8.セドリック ―盟約暦1006年、冬、第8週―

 帝政に移行する前のアルガン王国は、エルシア大陸の南部高地にある小国に過ぎなかった。四つの同盟国を併合してアルガン帝国になった時、王都レスタントも帝都と呼ばれるようになった。


 しかし、エルシア大陸全土を統一した大帝国の首都という雰囲気は、レスタントには無い。


 高地のほぼ中央に位置し、この地域で最も大きな町ではあるが、交易路にあるわけでもなく大した産業もない。商業活動といえば地元の人間が物々交換する市が立つくらいであった。それは今もあまり変わっていないので、地方の小都市という雰囲気である。


 三階建て以上の高さがある建築物は、ロックスリー城と鐘楼のある聖堂、新市街と旧市街の間に立つ古い砦、そして旧市街からさらに離れた場所にある大聖堂だけだ。

 それ以外の建物は平屋か、屋根裏部屋があるくらいで二階建ても珍しい。そして柱で支えなければならないほど軒が張り出している。強い日差しから家の中を守るためだ。


 大通りに面した家々では今も軒先の影の中、午前の仕事を終えた人々が座り込んでいる。


 乾いた熱風が吹き付ける旧ブレア王国と比べれば、高地にあるレスタントはまだ涼しいほうだが、真夏の暑さに違いはない。最も日差しが強い正午過ぎに炎天下で働くのは自殺行為だ。


 そんな街中を、セドリックの乗った馬車はロックスリー城へと向かっている。


 風通しを良くするため、馬車の壁は半分以上が格子状に組んだ葦材で出来ていた。そのため隙間からは御者と護衛の守護士ガードナーが並んで座っているのが見え、揺れる二人の間からは馬車を引くロバの短いたてがみが見えた。逆に、外からも中にいるセドリックが見えているだろう。


 地方の小都市である事にも利点はあり、例えば他国の密偵や暗殺者が入り込みにくい点が挙げられる。普段は地元の人間しかいない町で、外から来た人間は目立つからだ。


 しかし、そんな数少ない利点よりも欠点のほうが多いのも事実であった。


 現在、エルシア大陸中東部に新たな帝都となるアルガントが建設中で、次の夏前には帝都機能をそちらへ移す計画になっている。新たな帝都を中心とした街道の整備も同時に進んでおり、エルシア大陸内における帝国の体制は磐石と言ってよい。


 人々にとってファランティア王国での戦争など遠い世界の出来事であり、関心は新帝都アルガントや、かつて魔獣の住処になっていた地域の開拓、断絶していた隣国との交流回復にあった。魔獣退治は現在も続いていて、人々は人間の生活領域の奪還、拡大に勢い付いている。


 セドリックの乗った馬車は坂道を上り、ロックスリー城の城門を抜けて、下中庭に入って止まった。御者が扉を開ける前に自ら馬車を降りる。蒸し風呂のような車内から早く出たかったからだが、御者は慌てて席から飛び降り、大きな鍔の付いた帽子を持ってきた。


「どうもありがとう」


 セドリックは流れる汗もそのままに笑顔で受け取って帽子を被る。


 この御者はセドリックのノエル家に仕える使用人ではなく、大聖堂に奉仕しているミリアナ教徒である。だから、というわけではなく、セドリックは普段から目下の者に対しても礼を言うようにしている。


「あ、いや、猊下、私なんぞにそんな……」と、御者の男は恐縮した。


 守護士ガードナーの男も、さっと席から降りてセドリックの後ろに控える。


 守護士ガードナーはミリアナ教の信者を守る戦士である。黒く日焼けした肌と同じような色をした、硬く加工した革の胴鎧ハードレザーアーマーを着て、同じ素材の手甲と脛当てをし、腰には片手剣と、小さな円形の盾バックラーを吊り下げている。


 この小型の盾バックラーは腕に固定して使うものではなく取っ手を握って扱うもので、エルシア大陸では民兵が使う盾として一般的なものだ。民兵と違い、守護士ガードナーは頭巾にミリアナ教の聖印を戴いている。


「では、参りましょうか」


 セドリックが話しかけると、守護士ガードナーの男は不器用に口角を持ち上げて、「はい、猊下」と答えた。


 ロックスリー城は天然の岩山を利用して作られた城で、下中庭と上中庭の二段に分かれている。二つの中庭は階段で繋がっており、その上を屋根付き橋のような通路が渡って物見塔へ続いていた。


