6.アンサーラ ―盟約暦1006年、冬、第7週―
突然の光に驚いてアンサーラは目を開いた。
ランスベルの傍らに置いていた〈
その光の中、ランスベルがむくりと起き上がった。
「ランスベル……?」
アンサーラは困惑しつつ呼びかける。何が起こっているのか分からない。
「アンサーラ、ギブリムが危ない。ついて来て」
ランスベルはベッドから下りるなり
ランスベルは風のような速さで暗闇の地下通路を走って行く。どこに行くべきか完全に理解しているようで、アンサーラでさえ付いて行くのがやっとだ。〈
二人は黒い溶岩の通路に下りると、その先にある橋の上で立ち止まった。
「アンサーラ、ここから飛び降りる。二つめに大きな橋があるから、僕が竜語魔法を使ったら、風を操って上手く着地できるようにやってもらえる?」
「わかりました」
アンサーラが答えてすぐに、一切の躊躇なくランスベルは橋から飛び降りた。アンサーラも後を追って空中に身を躍らせる。
二人はごつごつと突き出た岩の間を落下していった。
一つめの橋が見えてきたので、激突しないようにアンサーラは呪文を唱えて風を操り、避けさせる。
裂け目は見る見るうちに幅を広げて、すぐに二人は何も無い広大な空間へと飛び出した。
眼下に、赤黒いドラゴンそっくりの怪物が地溝に落ちていくのが見える。
(あれは、ワーム……)
アンサーラでさえ、戦慄を覚える怪物だ。
風を切る音で聞き取れないが、ランスベルが何かを叫んで指差した。巨大な地溝に架かる大きな橋の向こうを指差している。
アンサーラの金色の瞳が、落下していくドワーフ――ギブリムの姿を捉えた。
『大地の戒めより解き放たれよ』
風のうねりの中でもはっきりと竜語が聞こえ、ランスベルとアンサーラの身体から重さが消えた。それでもここまで落下してきた力は働いているため、二人の身体は空気の圧力に翻弄されて回転しながら落ち続けている。
上下左右の感覚が失われるような回転の中でも、アンサーラは集中して呪文を唱えた。エルフの魔法が風を操り、ランスベルとアンサーラの姿勢を制御する。足を下にして、ゆっくりと橋の上へと降りて行く。
「アンサーラ、ギブリムも!」
ランスベルが叫ぶ。かなりの距離があるにも関わらず、ランスベルの竜語魔法はギブリムにも作用していた。
距離が離れ過ぎています――などと泣き言を言う前に、アンサーラは呪文に集中して魔法の力を延ばした。目を閉じて眉間にしわを寄せ、歯を食いしばり、力を振り絞って腕を振る。
ふわり、とギブリムの落下が止まった。しかし、持ち上げるにはもっと近くに行く必要がある。
「もうすぐ橋の上だ。アンサーラ、僕はいいからギブリムに集中して」
確認する余裕は無かったので、言われるままにランスベルから魔法の力を離してギブリムに向けた。ランスベルは残り一五フィートほどの高さを落下して橋の上に着地する。
落下するワームは気絶しているように見えたが、突然目覚めて頭を持ち上げた。空中で蛇のように身をくねらせて翼を広げ、姿勢を安定させると、地溝の下で旋回しつつ上昇を始める。
その頃にはアンサーラも橋の上に着地して、ギブリムを持ち上げるための魔法に集中できるようになっていた。近くでは二人のドワーフが橋の手すりの外側から内側に戻ろうとじたばたしている。
空中のギブリムが意識を回復して、きょろきょろと周囲を見回した。浮遊していて驚いたかもしれないが暴れたりはしない。下を見てから、橋の上に向けて叫ぶ。
「ダーガが来るぞ!」
ランスベルが橋の手すりから下を覗き込んで、アンサーラに尋ねた。
「あの怪物は何? ドラゴンみたいだけど、ドラゴンじゃない」
「あれは〝ワーム〟です。ドワーフ語で〝ダーガ〟と言います。心を無くしたドラゴンだと思ってください。竜語魔法による攻撃は効き難いはずです」
アンサーラが答えている間にも、ぐんぐんワームは上昇して来ていた。空中で何もできないギブリムを丸呑みするつもりなのか、剣のような歯が並んだ口を大きく開いている。
ギブリムは槍を手にして、身を丸めた。槍をつっかい棒にでもするつもりなのかもしれない。
(そんな事はさせない)
アンサーラは集中を切らさぬよう意識しつつ、隣のランスベルに頼む。
「注意を逸らしてください。ギブリムを右に動かします」
「うん。僕の竜語魔法を合図に」
ランスベルも下を見ながら答える。
いよいよワームの顎が迫ってきたタイミングで、ランスベルは手を伸ばして竜語魔法を叫んだ。
『走れ、炎!』
ランスベルの掌から、炎の渦がまっすぐにワームと、その眼前にいるギブリムに向かって伸びる。アンサーラがギブリムを右に動かしたので、炎はワームの顔面に直撃した。
