7.マイラ ―盟約暦1006年、冬、第7週―

 マイラは夢から醒めて、ゆっくりと目を開いた。


 そこは竜舎の小さな塔の最上階で、背もたれのある大きな椅子に寄りかかり、膝の上には本が開いたままになっている。


 いい夢だった――と思う。


 どこかの見知らぬ街でランスベルと話す夢だった。夢の中で彼に会えたのは、実は初めてである。


 あれほど恋焦がれていたのだから、会えなくなっても、きっと毎日夢に見るに違いないとマイラは信じていた。今日はランスベル様の夢を見るぞ、と気合いを入れて眠りについた夜もある。しかしこれまでランスベルの夢を見た事はなかった。


 それがマイラには不思議だった。もしタニアがいれば、きっと相談していただろう。しかし、彼女はもうここにはいない。


 部屋の中は暗く、すでに日は暮れている。空気は冷えていて寒かった。長居するつもりは全く無かったので、暖炉に火は入れていない。


 夕食時の僅かな時間の隙に、一目この部屋を見ておこうと思っただけなのだ。明日には王国図書館の人が来て、ここにある本は持っていかれる。明後日からは馬丁が住み込む事になっていた。


 かつてブラウスクニースがいた棟はすでに厩として使用されているので、その馬たちを世話する馬丁がここに住むのは全く不自然ではない。むしろ今まで、侍女のマイラが鍵を持って独占していた事のほうが不自然なのだ。


 それは理解している。異を唱えるつもりもない。そしてマイラがこの部屋に来る事はもうないだろう。


 暗い室内で指先の感覚を頼りに、マイラは大切な本を閉じて本棚に戻した。それから壁に手をついて螺旋階段を下り、馬たちの小さな嘶きを聞きながら塔を出る。冬の寒さに身震いして、肩に掛けたケープをしっかり首まで引き寄せると小走りで大塔グレートタワーに戻った。


 与えられた時間を過ぎてしまったかもしれない――マイラは白い息を吐きながら階段を上がり、大広間へと向かう。


 大塔グレートタワーの二階へ上がる階段の途中で、マイラは違和感に気付き、足を止めた。城内が静か過ぎる。


 周囲を見回すと、近衛兵や城の人々は意気消沈しているように見えた。北方人でさえ、その空気に呑まれて静かにしている。


 大広間の手前で服装や髪を正してから中を覗くと、そこにいるはずのテイアラン五〇世はいなかった。王の役目を放棄していた頃に戻ってしまったかのように、ファランティア人の臣下も姿が見えない。


 違和感は、今やはっきりと不吉な予感としてマイラの心をざわつかせている。マイラは〈王の居城〉に急いだ。近衛騎士の守る回廊を駆け、アデリンの部屋の前まで来ると息を乱したまま扉をノックする。


「女王陛下、マイラです。入ります」


 暖炉の炎だけが放つ光の中を横切り、奥の寝室の扉を開けると、そこにはアデリンとウィルマがいた。


「マイラ……」


 涙を流し、顔をくしゃくしゃにしたアデリンはマイラの姿を認めると、ふらふら近寄ってきた。そしてマイラの手を取るなり、その場で「ああーっ!」と大声を上げて泣き崩れてしまう。


 一体何が――説明を求めてウィルマに視線を送る。


 暗がりの中に浮かび上がるウィルマの白い肌は、いつもより青白く見えた。彼女は感情を抑えたように答える。


「ブラックウォール城が落ちた、との報せが……」


「そんな――」


 マイラは絶句した。グスタフ公やヴィルヘルム卿がどうなったのかは、聞かずとも分かった。もしキングスバレーまで逃げ延びているなら、アデリンもここまで絶望にむせび泣いたりしない。


 しかし彼女の絶望には別の理由もあるようだった。「どうするの、ウィルマ! トビアス公は!? 軍と一緒に戻って来てくれるのよね!?」と、アデリンが喚いたからだ。


 さっとウィルマの表情が変わった。彼女は慌てた様子でアデリンの側に跪き、耳打ちする。


「どうか、その事はお話になりませんように。聞かれてしまいます!」


「どうなのよぉ!?」


 さらに大きな声でアデリンが問う。ウィルマは無念という表情で、苦々しく答えた。


「ブラックウォール城が落ちた今となっては……キングスバレーで敵を迎え撃つ事になり……トビアス公は動けません……」


「終わりよ! 全部無駄だったのよ! あぅあーっ!」


 狂ったように叫んで、アデリンは背中を丸めて子供のように号泣している。


 二人が何の話をしているのかマイラには全く分からなかったが、そんな事はどうでも良かった。


 アデリンは孤独になってしまった。一人で王の責任を負い、死の恐怖に耐えなければならなくなってしまった。


 もしマイラが彼女の友人だったなら、抱きしめて一緒に泣いてあげられただろう。しかし、アデリンとはどんなに親しくなれても友人にはなれない。彼女は国王なのだ。


 だからマイラにできる精一杯の事は、咽び泣く彼女の丸い肩にそっと手を添えるくらいの事だった。

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