10.セドリック ―盟約暦1006年、冬、第8週―
帝国議会が閉会した日の夜、セドリックは大司教と夕食を共にしてから部屋に戻って、すぐさま身支度を整えた。予想していたより会期が長くなってしまったので、すぐにでもサンクトール宮に戻らねばならない。
二本の枝の上に蝋燭を立てた燭台を手にして部屋を出ると、足音を立てないよう静かに廊下を歩く。礼拝堂には夜の祈りを捧げる信者がまだいるはずなので、そこを避けて狭い通路に入り、食料貯蔵室の前を過ぎて裏口から外に出た。
大聖堂の裏には、大司教が鍵を管理している独立した礼拝堂がある。その正面扉まで歩き、念のため周囲を見回してから鍵を開けて中に入った。もちろん大司教から正式に借りた鍵だ。他に鍵を借りている者はいないと大司教から聞いているので、中は無人のはずである。
この小さな礼拝堂には一続きの広間しかなく、中央には天井に届きそうな聖女ミリアナの像がある。魔獣キマイラを打ち倒し、今まさに剣を振り下ろさんとしている場面だ。その表情は険しいが、人によって様々な感情に見える不思議な表情をしている。
魔獣に対する怒りの表情だと言う者が最も多いが、魔獣を憐れんでいるとか、悲しげだと言う者もいる。セドリックには、ただ必死に戦っている表情に見えた。
聖女像はどの聖堂にもあるし、街中に立っている事もあるが、これが最古のものだと言われている。他の聖女像は魔獣が簡略化されていたり省略されているものが多く、剣を勇ましく振りかざしているだけのものや、剣を手に悲しく佇むものなど、その形は作り手によって違う。それはこの大聖堂にある聖女像が、見る者によって違った印象を与える事に関係しているのかもしれない。
セドリックは礼拝堂の扉を施錠し、像の後ろに回り込んだ。正面からは像に隠れて見えないが、地下へ向かう階段がある。階段を下り終えると、大人が横に三人は並べる広い通路になっている。
燭台の灯りだけで見通せるほど狭くはないうえに、この先は迷路になっていた。かつてこの地にあった迷宮の第一階層である。
この迷路は大司教を任命する儀式に用いられるので、その存在が秘密になっているわけではない。もちろん、かつてのように魔獣がいるわけでもないし、罠もすべて取り外されていて安全である。複雑に入り組んだ通路に誤って入り込まないよう壁で塞いであるし、下の階層にも行けないようになっているので、仮に迷っても危険はない。
大司教は皇帝と二人の枢機卿の三人による合意で選出され、その後この迷路に入って帰還するという儀式を経て正式な任命となる。聖女ミリアナが迷宮の最下層まで行き、信仰を得て帰還したという故事にちなんだものだ。
公にはセドリックも儀式で一度入っているし、〝信仰を見つめなおしたい〟とか適当な理由で再び入るのも奇妙ではない。とはいうものの、入ったきり何日も出てこないとか、何度も出入りしているとかいう事になれば怪しむ者も出てくるだろう。
そのため、礼拝堂に入るときは一応、周囲を気にするようにしていた。人目を気にせず堂々と、というわけにはいかない。
セドリックはすっかり慣れた迷路を歩き、通路の途中で立ち止まった。
手首から指先までと同じくらいの長さの、
もはや手で位置を確認する必要もなく、
その先も迷路は続くが、セドリックは目的の部屋まで迷わず進んだ。
その部屋には縦穴と、そこに設置された昇降機がある。この昇降機が現在の形になったのは最近の事だが、この縦穴と最初の昇降機が作られたのは聖女ミリアナが存命していた時代にまで遡ると言われている。
ガタン、ゴトンと音を立てながら、少し下りては止まり、また少し下りては止まり、を繰り返して昇降機はゆっくりと最下層まで降りていく。時間がかかる上にギシギシと軋む音や振動が恐怖心を煽るが、それにもセドリックは慣れてしまった。昇降機を使わずに迷宮を歩いて最下層まで下るよりはずっと早いし楽である。
最下層が近付いてきたので、セドリックは汗を拭い、背中のフードを引っ張り上げて被った。地上に比べて地下はかなり涼しい。