ワームはギブリムを食べ損ねたが、炎は目くらまし程度の意味しかないようで全く気にした様子もなく、風を巻き込みながら橋を過ぎて上昇していった。
その気流に巻き込まれて、ギブリムがくるくると回転しながら橋の上に飛び出してくる。アンサーラは素早く反応してドワーフの太くて短い足を掴むと、橋の上に引き下ろした。
「逃げろ、ランスベル……」
ギブリムは目を回したように、起き上がれないまま言った。
年長のドワーフが若いドワーフに肩を貸しながら「ヴァルデン!」と近寄ってくる。
それがギブリムの称号なのだとアンサーラは知っていた。〝ヴァルデン〟はドワーフ語で〈七の戦士〉という意味である。ギブリム氏族に伝わる七つの武器全てを継承した戦士のことで、彼の祖父もそうであった。
その時、ずしんと振動を立ててワームが橋の上に着地した。
膨らませた喉が赤く光っている。炎を吐くつもりだ。
アンサーラの脳裏に、真空の壁を作って防御するという案が浮かんだが、そんな大きな魔法を使う余力は残っていない。そして意外な事に、アンサーラより早くランスベルが矢のように突っ込んでいた。
赤々と輝く首の付け根に、両手で構えた
「ランスベル!」
アンサーラとギブリムが同時に叫ぶ。
ワームは苦痛に首を激しく振り回しながら、二歩、三歩とふらふら後退する。
炎の中に立つランスベルは無傷だ。
竜語魔法による炎がワームに通用しなかったのと同様に、ワームの炎もドラゴンの力に守られたランスベルには通用しないのだ。ワームの正体についてはエルフの間でも諸説あるが、ドラゴンと源を同じくするのは間違いなさそうである。
橋の上で燃える炎に照らされたワームを見上げて、アンサーラは傷ついた右目に気付いた。普段であれば、叫ぶ前に走り出し、自分でワームを攻撃していたに違いない。しかし力を消耗しきっている今のアンサーラは、ランスベルに命を託すしかなかった。
「ランスベル、飛び立つ前に! ワームは右目が見えていません!」
続けてギブリムが叫ぶ。
「眉間だ!」
見ると、ギブリムが言うように眉間の鱗が一枚剥がれかけている。
二人の声はランスベルに届いたようだった。
炎を物ともせずに駆け出してワームの死角になっている右目側から回り込み、腕を駆け上がって肩から背に乗る。ワームは長い首を激しく振り回して振り落とそうとするが、ランスベルはその上を飛び跳ね、角を掴んでくるりと回転して頭上に立つ。
そして両手で握った
ワームの凄まじい悲鳴が響き渡る。
橋の上をのたうち回るワームの頭の上で、ランスベルは深々と突き刺した剣に掴まったまま左右に激しく振り回される。外に弾き飛ばされた場合に備えてアンサーラは魔法を準備したが、その必要はなかった。ワームの動きは徐々に鈍くなり、ついには力尽きて、びくんびくんと巨体を数回跳ねさせた後、動かなくなった。
ワームの死を確認するように、ランスベルはしばらく頭上に留まっていたが、やがて
黄金の光を放つ〈
「ごめん、ギブリム、アンサーラ。僕のせいでこんな……」
ランスベルは合わせる顔が無いとでもいうように、顔を背ける。
「いや、大丈夫だ……それより、怪我はないか」
非難するでもなく、喜ぶでもなく、いつもの調子でギブリムは問うた。
そのせいかランスベルも「あっ、うん。大丈夫みたいだ」と、いつもの調子で答える。
突然目覚めてから今まで、どこかランスベルとは違う人物のように感じていたアンサーラは安堵のため息をついた。少し印象は変わったが、以前の彼で間違いないと感じたのだ。
それからランスベルはアンサーラにもう一度頭を下げた。
「アンサーラもごめん。僕を助けるために無理してくれたのに、また無理をさせてしまった。辛いのは分かったけど、ギブリムを助けるためにはアンサーラの力が必要で……」
言い訳がましく言って、亜麻色の髪を手で掻く。
「そんな手で髪に触れたら、汚れてしまいますよ」
アンサーラが忠告すると、ランスベルは「あっ」と言って手を見た。しかし時すでに遅く、ワームの血で髪まで汚れてしまった。
アンサーラの背後で、年長のドワーフが呟く。
「ダーガ、バッデ……」
続いて若いほうのドワーフが徐々に興奮した様子で声を上げた。
「ダーガ、バッデ。ダ、ドレグナンドルダーガデラ! エラーデン!」
ランスベルが困惑したように眉を寄せたので、アンサーラは通訳した。
「彼らはダーガ、つまりワームを倒した事に驚いて、賞賛しているのです。あなたがダーガ殺しの偉大な戦士だと言っています」
ランスベルはますます困惑して首を左右に振る。
