5.ランスベル ―盟約暦1006年、冬、第7週―
いつものように、ランスベルは自室のベッドで目覚めた。起き上がって窓の外に目をやる。そこに広がる街並みと、夜明け前の白んだ空も変わりない。
「うーん」と身体を伸ばしてから立ち上がると、机の上に見慣れぬ封筒があった。いつか見た悪夢を思い出して、どきりとする。
銀行の送金証書や手紙をしまった鞄の中から恐ろしい手紙を見つけてしまう夢だ。その翌朝に鞄を確認してもそのような手紙は無く、ほっと胸を撫で下ろしたのも記憶に新しい。
実はまだ眠っていて、夢を見ているのかもしれない――そんなふうに思いつつ、封筒を手にして恐る恐る差出人を確認するとマイラだった。
おそらく店主のマグナルに手紙を渡し、マグナルがランスベルの寝ている間に机の上へ置いて行ったのだろう。近所に住む彼女がわざわざ手紙を送って寄越したという謎は残るものの、それは本人に直接聞けばいい事だ。
ランスベルは封筒を開けて折りたたまれた手紙を取り出し、開いた。悪夢で見た手紙に似て、たった一文だけ書かれている。
『ランスベル様、今はどちらにおられますか?』
怪訝な顔をしてランスベルは首をかしげた。意味が分からない。
まあ、いずれ本人に尋ねればいいだろう――ランスベルは手紙を畳んで封筒に戻すと、鞄に入れてベッドの下に押し込んだ。
それからは、これまでと同じ毎日の繰り返しだ。
朝食を食べて、店の中と外を掃除して、開店準備をし、店番をする。
一〇年間繰り返してきたこの日常を、ランスベルは嫌っていなかった。冒険するのは本の中だけでいい。現実には、毎日決まったやるべき事を、決まった手順で繰り返すほうが安心できる。それが平和というものだ。
接客を終えたランスベルは、昼過ぎだというのに外が薄暗いのに気が付いた。大きなガラス戸から空を見上げると、分厚い灰色の雲に覆われている。今にも雨が降り出しそうな空模様である。
目線を下すと、通りの反対側にある木の下に一人の老騎士が立っているのに気付いた。金糸で縁取りされた黒いクロークを着て、背が高く、老人とは思えぬ体格をしている。なぜ老人だと分かるのかと言えば、真っ白な髪と、たくさんの皺が刻まれた顔は老人のものだからだ。
老騎士はじっとこちらを観察している。
(お客さんだろうか。入ってくればいいのに。こっちから声をかけたほうがいいのかな……)
迷っていると、小さな鈴の音がしてマイラが店に入ってきた。少し戸惑ったような顔をして店内を見回している。
「こんにちは、マイラさん」
ランスベルが声をかけると、マイラは少し驚いたような顔をした。
「あ、こんにちは、ランスベルさ――ま」
いつものマイラは実家の手伝いで給仕をしているので、濃い藍色の質素なチュニックを着ている。今日は緑のドレスで、町娘ではなく貴族の娘のようだった。
「特別な装いですね。今日って何かありましたっけ?」
「いいえ、特には……」
マイラは躊躇いがちに微笑んで、それから店内を歩き出す。
いつもと違う彼女の反応に戸惑いつつ、ランスベルは問いかけた。
「そう言えばマイラさんに聞きたいことがあったんだ。昨晩、僕に手紙をくれましたよね。あれって、どういう意味なんです?」
マイラは振り向き、首をかしげる。
「手紙、ですか?」
「うん。〝あなたは今どこにいますか?〟っていう……」
マイラは少し考えてから、答えた。
「たぶん、ブラウスクニース様が届けてくださったのでしょう」
(ブラウスクニース!)
