12.ヴィルヘルム ―盟約暦1006年、冬、第9週―
ファランティア西側の海岸は不自然な形をしている。まるでバターの塊にナイフを入れて切り取った断面のような絶壁が五〇〇マイル以上も続いているのだ。
その絶壁に打ちつけられた荒々しい波が砕けて、三〇〇フィートの高さがある崖上まで白い飛沫を飛ばしている。
この、ファランティア以西に広がる黒々とした海に果てはないと人々は言う。やがて島も岩礁も生物も消えて、ただ何も無い黒い海が永遠に続くのだ――と。
ただし、大海の神オルシスを奉じるスケイルズ諸島の民は別だ。彼らは黒い海の果てこそ大海の神の領域であり、最初の人間が生まれた〈原初の島〉があると信じている。
スケイルズ人は死者を小船に乗せて海へ送り出して弔うが、それは肉体を〈原初の島〉へ送り返すためだ。魂は、神に認められた勇者ならばその御手にすくい上げられて〈水の宮殿〉へ、そうでないなら
あと数歩前に進み、この黒い海に飛び込めば自分の肉体も〈原初の島〉とやらに流れ行くだろうか――ヴィルヘルムは断崖に立って思った。
スケイルズ人のように大海の神を主神として奉じているわけではないが、大海の神は六神の一柱なのだから、自分にもその恩寵があっていいのではないかと思う。ファランティアでは六神信仰が当たり前過ぎて信者というほどの自覚はないが、六神の祝日には神殿で祈ったし、その資格はあるはずだ。
(……馬鹿らしい)
ヴィルヘルムはそんな考えを自嘲して笑みを浮かべた。
目の前に広がる冬の海は荒れ狂っている。冷たい海風が吹き寄せ、高波が岸壁を洗い、空は灰色の厚い雲に覆われ、いつ雪がちらついてもおかしくない。
だから崖から飛び出しても風に押し戻されて岸壁に激突し、海ではなく岩場に落ちて死ぬだろう。思い切り助走をつけて飛び出せば海まで届くかもしれないが、ヴィルヘルムの不自由な足では無理だ。
仮にできたとしても、海の果てまで流されるとは思えない。波に押し戻されて岸壁に叩きつけられ、やはり岩場にでも引っかかってしまうに違いない。
岩の隙間で波に洗われながら人知れず朽ちていく自分を想像して、それも悪くないなとヴィルヘルムは思った。
その時、いっそう強い風が海から吹いてきて、見えない手で突き飛ばされたようにヴィルヘルムはよろけた。マントが風にあおられ、胸の前で掴んでいた手を離れる。風をはらんで大きく広がったマントが、身体を後ろへ引っ張って尻餅を付かせた。手にしていた杖は回転しながら後方へ飛んで行く。
背後に立つ、壊れて回らない風車が軋んで恐ろしげな音を立てた。バラバラになりはしないかと心配になって振り向くと、帆のない骨だけになった風車がぐんとしなっている。
そこは彼の住まいであり、手元に残った唯一のものだ。
(結局、残ったのは壊れて傾いた風車小屋だけか……)
自虐的な考えが、再び乾いた笑いを誘う。
ふいに、その風車小屋の横から馬に乗った騎士が姿を現した。
耳元で唸る風の音が風下にいる騎士の音を消していたので、まるで亡霊のように気配が無かった。騎士は馬を下り、ヴィルヘルムのほうへ緩やかな傾斜を歩いて来る。
その騎士が何者か、ヴィルヘルムには何となく分かっていた。
立ち上がりもせず黙って待っていると、騎士は途中で歩行杖を拾い、ヴィルヘルムの目の前まで来てそれを差し出す。
「ギャレット、お前は――」
ヴィルヘルムの言葉は湧き起こった怒りに途切れた。ギャレットが生き延びていた事には、不思議と驚きを感じない。そして胸の内に一瞬燃え上がった怒りの炎は、冷たい海風に吹き消された。
「お前は、また――いや、父上の最期を伝えに来たのか」
ヴィルヘルムが歩行杖を受け取ろうとしないためか、目の前の地面にそっと置きながら、「誓いを果たすために来ました」と彼は言った。
