9.アベル ―盟約暦1006年、冬、第8週―

 ブレア王国の王都はエルシア大陸にある都市の例に漏れず、周囲を高い壁に囲まれている。それは外国との戦争に備えたものというより、魔獣の侵入に備えてのものだ。


 その外壁に接して魔術研究院の施設の一つがあった。


 四方を壁に囲まれ、西側の壁が王都の外壁を兼ねている。広い中庭にあるのは長方形をした二階建ての建物と小さな塔が一つだけ。町の中心部からわざわざ離れた位置に作られたのは、この施設が黒魔術の実験を行うためのものだからだ。


 ここはアルガン帝国軍が侵入を試みた場所の一つであり、それが悲惨な結果になったのは現在の痕跡を見れば明らかである。まるで地面が裂けたように、中庭の半分が陥没しているのだ。それは王都外壁の西壁にまで及び、西壁は裂け目に向かって両側から落ちるようにして崩れている。


 この施設には地下が二階層あり、帝国軍は外壁の下にトンネルを掘ろうとして失敗した。地下の一部が崩落し、そこから連鎖的に地階全体が崩壊していった。トンネル掘りの作業をしていた帝国兵はもちろんの事、地下にいたブレア王国の黒魔術師たちも全員が死んだ。


 帝国軍が王都を制圧した後、魔術に関する施設は徹底的に破壊されたが、陥没が広がる危険性があるとしてこの施設はそれを免れた。そのおかげで、いくつかの黒魔術が審問官の手に渡ることになったのだった。〈雷撃ライトニング〉の呪文もその中の一つである。


 当時まだ五歳で、監禁されていたアベルがそんな経緯を知っているのはセドリックから聞いたからだ。陥没した地面は乾季の間、地面に開いた巨大な口のようで恐ろしげだが、今は雨季なので雨水が溜まって大きな池になっている。その下には今も帝国兵と黒魔術師の死体が一緒になって埋まっているはずだ。


 叩きつける大粒の雨の中、アベルはそんな池の淵に立っていた。


 頭上には透明な屋根でもあるかのように、雨が滑り落ちていくのでまったく濡れていない。自分に向かって飛んでくる物体を反らす〈シールド〉の呪文の応用である。


 アベルは池に向かって手を伸ばした。すると、奇妙に歪んだ肉塊や、捻れて絡み合った毛皮の塊のようなものが、ぼちゃん、ぼちゃん、と音を立てて池に落ちる。


 そられは〈魂の炉ソウルフォージ〉で実験した結果の失敗作であった。実験と言っても、実際には何ら高度な事はしていない。生物を捕まえて来て、〈魂の炉ソウルフォージ〉に放り込んでいるだけである。


 それで分かった事は、〈魂の炉ソウルフォージ〉にはあらかじめいくつかの魔獣が記憶されていて、その材料に合致したものを入れると魔獣に変わり、合致しないものを入れると不気味な死体になってしまうという事だ。


 ゴミ捨てを終え、アベルは振り向いて小さな塔に向かった。その入口はほとんど外れかけた鉄格子が斜めにくっ付いているだけだ。その前に立った途端、奥の暗がりからダイアウルフが飛び掛ってきた。鉄格子に激突して、まるで剣のような牙も爪もアベルには届かない。


 この壊れかけた鉄格子には〈魔術師の鍵ウィザードロック〉の呪文がかけてあるのだ。〈魔術師の鍵ウィザードロック〉は、単に魔法の鍵をかけるだけの〈施錠ロック〉よりも上位の呪文で、扉そのものを通行不能にする。対象になる扉は、どんなにボロボロでも最低限、扉として認識できる形になっていれば問題ない。


 しかし、馬と同じくらいの大きさをした巨大な狼であるダイアウルフを閉じ込めておくには塔そのものが限界だった。いずれ壁を壊されるか、穴を掘られて外に出られてしまうだろう。


 このダイアウルフはアベルが拾ってきた狼を〈魂の炉ソウルフォージ〉で魔獣化したものだ。ダイアウルフは目覚めてすぐに襲いかかってきて、今もそれは変わらない。


 創造物は創造主に従うと考えていたセドリックは、この結果に酷くがっかりしていた。彼のそんな姿を見るのはアベルとしても忍びない。何とか従わせる方法はないものかと、しばらくこの塔で飼っていたのだが、通常のダイアウルフと同じく人に慣れる気配はなかった。


 アベルは用済みのダイアウルフを始末するため、指先を向けて〈光線レイ〉の呪文を唱えた。音も無く、指先から残像を残して光線が走る。だが、ダイアウルフはすばやくそれを避けた。唸り声をあげて牙をむく。


 ダイアウルフはただの巨大な狼ではなく、高い知能を持っていて、普通の狼を従える能力がある。そして、魔力場を感知できると言われていた。〈光線レイ〉を避けたのは偶然ではないだろう。


 アベルは片眉を上げてから、手を開いてダイアウルフに向け、振り返って池のほうを見た。皮の裂ける音も骨の砕ける音もせず、ダイアウルフの頭が池の上に出現して、どぼん、と音を立てて落ちる。頭部だけを転移テレポートさせたのだ。