 中庭にはそれぞれ建物があって、厩舎や倉庫、兵士たちの宿舎、城に住む人々のための家、大広間、調理場と給仕部屋など一通り揃っている。また、より重要な施設は岩山の内部にある。


 一般的にこうした造りの城では上中庭に重要な施設があるものだが、ロックスリー城では下中庭にあった。魔獣が空から襲ってきた場合に備えての事だ。

 エルシア大陸にある城や町や砦の多くは、人間の軍隊よりも魔獣の襲撃に対して設計されている。


 守護士ガードナーを伴ってセドリックは兵士の守る入口から岩山の内部へと入った。


 岩山の中に掘られた通路はひんやりとして涼しく、やっと人心地付いた気分になる。窓や扉は開け放たれているので、風が通るとなおさらであったが、風の通らない奥まった通路に入ってしまうとまた暑く感じられた。


 光の届かない奥の通路では照明のためにランタンが据え付けられている。その中で燃える火をセドリックは忌々しく思う。


(〈光球ライティング〉の呪文なら熱は出ない。こういう場所にこそ使うべきなのだ……)


 通路の奥の扉前には数人の戦士や騎士がいた。それぞれ自分の主人に随伴してきた者たちだ。セドリックも守護士ガードナーにそこで待つようにと告げて部屋に入る。


 四角く掘られた部屋の中には大きな円卓があり、その奥に二段高くなって玉座がある。皇帝不在のため、今は空席だ。


 円卓には、セドリックと同じ帝国議会の議員八名が着席していて、果汁や香草で味付けした飲み物や、新鮮な果物を楽しみながら雑談をしている最中である。


 予定通り、ちょうど正賓を終えた後のようだ。


 ミリアナ教には食事を制限するような教義はないが、〝暴食〟は九つの罪悪の一つである。セドリックは敢えて遅く来ることで、彼らと食事を共にするのを避けた。太っていると普通に食事しても〝がつがつ食べている〟と思われてしまうし、自分もそうだという自覚が彼にはあった。


 そうしたのは羞恥心からではなく、警戒心からだ。少しの不快感がちょっとしたきっかけで不信感として芽吹き、疑心の花を咲かせる事があるとセドリックは知っている。


 セドリックの到着により、円卓にある九つの椅子が埋まった。残る一つの空席はマクシミリアン将軍のものだが、彼はテッサで軍団の再編を行っているので、これで全員揃った事になる。


 この場にいるセドリック以外の八人のうち四人はアルガン王国出身者で、他は帝政移行時にそれを支持した同盟国の王や領主だった者たちだ。宗教関係者はセドリックしかいない。


 大司教はミリアナ教で最も高い地位にあるが、政治的な権力は持っておらず、もう一人の枢機卿は帝国議会員になれるほどの権力を持っていないからだ。


 大司教に並ぶ宗教的権威を持ち、現在の帝国において皇帝以外が持ちうる最高の政治的権力を併せ持つ唯一の人物がセドリックであった。もっともそれは、皇帝レスターと共有しているいくつかの秘密によって保たれているに過ぎない。


 レスターはいずれ秘密ごと全てを闇に葬ろうとするはずだ――と、セドリックは確信している。〈魂の炉ソウルフォージ〉と二人の〈選ばれし者〉が手中にあっても、彼はまだ安心できずにいた。


 セドリックは笑顔を装って他の議員に挨拶しながら、ゆったりと着席する。

 すぐに果汁入りの水を勧められたので、遠慮なくもらった。一気に飲み干してしまいたかったが、それは自制した。


 出席者が全員揃ったにも関わらず、歓談は続く。

 悪い話はほとんど聞かれず、エルシア大陸における帝国の隆盛を感じさせる。


 現状のアルガン帝国に懸念があるとすればテストリア大陸における戦争の行方くらいだが、その話題を口にする者はいない。議員たちも自領から戦争のために兵士や物資を出しているが、問題視するほどの負担ではないのだ。