ギャレットは薄汚れていたが、
ヴィルヘルムにとって、彼は失われたものの名残、まさしく亡霊である。
そして亡霊は、過去の記憶で生者を苦しめるために現れるのだ――。
ヴィルヘルムは子供の頃から、父のようになれと周囲に言われてきた。実際に口に出してそう言う者もいたし、口には出されずともその期待を感じていた。
まだ従者だった頃、フランツと初めてワインを飲んだ夜に酔った彼は言った。
「剣で身を立てようと思ったのは、父が馬鹿に見えてしまうからだ。近くにいてこれ以上、父をそんな風に思いたくないのだ」
フランツがこんな事を言ったのはそれ一度きりだったが、ヴィルヘルムはよく覚えている。それは逆の意味で自身に当てはまったからだ。年を重ねるごとに、自分は周囲の者たちを落胆させているのではないか――と。
そんな彼の目に、ギャレットは特別な存在として映った。
貴族でもなく、ファランティア人でもないが、剣の腕前だけならファランティア随一と言って良い。国王陛下から直々に自由騎士の称号を与えられた男。自分もギャレットのようになれたら、誰に対しても負い目を感じる必要はないと思った。
だが、ギャレットを追えば追うほど、自分には到達し得ない高みがあるのだと思い知らされた。そして、それに気付いていながらギャレットを追い続けるフランツにも、もう付いて行けないと感じていた。
決定的だったのは〈クライン川の会戦〉の後、足が自由に動かないと知った時だ。その時ヴィルヘルムが感じたのは無念さではなく安堵だったのだ。
もう戦わなくていい。戦えなくても仕方ない。いつかはギャレットのような騎士になれたかもしれない可能性を残したまま――これ以上ない言い訳を得た安心感。
そんな自分の心の弱さに気付いた時、ヴィルヘルムは絶望のあまり絶叫した。ベッドの上で両手を振り回す事しかできず、逃げ出す事もできず、気が狂いそうだった。
それでも動けないヴィルヘルムは自分の弱さと向き合わざるを得なかった。他にできる事は何も無かったからだ。
皆はこう思っているに違いない。グスタフ公のようにはなれそうもない、騎士としても役に立たない、ヴィルヘルムはもう駄目だ――ならばそれでも良いと、最後には開き直った。
金になりそうな物を持てるだけ持って城を抜け出したのは、このまま城のベッドに寝かされていても何にもならないと思ったからだ。
もし無事に城を出られても、自分に何ができるかは分からない。それでも城のベッドで皆に面倒をかけながら腐っていくよりは、外で人知れず野垂れ死んだほうがましだった。それくらいの自尊心は残っていた。
運良く南部から逃れて宝物を売り、軽く一財産を得たヴィルヘルムは食料などの日用品を買い集めた。ブラックウォール城に何とかして送ろうと考えたのだ。
抜け道を使ってもいいが、他人に教えても良いものか――と、迷っているうちに聖女軍の存在を知った。
それからは聖女軍を援助して、ブラックウォール城解放の希望を託した。
そしてついにブラックウォール城が解放されたと知った時は本当に嬉しかったが、結果的にそれは落城の始まりに過ぎなかった――。
「私のした事は、無意味だったのだろうか?」
ヴィルヘルムはギャレットに問うた。
ギャレットは膝を付き、「いいえ」と首を横に振った。その表情は正直で、気を使ってはいない。そもそも、ヴィルヘルムの知るギャレットはそのような気の使い方を知らない男だ。
「結果を見れば、という話になりますが、ブラックウォール城を維持するのは不可能だったと思います。それが早いか遅いかの違いでした。しかし、一時的にでも包囲が解かれたおかげで城を脱出できた民はたくさんいます。その者たちの命を救ったのは、あなたです」
ギャレットはそう言いながら、
「これを。あなたに届けるようにとグスタフ公から頼まれました」
