はマリオンのほうが黙ってしまう番だった。


「アリッサも進言していましたが、彼らには戦力になるような魔術は使えなかったのですよ。つまり戦場に連れて行かれれば死ぬだけだった。アリッサは自分だけ王都に残るような事はしないでしょうから自ら前線に立って戦ったはずです。そうなればアリッサは命を落としたでしょう。仲間の魔術師を守るため、足手まといの魔術師のためにです。帝国を脱出する時にも似たような事があったので間違いありません。彼女は自分の身を呈して仲間を守ろうとしていました。まるで失った夫と息子の代わりみたいにね」


 じりっ、と半歩足を進めて、マリオンは自分の剣の間合いにコーディーを捉えた。怒りのために剣の柄を握る手が震え、カタカタと鞘が音を立てている。


「つまりアリッサのためだったと言いたいわけか。そのために仲間の魔術師を殺したと。そのためにステンタール卿に罪を着せたと?」


「ステンタール?」


 コーディーの目に感情が戻り、口を大きく開いてひゅうひゅうと音を出した。笑ったのだ。


「ああ、狙ったわけではなかったのですが、殺されたらしいですね。あの臆病者の馬鹿は自業自得ですよ。アリッサに何かされたわけでもないのに、考えもせず、理解しようともせず、アリッサを敵視して……あれは単に怯えた犬が馬鹿みたいに吠えかかるアレでしょ?」


 興奮したようにコーディーは身を乗り出し、口の端から泡を飛ばして罵倒し続ける。


「アリッサの価値に比べたらあんなのはクソ以下ですよ。本当にどうでもいい。計画通りなら今頃、私とアリッサは保護され――」


 目を見開き、口を最後に発した言葉の形にしたまま、コーディーの首は宙を舞った。


 マリオンは剣を横に凪いだ姿勢のまま、怒りに肩を震わせていた。コーディーの首を刎ねても怒りは膨れ上がるばかりで収まらない。再び、怒りの咆哮を上げて剣を振り上げ、首の無いコーディーの胴体を真っ二つにしようかという勢いで振り下ろす。


 だが、マリオンの自制心がぴたりと剣を止めさせた。


 死体を細切れにしてやりたいほどの怒りが心中に渦巻いていたが、そんな所業は騎士に相応しくない。


 首から吹き出す血が剣を濡らし、痙攣するコーディーの胴体を血で染めていく。頭は瓦礫の間にごろりと転がっている。


 マリオンはそのまま部屋から庭に飛び出した。


 記憶を頼りに、まっすぐ井戸へ向かう。幸い、井戸には桶が残っていて使えそうだ。血塗れの剣を立てかけて、返り血のついた革の手袋を外し、水を汲んで何度も顔を洗う。しかし何度洗っても、鼻の奥に残った濃い血の臭いは消えない。手に残る人間の首を刎ねた感覚は消えない。


 マリオンの身体は怒りに支配されていても訓練通りに動き、見事に一振りでコーディーの首を刎ねた。完璧な一撃だった。自分はやれるという自信と、怒りに任せて行動してしまった恥ずかしさと、相手を殺してさえまだ残る怒りへの恐れが、心中で複雑に絡み合っている。


 マリオンは井戸の横に腰を下ろし、両手をじっと見つめたり、顔を覆ったり、空を見上げたりして、心の整理がつくまでそうしていた。


 やがて日が落ち、空に星が瞬くようになった頃、マリオンの心に残ったのは後悔だった。コーディーを殺した事自体は後悔していないが、怒りに我を忘れて行動してしまったのは失敗だった。


 コーディーの言葉を思い返すと、彼一人の計画ではない可能性が高い。そして、ステンタールを殺害したのはおそらくコーディーではない。彼を殺す事で、最も重要な手がかりを自ら消してしまったのだ。


 黒幕を探る時間はもう残されていない。戦争が迫っているのだ。ステンタールの死も、その真相も、戦争に飲み込まれてしまうだろう。


 だが一番の後悔は、コーディーに恐怖も痛みも感じる暇がないほど速やかな死を与えてしまった事だった。それこそ、コーディーが望んでいたものに違いなかった。ステンタールを侮辱する事でマリオンを操り、そうさせたのだ。


「くそったれの魔術師め!」


 マリオンは吐き捨てるように言った。一人の時でさえ、今まで口にした事のない言葉だ。


 それから彼は立ち上がり、剣と手袋を洗ってから、死体を持ち帰るといううんざりする作業のために館へと戻って行った。

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