 テストリア大陸に出兵したのは帝国軍全体の一割にも満たない数なので、単に関心が低いというのもあるが、理由はそれだけではない。


 セドリックもその事は分かっているので、戦争の話題は避け、無難な受け答えに終始する。


 しばらくして議長を務める宰相のハワードが開会を宣言し、審議が始まった。彼は王制時代からの側近で、サイラス王とも肩を並べて戦った老戦士である。


 帝国議会は皇帝によって召集されなくとも、年に三回の開会が定められていた。今回はそのうちの一回で、夏中日に行われる。最も暑い時期であり、雨季で天候も安定しないので、セドリックの一番嫌いな会期であった。


 議会では主に、帝国内の領地問題や国政事業、国費による大規模工事など国政に関わる重要な案件について、担当官たちが議論した結果を審議して議決する。その決議を皇帝が承認すれば実行に移されるが、否認すれば再度審議に戻される。


 現在のように皇帝が不在の場合はこの手順を書簡でやり取りせねばならず、この場で決定事項にはできない。議員たちがのんびりしているのは、そういう訳でやる気を削がれているせいもあるだろう。


 審議の結果は一〇人の議員のうち八人の支持があれば議決となるので、この場にいる九人でも議決に至る事はある。面倒なのは七人しか支持が集まらなかった場合で、その時は皇帝に書簡を送る前に、テッサにいるマクシミリアンとも書簡でやり取りしなければならなくなる。


 帝国議会にはもう一つ重要な役割があり、それは議員一〇人の全会一致によって皇帝の意思決定に異議を申し立てる事ができる、というものだ。

 実際には異議と言えるほど強いものではなく、再考を願い出ると言った方が正しいかもしれないが、アルガン帝国において唯一の皇帝に意見できる権利を帝国議会は持っているのである。


 しかしそれが機能した事は一度もない。議会の一席を担うマクシミリアンがレスターの意思決定に異を唱えたことは一度もないし、これからもないだろうから、全会一致にならないのだ。


 それ以外の議員たちも、少なくとも表面上はレスターに心酔しているように見える。もちろんセドリックも他の議員からは、そのように見えているはずである。


 レスターが、同盟交渉の使者殺害を理由にしてファランティア王国に対し軍事行動を起こすと言い出した時も、帝国議会で反対の意思を示したのはセドリックだけだった。それもセドリックにとっては、〝戦いを嫌う温和で信仰心の篤い枢機卿〟を演じたに過ぎない。


 この日の最初の議題は領地問題だった。

 三つの領地にまたがる山地で、数年前から行われてきた魔獣退治が完了しつつあり、その後の領地分割をどうするか、という内容である。


 この件についてはセドリックも知っていた。大聖堂から祓魔師エクソシストを多数、派遣していたからだ。


 かつて人外魔境とされた魔獣の生息地を人間の領域に取り戻す、という帝国の戦いをミリアナ教と切り離して語ることは不可能だ。


 エルシア大陸では古くから、魔獣は単に脅威というだけでなく、触れてはならぬ禁忌とされてきた。魔獣に触れるだけで呪われると誰もが信じていたし、一匹でも殺せば村一つが呪いによって全滅すると言われてきた。


 魔獣を狩る魔獣狩人が、魔獣そのものと同じように忌避されてきたのもそのせいで、冒険者や旅人が嫌われるのも同様に〝どこかで魔獣に触れているのではないか〟と疑われたためである。


 そんな中、アルガン王国は古くから魔獣狩人に寛容で、彼らにとって気軽に立ち寄れる数少ない文明地だった。それはアルガン王国の人々がミリアナ教を信じていたからだ。


 神が遣わした聖女ミリアナは、迷宮の底に潜み魔獣を生み出す魔術師を退治して王国を救ったとされている。神の加護を受けていたミリアナはその後も呪いを受けることなく、魔獣から王国を守った。


 その事から、ミリアナ教の祝福には魔獣のあらゆる害を退ける力があると信じられている。魔獣狩人たちはミリアナ教徒ではない者も、アルガン王国に入国する際には全員が司祭から浄化を受け、出国時には祝福を授かっていた。