ヴィルヘルムは皮袋を受け取り、硬く縛られた口紐を苦労して解いて中を見た。首飾りが一つ入っている。形見のつもりかと思いながら取り出して、それが何か分かると、驚きのあまり目を丸くした。
一瞬、それは黒曜石で作った首飾りのようにも見える。だが、光に透かせば全く違うものだと分かる。ヴィルヘルムが子供の頃から何度も聞かされた〈黒い太陽〉そのものだ。
「これは――」と絶句して、ようやくヴィルヘルムは「まさか、失われた〈黒い太陽〉なのか?」と口にした。
ギャレットは頷いて答える。
「そういう名前だと聞いています」
ヴィルヘルムは視線を手元の〈黒い太陽〉から、ギャレットへ移した。
ギャレットにしても、父のグスタフにしても、気休めで偽物を作ったりはしない。ならばこれは本物なのだろう――そう判断して、ヴィルヘルムは〈黒い太陽〉を皮袋に戻し、ギャレットに突き返す。
「であるならば、私はこれを持つに相応しくない。これはベッカー家の後継者が持つべきものだ。アデリン、いや、テイアラン女王陛下にお渡ししてくれ」
しかしギャレットは受け取ろうとせず、すっくと立ち上がる。
「俺はベッカー家に仕える騎士ではありませんから、あなたの頼みを聞かなければならない道理はありません。陛下に託したいならご自分でどうぞ。ただ、最後にグスタフ公がこんな事を言っていました。〝この城を取り戻すのは自分の役目ではない。ヴィルヘルムかアデリンか、あるいはその子供たちだ〟とね――それでは、俺は行きます」
「どこへ行くつもりだ?」
一礼して立ち去ろうとするギャレットに、ヴィルヘルムは問うた。
「俺は自由騎士ですが、何に仕える騎士なのか俺にもよく分からないのです。だから俺を自由騎士にしたハイマン将軍と会って確かめるつもりです。俺の剣は何のために振るうべきなのか」
「帝国軍はすでにキングスバレーのトビアス公を打ち破り、王都に向かっている。道中で鉢合わせするかもしれないぞ」
ヴィルヘルムの警告に、ギャレットは少し意外という顔をする。
「あなたを見つけ出すのは苦労しましたよ。かなり時間が経ってしまった。ここに来るまでにも何度か帝国軍と出会っています。隠れたり逃げたり戦ったり……まあ、なんとか切り抜けて来られたので、心配には及びません。ですが、帝国軍より先に王都へ到着せねばなりませんので、先を急ぎます。では」
ギャレットは背を向けて来た道を戻り始める。
「生きていたらまた会おう、自由騎士ギャレット卿。ゆっくり話したい」
その背中に向けて、ヴィルヘルムは自分でも意外な言葉を口にした。ギャレットは肩越しに力強く頷いて、海風に背を押されるように馬のところまで戻ると、再び馬上の人となって去って行った。
一人残されたヴィルヘルムは皮袋の中にある〈黒い太陽〉の手触りを確かめ、ギャレットが伝えてくれた父の言葉を思い出す。
〝この城を取り戻すのはわしの役目ではない。ヴィルヘルムかアデリンか、あるいはその子供たちだ〟
まるで目の前にいるかのように、父の声が心に響く。
「かなわないな……」と、ヴィルヘルムは呟いた。ふいに涙が頬を伝う。
ヴィルヘルムは全てに絶望し、自らの運命を嘆くのみだった。だが父のグスタフはさらに未来を見据えていた。
そして何より、自分の子供たちを信じていた。
偉大な父の想いに応える方法が、まだヴィルヘルムにはあると道を示してくれたのだ。子を成して命を繋ぐ。そして想いは、〈黒い太陽〉が伝えてくれるはずだ。
大切な品が入った皮袋を懐にしまい込むと、ヴィルヘルムは歩行杖を手にして立ち上がる。
まずは風車小屋を直すところから始めよう――と、ヴィルヘルムは歩き出した。
〈次章へ続く〉
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