「いや、僕はそんな大層なものじゃないよ。ドラゴンの力を借りただけだし、二人に……アンサーラとギブリムに助けてもらってばかりだ。それでその……」
ランスベルはアンサーラとギブリムに向かって、またもや深々と頭を下げて言った。
「ずっと面倒をかけて本当にごめんなさい。これからも面倒を見てもらうと思うけど、僕を〈竜の聖域〉まで連れて行って下さい。よろしくお願いします」
自然に笑いがこみ上げて来て、アンサーラは口元を隠して微笑んだ。ドラゴンに匹敵する怪物を殺し、その返り血で汚れた剣を手にして言うような事ではない。その偉業に似つかわしくない態度が可笑しかった。
本人は真剣なので、「ええ、最初からそのつもりです。心変わりはありません」と、真面目に答えておく。
ギブリムのほうは相変わらずむっつりとして、「まあ、少なくとも借りの一つは返してもらったな」などと言う。
ワームを退治して借りが一つしか返せないなんて、ドワーフというのはどうしてこうなのだろう――アンサーラはそう思ったが、口には出さなかった。もしかしたらドワーフ流の冗談かもしれないからだ。
ギブリムは立ち上がり、年長のドワーフと共に若いドワーフを支える。
「コボルドどもがまだいるはずだ。やつらの神を殺したランスベルを襲うとも思えんが、上層まで戻ろう」
そして三人のドワーフは橋を南へと歩き出した。若いドワーフがドワーフ語でギブリムに疑問を投げかけている。
ランスベルは消えつつある炎の向こうにあるワームの死体を振り返って呟く。
「ワームは死んでも燃えてしまわないんだね……」
ドラゴンは死ぬと、自らの肉体を燃やしてしまうとアンサーラも聞いている。実際に目にした事はないが、ランスベルはそれを見ているはずだった。悲しげな瞳は、彼と絆を結んだドラゴンの死を思い出しているからか、このワームに同情しているからか、それはアンサーラにも分からない。
「行きましょう、ランスベル」
アンサーラが声をかけると、ランスベルは「うん」と言ってドワーフたちの後を追った。
上層に戻った一行は、怪我の具合を確認した。
若いほうのドワーフ、バンの鎧は酷い有様で、もはや使い物にならない状態だったが胴体の傷は浅い。むしろ、身を守ろうとした腕の裂傷が酷く、傷口を縫い合わせなければならないほどだ。
アンサーラには魔法で治療できるほどの力が残っていなかったので、せめてもと痛みを和らげる薬を差し出したのだが、バンはそれを断った。
年長のドワーフ、ボルドに目立った外傷は無かったが、鎧を脱いだ彼の右肩は青黒く腫れ上がっていた。落下してきたバンを受け止めた時に痛めたのだろうと本人が言った。
ワームと戦ったというギブリムには大した怪我が無く、目覚めたランスベルも元気だが、問題はアンサーラ自身であった。力を使い果たしてしまい、長い休息が必要な状態である。
それから三日間は、全員が身体を休めて過ごした。
年長のドワーフはボルド、若いドワーフはバンだとギブリムが紹介してくれたが、アンサーラはドワーフ語が理解できるので話の内容から名前は分かっている。
休んでいる間に、ギブリムはボルドとバンから大地震の被害について詳しい話を聞いていた。二人のドワーフは第一区画の被害状況を調べるために第二区画から上がって来たと話し、調査のためにも北の門まで同行したいと申し出てきた。ギブリムはもちろん、ランスベルとアンサーラにも断る理由はない。
被害について確実なのは、どこかにワームが入って来られるような亀裂ができているだろう事で、三人のドワーフはかなり深刻な雰囲気である。「第一区画はおそらく放棄する事になるだろう」と、ギブリムは言った。
その場合、第二区画に通じる全ての道と、第一区画下層全域を崩落させて完全に通行不能にしてしまうらしい。
そんな話を、アンサーラは長い瞑想を続けながら聞いていた。
アンサーラが気にしているのは、〝あのワームがどこから入って来たか〟ではなく、〝どこから来たのか〟である。それまでの住処もきっと快適だったはずなのに何故――と、アンサーラは考えてしまうのだ。
(単純に、この場所のほうが好みだったというだけかもしれない。もし別に理由があるとしたら……いや、今はそんな事を考えるのはよそう)
アンサーラは考えるのを止めて、より深く心の奥へと沈み込んで行った。外の状況は分からなくなってしまうが、きっと大丈夫だろう。ギブリムがいるし、今のランスベルなら心配いらないと思える。
やがてアンサーラの精神は心の最奥の向こうに広がる深遠へと溶けてゆき、盟約の旅に出てから初めて、本当の眠りについた。
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