やがて、昇降機は最下層に到着した。
迷宮の最下層は帝国の魔術師たちの隠れ家となっている。かつて仕掛けられていた罠を再び設置した場所もあるし、新たに罠を仕掛けた場所もある。中には魔術の罠もあるので、よく知っている人間以外には危険な場所である。
セドリックは通路に出て〈
帝都レスタントには、魔術師や魔獣に対する備えとして魔法を感知し妨害する道具が設置されている。それらの道具も
帝国に与する魔術師も同様に必要悪として扱えなかったのは、
帝国民――というよりもエルシア大陸の人々――は奴隷制度を嫌悪しているので、人間を道具のように扱えば例えそれが魔術師だったとしても反発は必至である。火あぶりのような非人道的な方法で処刑はするのに、奴隷として扱うのは駄目だというのは理解し難いかもしれないが、これは倫理的な問題ではなく感情的な問題なのだ。
そんな帝都の
アベルを失うのはセドリックにとって恐怖を伴うほどの損失である。だが、その恐怖も今はいくらか和らいでいるのに彼は気付いた。その理由は考えるまでもない。セドリックの手にはもう一人の〈選ばれし者〉があるからだ。
〝最も上手いやり方は、奴隷に自分が奴隷だと気付かせない事である〟
ブレア王国の魔術大学図書館にあった奴隷に関する本の中の一文を、セドリックは今でも覚えている。
当時は本の内容に嫌悪感を抱き、それで覚えているのだが、もっとしっかり読んでおくべきだったと後悔していた。奴隷使いの技術とは他人を虐げる術ではなく、他人を操る術なのだと今なら分かる。
〈
「アベル、疲れているようだが、大丈夫か?」
「はい……最近、ちょっと嫌な夢を見るのです」
セドリックが気遣って見せると、アベルは素直に答えた。
「どんな夢かな?」
アベルは首を横に振って、「いえ、セドリック様に話すような事では……大丈夫です」と言い、それから声を潜めて続ける。「……それより、犬が尻尾を出しました」
なるほど――と、セドリックは頷く。
裏切り者の手綱を握っている誰かは、さらにその手綱を握っているだろうレスターが不在なため、独自の判断で迂闊な指示を出したに違いない。
セドリックは帝都へ発つ前、サンクトール宮にいる審問官全員と個別に会い、「アベルの様子に注意してくれ」と同じ事を頼み、アベルの部屋の鍵を渡していた。
もちろんそれは裏切り者に対する罠だ。
(エルフの遺跡の件では少し性急に動き過ぎたと思っていたが……レスター不在という好機がより良い結果を生んだな)
セドリックはアベルに習って小声になり、「話せる場所に行こう」と言った。
アベルは頷き、セドリックの肩に手を置いて
いつもの嫌な感じを経て、セドリックはアベルと共にどこかの廃屋に出現した。突然の蒸し暑さに眩暈を起こしたが、足に意識を集中して堪える。
そこは石造りの建物で、石壁と板を渡した天井が六割ほど残っているだけだ。割れた天井と壁の隙間から星空を背景にサンクトール宮の欠けた影が見える。ブレア王国の廃都なのは間違いない。
「ここの地下室はまだ使えるんです」
セドリックの疑問を汲んで説明しながら、アベルは指で印を結んで小さな光球を作った。照らし出された床には確かに持ち上げ式の扉が残っている。取っ手に錠前は付いていないが〈
おそらくここに裏切り者を閉じ込めてあるに違いない。しかしそれは、セドリックの想定した結果としてはあまり芳しくないものである。
期待していた結果は、誰が裏切り者かはっきりさせたうえで手を出さずに泳がせている、というものだ。だが、こうなった原因がアベルの失敗とは限らない。相手が強引な手に出た可能性もある。
セドリックは忘れずに、まずは「よくやった」とアベルを褒めておく。
「それにしても低地は蒸しているな。もっと涼しい場所で話そう」
「……その前に、話しておかなければならない事があります」
アベルの不穏な物言いに、セドリックは不安になる。
(まさか、殺してしまったのか?)