 この浄化の儀式を専門に行うのが祓魔師エクソシストである。


 レスターの兄であるサイラスは若くして王位に就くと、魔獣狩人と祓魔師エクソシストを組織化し、王国周辺の魔獣退治に乗り出した。


 ついに隣国まで達した時、隣国の人々はサイラス王の軍団を恐れたが、ミリアナ教の教えが広まるにつれて魔獣の呪いは浄化できると信じるようになった。


 サイラス王は同じようにして三つの国との国交を回復したのち、魔獣との戦いで落命してしまう。


 レスターは兄王の後を継ぎ、やがてアルガン王国は帝政に移行して拡大を続けた。それは同時にミリアナ教圏の拡大でもあった。


 エルシア大陸全土が帝国領となっても、魔獣の生息地は残っていて、戦いは続いている。そのため帝国議会が扱う議題の中では、このような領地問題が一番多かった。


 セドリックは続く議題一つ一つに、真剣に耳を傾けていたが、領地問題に関心があるわけではない。特に注意深く観察していたのは議論の内容と議員たちの様子であった。


 これまでの帝国は先頭を走る皇帝レスターに牽引されるようにして進んできた。もしレスターが走るのを止めたり、倒れてしまったなら、帝国も立ち止まって道に迷うのではないかと考えられていた。


 しかし今回のファランティア遠征による皇帝の不在は、そうはならないとセドリックに気付かせた。帝国の人々、つまりエルシア大陸の人々はもはやレスターに牽引されなくとも自ら歩みを進め、帝国を作り上げようとしている。アルガン帝国においてレスターの存在が絶対必要というわけではなくなっているのだ。


 それに気付いたのはセドリックだけではないはずで、だからこそ、皇帝の不在に触れざるを得ない戦争の話題が避けられているのだとセドリックは見ている。


 そのような人物と協力関係を築ければ、レスターが後ろ暗い秘密を清算しようとした時、セドリックの命綱となるかもしれない。もしマクシミリアンよろしくレスター信奉者だったなら、今後は注意しなければならない相手となる。


 ここに集まった議員たちがどちらなのか、セドリックは慎重に見極めていかねばならない。


 いくつかの議題を審議して、ハワードは一時閉会を宣言した。


 議員たちはすぐに退室する者もいれば、残って雑談をしている者もいる。セドリックは不自然にならぬよう気をつけながら、部屋に残って聞き耳を立てていた。そこへ、ハワードが声をかけてくる。


「セドリック枢機卿」


 ハワードは呼びかけてから、ミリアナ教の印を切った。彼は帝国の宰相であるが、審問官の正体は知らない。熱心なミリアナ教徒なので、セドリックと審問官の正体を知れば激怒するだろう。


 セドリックは立ち上がって同じように印を切り、笑顔で応じた。


「ハワード宰相、何かお悩みのご様子ですね」


「ええ」と、ハワードは神妙な顔で頷いた。


「例の……口に出すのも憚りたいところですが、聖女軍と名乗った反乱軍の件です。ご存知のとおり、首謀者マイルズの家族とその親族はすでに捕縛しています。その処遇について皇帝陛下にご判断を請うたところ、任せる、と一任されてしまいまして――彼らは本当に異端ではないのですか?」


「その件については、すでにお知らせしたとおりですよ。審問官、司祭、祓魔師エクソシストが全員と話しましたが、彼らは魔法使いではありませんし、魔法によって精神を冒されてもいません。また、その信仰に異端の兆しもありませんでした。大聖堂としては、あの者らを咎めることはしません」


「ですが、信仰を汚されたような気がして……怒りが湧いてくるのです。聖女の名の下に罰するべきだと思っています」


 ハワードは声を潜めて囁くようにそう言った。

 ハワードは危険かもしれない――と、セドリックは思ったが笑顔のまま答える。


「罪人であれば、神がその罪を罰して下さいます。私たちは聖女ミリアナと違い、神の代行者として人を罰することはできません。そうすれば、畏れ多くも聖女を騙ったという反乱軍と同じ轍を踏む事になってしまいます。信仰の悩みについては大司教とお話しになると良いかもしれませんね。マイルズの家族とその親族は、あくまで政治的な理由によって、その処遇が決められるべきです」


 ハワードは老いてなお逞しい腕を組み、顎髭に触れて少し考えるようにしてから言う。


「分かりました。信仰の問題とは切り離して、あくまで反乱の首謀者とその家族、親族として判断します」


「陛下がお任せしたのは、ハワード様なら間違った判断をしない、と信頼なさっているからでしょう」


 話を終えて、ハワードは別れの挨拶をして退室した。


 もう一度座りなおして部屋に残るのは不自然なので、セドリックもその後に続いて部屋を出る。


 部屋の外で待っていた守護士ガードナーを伴ってセドリックは下中庭まで戻って来た。


 すでに日は傾き、西日が作る影の中に昼間の焼け付くような暑さは無い。しかし、むっとする蒸し暑い空気に満たされていた。会議の間に一雨降ったのだ。地面には水溜りも残っている。