 塔の中に残されたダイアウルフの体はガクガクと震え、足を畳んで座り込んだ。首の切断面から血液が噴出して血溜まりを広げていく。


 残った体も池に転移テレポートさせて捨て、鉄格子にかけた〈魔術師の鍵ウィザードロック〉を解除すると、アベルはサンクトール宮へと戻った。


 もはや自分の部屋になった、かつての母の部屋に転移テレポートした途端に、アベルは驚きに身を硬くして目を見開いた。消して出たはずの蝋燭に火が灯っていて室内は明るく、椅子に一人の審問官が座っていたからだ。


 その審問官――デメトリ――は悪びれた様子もなく、フードも目元を隠す覆面も外したまま微笑を浮かべた。


 デメトリは六〇歳前後だと聞いているが、ずっと若々しい外見をしている。背筋を伸ばして椅子の背もたれに身体を預け、足を組んでいる姿は実際より二〇歳は若く見えた。すらりとした体躯で、顔には弛みも皺もほとんど無い。年相応なのは真っ白な頭髪くらいだが、それもふわりとして豊かだ。顎の先だけ髭を伸ばして尖らせているのがテッサニア人らしい。


 デメトリはエルシア海の向こう、都市国家エイースの出身で、かつてはエイースの魔術大学で教授をしていた。もちろん当時の名前では死んだ事になっていて、デメトリというのは新しい名前である。審問官の前歴については審問官の間でも秘密になっているが、アベルはセドリックから聞いてそれを知っていた。


 デメトリは微笑を浮かべたまま、悪びれた様子も無く言う。


「そう身構えないでくれたまえ。勝手に入って待たせてもらったのは悪かった。だが、連絡がつかなかったものでね」


 アベルは審問官同士が連絡に使う護符アミュレットを外していた。〈魂の炉ソウルフォージ〉に関わる作業をしている時に居場所を特定されるのは困るからだ。アベルの護符アミュレットは、この部屋の机の上にある。


 驚きから立ち直って、アベルはデメトリを睨みつけるようにして問う。

「ここで何を……いや、どうやって俺の部屋に入った」


 デメトリはアベルの放つ剣呑な雰囲気を受け流しつつ、鍵を取り出して見せた。蝋燭の灯りに鈍く光るそれはアベルの部屋の合鍵である。


「勘違いしないでくれたまえよ。これはセドリック枢機卿から預かったものだ。留守中、アベルの様子を見てやってくれと直接頼まれたのだ」


 セドリックは五日前から帝都レスタントの大聖堂に戻っている。帝国議会に出席するためだ。あと二、三日は戻らない予定である。


 デメトリは鍵を懐にしまって、続けた。


「君は今年で十九歳だったかな。立派な大人だ。セドリック枢機卿は君の育ての親も同然だが、少し過保護ではないかね。まるで君が問題を起こさないかと心配しているような口ぶりだったよ」


 その言葉に含まれる僅かな侮辱の気配が、アベルの癇に障る。

「どういう意味だ。きさま――」


「そう、それだ」と、デメトリはアベルの言葉を遮った。


「確かに君は唯一無二の〈選ばれし者〉だ。だが、魔術師としても人間としても、私のほうが知識と経験は優っている。君は礼儀を知らず、すぐに激高する。だからいつまでもセドリック枢機卿に心配をかけてしまうのではないかね」


「説教しに来たのか? 審問官に上下の序列はないし、俺はお前を目上の者とは思っていないよ、爺さん」


 アベルとデメトリはしばしの間、睨みあった。

 デメトリの黒い瞳は底知れず、何を考えているのか分からない。


 先に緊張を解いたのはデメトリのほうだ。これが大人の余裕だと言わんばかりに肩をすくめてみせる。


「確かに説教くさくなってしまったな。では本題に入ろう。君は一日の大半どこにいる? セドリック枢機卿に頼まれた以上、私は君の行動を把握しておかねばならない」


「俺を見張れ、と頼まれたわけじゃないだろう?」


「君を見張れ、という意味だと私は理解している」


 間髪入れずに返してくるデメトリの物言いに、アベルの苛立ちはますますつのる。


「個人的な研究だ。猊下から許可は得ている」


「本当に?」


 意味ありげに一呼吸置いて、デメトリは続けた。


「もしそうなら、その件について猊下から私に話がなくてはおかしい。君を見張ることができないからね」


 アベルは「ふん」と鼻で笑って言った。

「あんたが信用されてないだけだろ」


「私もそう思う。セドリック枢機卿は私を信用していない」


 デメトリがあっさりと認めたので、アベルは肩透かしを食らった。その隙にデメトリは言葉を畳み掛ける。


「だが、それは君も同じだ、アベル。この鍵を預けていったのがその証拠……そもそも、セドリックは誰も信用していない。自分の役に立つかどうかでしか他人を判断していないよ。この王宮の一番奥の部屋にいる少年が何者か、私は聞いていないが当てて見せようか。あの子は〈選ばれし者〉だ。君と同じ」