しかし、そんな不安は微塵も見せずに「うん?」とアベルの話を促した。
「裏切り者はデメトリでした。やつは私に、セドリック様を裏切って皇帝側に付くよう言ってきました。それで裏切り者だと確信したので、やつを〈
(ななな、なんだって!?)
もう少しで、思わず叫んでしまいそうになったところをなんとか堪える。
「そろそろ人間で試そうという話になっていましたし、ちょうどいい実験材料になると思いまして……」
表面上は平静を保ったまま、セドリックは心中で困惑していた。確かに、〝〈
そしてアベルの口ぶりから察するに、おそらくデメトリは捻れた肉塊にでもなってしまったのだろう。
皇帝側に通じている審問官がデメトリ一人とは限らない。デメトリは黒幕とは直接繋がっておらず、真の内通者が別にいる可能性だってあるのだ。その場合、アベルに接触したデメトリが姿を消してしまったら真の内通者はもはや決して正体を明かすような動きはしないだろう。
黒幕はおそらく帝国議会の議員だが、誰なのかはっきりさせてから対処を考えたかった。レスターと、どう繋がっているのかも気になるところだ。
「……それで、問題はその結果なのです」
(そうだ。その結果が問題なのだ。自分が迂闊な事をしたと、お前は分かっているのか?)
セドリックはどんな顔をして、何を話すかを急いで考えなければならなかったが、アベルに対する怒りがそれを邪魔していた。なんて馬鹿な事をしたんだと怒鳴りつけてやれればいいのだが、そんな事をすればアベルを傷つけてしまう。
(まずは話に乗ったふりをして相手の情報を聞き出すとか、一旦は返事を保留するとか、やりようはあっただろうに……いや、アベルには無理か……くそっ、そのうえ〈
自然と頭を抱えるように手を上げてしまい、慌てて額の汗を拭う動きで誤魔化す。不自然な間にならぬよう、とりあえず話の先を促した。
「どんな結果になった?」
「それが、その……デメトリは……オークになってしまったのです」
「なっ――」
ついに驚きを隠せなくなって、セドリックは絶句した。我が耳を疑って、混乱に拍車がかかる。
「とにかく、見ていただくのか良いかと……」
アベルは呪文を唱えて扉にかけた魔術を解除し、取っ手を引っ張って地下室への扉を持ち上げた。
セドリックは混乱したまま、狭い階段を下りて地下室に入る。
アベルが〈
牢の中にいる人型の生物は、地下室に下りてきたセドリックに反応して顔を上げる。小さな目に上向きの長い鼻、下顎から伸びた小さな牙、平たい大きな耳――まさしく、人間の身体に豚そっくりの頭を乗せたような姿をしたオークであった。
オークは豚のように鼻を鳴らしてセドリックのにおいを確認している。全裸で、年老いて緩んだ身体をしていた。顎にだけ白い髭を生やし、頭部に残った毛髪も真っ白で、そうしたところにデメトリの面影が見出せる。
驚き、立ち尽くすセドリックの背後で、下りてきたアベルが扉を閉めた。オークから目を離さずに、セドリックは背後にいるアベルに問う。
「こ、言葉は分かるのか?」
「はい。すでに色々調べたのですが、なんと説明したら良いか……その、デメトリ個人の記憶や意識が、新たに作られたオークとしてのものに書き換えられた、という感じなのです。その結果、デメトリとしての記憶の全てと、それに関係深い知識の大部分が失われています。でも残っているものもあって、デメトリが話せた言語は全て話せますし、読み書きもできます。魔力通路も開いたままで、いくつかの呪文は使えるようです」
その時、オークが言葉を発したのでセドリックはまたもや驚いた。その顔に相応しく歪んでいるものの、デメトリの声だ。
「アベル様、この男は創造主ではありません」