どくん、とランスベルの心臓が脈打った。何かとても大切なものだったような気がする。しかし、思い出せない。
マイラは思い切ったように顔を上げ、潤んだ瞳で話し始めた。
「きっと、これは夢なんですよね? あれから王都ではたくさん恐ろしい事件があって、テイアラン陛下も、ステンタール卿も、アリッサさんまで……亡くなられました。それで私、昔を懐かしんでばかりいたから、こんな夢を見ているんだわ」
ランスベルは硬直して立ち尽くす。
このマイラは、ランスベルのよく知っている彼女ではない。
いつも明るい元気な宿屋の娘ではない。
話の内容も意味不明だ。アリッサならつい先日、この店に来たばかりではないか――。
ランスベルの混乱に気付いていない様子で、マイラは店の大きなガラス戸から通りを眺めつつ話を続ける。
「この街、どこだか知らないけど穏やかで良い所みたいですね。現実でもランスベル様がこんな街にいるのなら良いのですけど……北方でオークの攻撃があったって話も聞いています。ランスベル様が北方に向かわれたという噂も聞いていたので、もしかして戦争に巻き込まれたのではないかと心配で……」
そこまで言ってマイラは踵を返し、ガラス戸を背にランスベルと向き合った。
「でも、心配なんて要らないですね。ランスベル様は竜騎士で、とってもお強いですもの。ブラウスクニース様も、守ってくださいますよね」
マイラのそんな悲しそうな笑顔を、ランスベルは見た事がないはずであった。
竜騎士なんて、物語の中の存在のはずであった。
それでも目の前のマイラこそが本物で、真実を語っているとしか思えない。
――聞くな。
心の声を無視して、ランスベルは恐る恐る、尋ねる。
「この町、フレスミルですよ。西部の……マイラさんの実家がある街では?」
マイラはきょとんとして答える。
「フレスミルなんて町、西部にはありません。私の実家があるのはプレストンです」
再び小さな鈴の音がして、店内に老騎士が入ってきた。
マイラの言葉に衝撃を受けて立ち尽くすランスベルは、何も言えない。
いつの間にか降り出した雨が屋根を叩く音がする。
老騎士は雨と共にやってきて、ランスベルの世界をがらりと変える者だ。
「フレスミルはドワーフの地下都市の名前だ。現実のお前が今いる場所だ」
老騎士は厳格な雰囲気を漂わせてそう言った。それは恐ろしくも懐かしい声だった。それから老騎士は扉を手で押さえたまま身体を端に寄せて、マイラに声をかける。
「お嬢さん、私はランスベルに大切な用件がある。申し訳ないが、遠慮してもらえまいか」
マイラは老騎士とランスベルを見比べるように視線を行き来させてから、「わかりました」と軽く頭を下げて出て行こうとして、振り返った。
「ランスベル様。私、あの約束を今でも覚えています。だから、また、です」
そう言ってマイラは頭を下げ、出て行った。
ランスベルは彼女に何か言わなければと思ったが、言葉は出てこず、扉は老騎士によって閉ざされる。
「ブラウスクニースの仕業なのか……」
老騎士は扉を見つめたまま呟き、それからランスベルに向き直った。
「ランスベル。〈盟約の者〉に危機が迫っている。これまで様子を見てきたが、そうもしていられなくなった。お前は目覚めなければならない」
「な、何を言って……」
ランスベルは分からないというように首を左右に振りながら後退り、どん、とカウンターに当たる。
「これはドラゴンの夢だ。お前もよく知っているはずだ。〈
老騎士は腰に下げた幅広の
「私はお前を殺しに来た。ランスベル・オーダムよ。お前が旅を続けられるように、お前を
老騎士は剣を頭上に振り上げた。
「パーヴェル――」
ランスベルが老騎士の名前を口にしたと同時に、剣が一筋の光線を描いて振り下ろされる。
『戦ってくれ、ランスベル。今はお前を助けてやれん』
ドワーフの低い声が聞こえ、それに肩を押されたようにランスベルは身体を斜めに逸らした。パーヴェルの剣が木製のカウンターを真っ二つにし、中心へ折れたようにカウンターが崩れる。
「なぜ避ける。いや、なぜ避けられた?」
パーヴェルが独り言のように言う。
「これは、お前自身が望んだ事だ。だから私がここに来た。私たちが初めて言葉を交わしたあの日、〝自分を殺せるか〟という私の問いに、〝できる〟とお前は答えた。今がその時なのだ」
パーヴェルは再び剣を振り上げる。今度こそ終わりだ、とランスベルは思った。
刹那、月下に佇むマイラの姿が脳裏を過ぎる。
それは旅の始まり。そしてこれまでの旅の全てが混沌としたまま溢れ出す。
地下室の両親、兄の最後の瞬間、初めて人間を斬った感触、それと変わらないオークを斬った感触――そんな忘れたい思い出だけではない。王都の人々、ギブリム、アンサーラ、旅の途中で見た景色、出会った人たち、遠くで手を振るランナル、スヴェン王とマグナル、そしてヒルダ――忘れたくない思い出も渾然一体となって蘇る。
(消える……全てが……いやだ! 失くしたくない!)