 御者の男が馬車を出して待っていた。乗り込む前に、セドリックは御者に告げる。

「お待たせしました。このまま大聖堂に戻ってください」


「はい、猊下」

 そうして馬車は来た時と同じ道を辿って、大聖堂に向かった。


 坂道を下る間は西日の眩しさに顔を背けなければならなかったが、大通りに出れば西日は背後に回る。目を刺すような眩しさは無いが、首筋に日差しが当たっているのを感じる。


 古い砦の門を抜けて、新市街から旧市街に入り、セドリックはなんとなくノエル家の屋敷がある右手に目を向けた。


 屋敷にはセドリックの妻アマンダと、彼女の老いた母親が住んでいる。

 セドリックはノエル家に婿入りした身で、肉親は誰も残っていないし、妻との間に子もない。セドリックとアマンダは男女の関係にすらなっていなかった。


 ノエル家はアルガン王国時代からの古い名家で、かつては王家の一つに数えられていたほどだ。時は下って、ノエル家には過去の栄光と一人娘のアマンダだけが残された。


 それでも名家である事に違いはないのでアマンダに求婚する貴族は多かったが、彼女は断り続けて三〇歳になり、すっかり行き遅れてしまった。


 セドリックがノエル家を訪ねた時も、アマンダは痩せた肩を怒らせ、鋭い目つきで睨んできたものだ。


 家名を求めて言い寄ってくる男を物心付いた頃から見ていた彼女は、男というものにすっかり幻滅してしまったのだ――と、セドリックはアマンダの女友達から聞いていた。


 それで、セドリックはこう言った。


「私は貴女にこれっぽっちも興味はないし、男女の関係を期待してもいない。ただ、私にはどうしても貴女の家名が必要だ。結婚さえしてくれれば、後は貴女の自由にするといい。夫婦を演じてもらいたければそうするし、二度と顔を合わせたくないというならそうする。私に必要なのは貴女という人間ではなく家名だけだから」


 アマンダはあっけに取られて唖然とし、口元を歪めて笑い、そして答えた。


「いいわ、結婚してあげる。だけど、貴方が他の男たちと違って正直過ぎたからではないわ。いつまでも結婚しない私を母が心配しているからよ。ただ、たまたま、運が良かっただけ」


 この、とても結婚を決めた男女の会話とは思えないやり取りを思い出すと、セドリックは確かに運が良かったと思うのだった。魔術大学で〈魔力開通〉の儀式を受けた時、すべての不運を使い切ったのかもしれない。ほとんど魔力を使えないと分かって絶望した時からこれまで、なんとなく思い通りに事が運んでいる。


 皇帝と秘密を共有し、宗教的権威と政治的権力を併せ持つ枢機卿にまでなり、ブレア王国の秘密と〈魂の炉ソウルフォージ〉を手に入れ、〈選ばれし者〉を二人も手駒に持っている。


 たくさんの人々から尊敬を得ているし、すっかり太ってしまった身体を見れば分かるように生活は安定していた。


 それでもまだ、セドリックは安心できずにいる。まるで綱渡りをしているような、何か一つの間違いで転落してしまうような危機感に、常に苛まれている。


 西日に照らされた街並みの間から、ちらりとノエル家の屋敷が見えても、セドリックは気付かなかった。


 サンクトール宮に残してきた〈魂の炉ソウルフォージ〉と、アベルの事を考えていたからだ。それはセドリックが常に感じている漠然とした危機感よりも、ずっと具体的なものだ。


 例えるならアベルは扱いの難しい劇薬で、用法を間違えれば身を滅ぼす。

 ドンドンへの嫉妬心を利用することで、より操りやすくなると考えたのは失敗だったかもしれない。


(議会が終わったら〈魔術師の門ウィザード・ゲート〉ですぐにサンクトール宮へ行こう。しばらくアベルには優しくしてやらんといかんな)


 旧市街を抜けて町外れの道を大聖堂に向けて進む馬車の中で、セドリックはそう思った。

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