「分かっている」と答えたアベルに、振り向いてセドリックは問う。
「創造主?」
「はい。これは大きな発見だと思うのですが、このオークは〈
「……ナイトエルフか」
その特徴から思い当たる種族はそれしかない。アベルは頷いて話を続ける。
「――あの遺跡はただのエルフの遺跡ではなく、ナイトエルフの遺跡だったのでしょう。そして、〈
セドリックはよろめいた。アベルが慌ててその身体を支え、階段に座らせる。
オークが人間の魔獣化したものだった、という事実だけでも衝撃的過ぎるが、加えて審問官に潜む内通者の件、そして創造主の件――それらを飲み込むには時間が必要だ。
セドリックが頭を抱えていると、オークになったデメトリがアベルに話しかけた。
「アベル様、この人間の男はアベル様よりも偉いのですか?」
「そうだ。俺よりもずっと偉い御方だ。お前もそのつもりでいろ」
「わかりました」
二人の会話を聞いて、セドリックは呟く。
「ずいぶんと従順なのだね」
「はい。知性があって言葉も通じますから、ダイアウルフなどよりはずっと扱いやすいです。基本的には序列に従う性質のようで、上位の者の命令には従います。これを利用すれば、強力な敵や魔術師をオークにして扱いやすくすることも――」
興奮気味に話すアベルの言葉を遮るのは良くないが、セドリックにはもう気遣う余裕が無かった。
「すまないが、アベル。サンクトール宮の私の部屋に送ってくれないだろうか。少し休みたい」
セドリックは立ち上がった。座ったまま
「……分かりました。この件はまた後で」
残念そうに言って、アベルはセドリックの肩に手を置いた。
アベルに触れられたと感じるや否や、断絶の一瞬を経て、セドリックは自分の部屋に出現した。
廊下から火の灯った燭台を取って来て、埃と汗に塗れたローブを脱ぎ、気付けにも使われる強い蒸留酒を取り出して飲む。焼け付くような液体が胃に落ちると、多少は気分が落ち着いた。
オークの件は、単に衝撃的な事実だったというだけなので、時間が経てば落ち着いてくる。落ち着いてくると、湧き上がるのはナイトエルフへの恐怖であった。だが幸いな事にエルフはここ数百年でほとんど姿を消している。ナイトエルフに至っては、もはや実在を疑われていたほどである。
創造主の話は〈
そうなってくると、やはり問題なのは内通者の件であり、アベルの対応であった。
今までもセドリックは何度か、アベルの扱い難さに辟易してきた。激しやすく、傷つきやすく、他人を敵と味方に分けたがる。その根源にあるのは死と裏切りへの恐怖であろう。それを認められず、恐怖の気配には敏感に反応して激高し、時に暴走へと至る。
いつかアベルがとんでもない事をしでかし、それが自分の命取りになるのでは、という危惧は以前からあった。だがその危険性と〈選ばれし者〉の力を天秤にかければ、力のほうが優っていたというだけなのだ。
(扱い易さで言えば、ドンドンのほうがずっと良い。だが、アベルの力は唯一無二のものだ)
アベルがドンドンを敵視しているのは、心の奥底で彼自身そうした事が分かっているからだろう。その感情をもっと上手く利用しなければ、とセドリックは自分に言い聞かせる。
だが、もしもアベルかドンドンか、どちらか一人を選ばなければならなくなった時の事は考えておくべきかもしれない。
(そういえばさっきアベルが言っていたな。オーク化して扱い易くするとか何とか……)
〈
だがそれは、まだ願望の域を出ない。〈
(多少、危険は増すが……有能な研究者を何人か入れて〈
セドリックはそうする事に決めて、さっそく人員の検討に移った。
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