 アベルは答えなかったが、その表情から確信したのか、デメトリは頷いてみせた。


「やはりそうか。なぜ私がそう思ったか教えてあげよう。あの少年に対するセドリックの接し方が、君に対するそれと同じだからだよ。どうしても自分の道具として手中に収めておきたい、という事なのだろう。思い当たる節があるのではないかね?」


 思いがけず、アベルは動揺した。セドリックの言葉が思い出されたのだ。


 〝ドンドンはただの道具――〟


 〝幼い子供を手駒にするには愛情と優しさ――〟


 さもアベルの心中を察しているかのように、デメトリは声の調子を上げて続ける。


「そうなると、次の問題が出てくる。〈選ばれし者〉という道具が二つあるとして、扱いやすいほうと扱いにくいほう、君ならどちらを選ぶかね?」


 動揺しているアベルに見えるようにと、デメトリは再び鍵を取り出した。


「これが答えだ。今までセドリックが誰かにこの鍵を預けた事などあったかね? 私に君を見張らせれば、当然、私はこういう報告をする事になる。〝アベルは一日の大半、姿をくらましている〟とね。それは他の審問官に対して、君に不信感を抱いた理由を説明する材料になる」


 アベルはうなだれて、ふらふらと後退り、机に手を付いて身体を支えた。

 好機と見たのか、デメトリは立ち上がってアベルに向かってゆっくり近寄りながら話し続ける。


「審問官は役に立つから生かされている。だが、それはセドリックによって、ではない。皇帝陛下によってだ。セドリックが何と言おうが、皇帝陛下がお決めになれば審問官は処分される。忠誠心、いや、自分の有能さを示すならセドリックにではなく皇帝陛下に対してすべきだ。そして君の有能さを、皇帝陛下は間違いなく理解されている」


 デメトリはアベルの前に立ち、そっと肩に手を置いた。アベルは払い除けようとしなかった。


「教えてくれ、アベル審問官。ここの地下にあるエルフの遺跡を調査するようになってから、君とセドリックはたびたび姿をくらましている。その間どこに行っているのかね? 何を隠している?」


 沈黙がその場を支配する。今度は、デメトリは黙ってアベルの返答を待った。


 そしてついに、アベルは小さな声でぼそぼそと白状した。まるで隠し事を告白する子供のように。


「……〈魂の炉ソウルフォージ〉。隠し部屋にある……」


 デメトリは一瞬、勝利の笑みを口元に浮かべてから、セドリックに似た優しい言い方をする。


「それは、どういうものだね?」


「見てもらったほうが早いかも……」

 そう言ってアベルは手を差し出した。


 デメトリは一瞬、躊躇ったがその手を掴み、二人は遺跡の隠し部屋に転移テレポートする。


 サンクトール宮の地下にあるエルフ遺跡の隠し部屋は、〈魂の炉ソウルフォージ〉が目覚めた事により以前とは雰囲気が変わっていた。どくん、どくん、という鼓動のような音が響き、蒸気に満たされている。


 〈魂の炉ソウルフォージ〉を覆っていた灰色の皮膚のようなものは全て剥がれ落ちて、緑の液体に満たされた巨大で透明な心臓のように〈魂の炉ソウルフォージ〉は脈打っていた。


 今は使用されていないので、内部には緑の液体以外に何も無く、四枚の黒い甲虫の殻を思わせる上部の口は開いたままだ。


 デメトリは目を見開き、口をあんぐりと開けて、球形の部屋の壁をぐるりと囲む通路の最上段から〈魂の炉ソウルフォージ〉を見下ろして固まっていた。


 しばらくしてデメトリはかすれた声で、背後で肩を震わせているアベルに問う。


「ア、アベル……これは、いったい……」


「〈魂の炉ソウルフォージ〉だって言っただろ、爺さん」


 デメトリが振り向くと、アベルはくすくす笑いながら続けた。


「あんたの失敗は、自分は賢い大人で、俺は馬鹿な子供だと思っていた事だ。あんな言葉で俺を操れると思ったのか?」


 アベルはデメトリに手を向けた。もう演技はしないし、感情を隠そうともしない。目には怒り、口元には残忍な笑み。


「ここまでしろとは言われてないが、あんたはセドリックを侮辱した。あの人と俺の絆を嘘だと言った。だから――」


 アベルの目に宿った危険な光に、気圧されたように後退りながらもデメトリは弁明する。


「お前を操ろうとしたのではない! 私が言った事は全て真実なのだ。お前はセドリックに操られている。お前よりも扱いやすい道具を手に入れたら、あやつはお前を捨て――」


「うるさいぞ。もう黙れ」


「待――て」

 デメトリは消えた。残された服だけが、ばさりと床に落ちる。


 全裸のデメトリは空中に転移テレポートしていた。

 〈魂の炉ソウルフォージ〉の、開いた口の上に――。


 デメトリが中に落ちると、いつものようにその口は閉じた。


「セドリックは俺を裏切らない。俺が一番大切だと言ったんだ」


 動き出した〈魂の炉ソウルフォージ〉を見下ろしながら、アベルは独り言を言った。それは無意識に、デメトリの言葉が残した不安を払拭するためだった。

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