心の中でそう叫んだ時、その身はパーヴェルの一太刀を紙一重で避けていた。背中にずしりとした剣の重みを感じ、ほとんど無意識に手をやって
その瞬間、人を斬った不気味な感触と嫌悪感、兄の最後の瞬間――自分に関わった死の記憶が、腕を通じて流れ込んできた。胃がひっくり返り、吐き気がこみ上げる。もう一人の自分が囁く。
――この剣を抜けば、また苦しむ事になるぞ。
――もっと積み重ねていく事になるぞ。
その時、まるですぐ隣にヒルダが立っているかのように、はっきりと彼女の声が聞こえた。
『恐れを知らぬ戦士のように振舞わねばならぬ時はある。その時を見誤るな』
今が、その時なんだ――ランスベルはぐっと口を結んで吐き気を堪え、目に涙を湛えて背中の剣を抜き放つ。
ランスベルが剣を抜いた事で、パーヴェルはより真剣な表情に変わった。剣を上段で水平にして構える。ランスベルは両手で剣を持ち、中段で正眼に構えた。
先手を取ったのはパーヴェルだった。その踏み込みも剣筋も、記憶にあるパーヴェルそのものだ。ランスベルはアンサーラとの訓練を思い出し、防御に徹する。防御を崩そうというパーヴェルの意図を察して、足運びを意識する。老人とは思えぬ素早い攻撃。剣と剣が激突する剣戟の音が響く。
そこはすでに狭い店内ではなく、パーヴェルとよく訓練していたレッドドラゴン城の中庭の隅だ。
攻撃の手を緩めないパーヴェルに対して、ランスベルは相手の剣を受け、払い、回避する事に専念した。
いや、実際には専念させられていた。とても反撃する隙などない。
(やっぱり剣術じゃパーヴェルには勝てない。このままでは……)
漆黒の髪と金色の瞳が脳裏を過った。ランスベルはその思い付きに賭ける。
パーヴェルに意識を向けて、竜語魔法を囁いた。
『大地の戒めより解き放たれよ』
突然、身体から重さが無くなったパーヴェルは自分が振るった剣によって逆に振り回されたように身体が持ち上がり、足が地面を離れ、体勢を大きく崩した。真剣勝負の最中に老騎士が驚いた顔をしたのは初めてだ。
ランスベルの剣はすでに頭上にある。気合を込めて、振り下ろす。
パーヴェルの頭が真っ二つになる寸前で、ぴたりと剣は止まった。
「いいのか、ランスベル」
パーヴェルは剣の下からランスベルを見詰めて問う。
「ランスベル・オーダムを失った僕は、たぶんもう僕じゃない。それはブラウスクニースが選んだ竜騎士でもないって事だよ」
ランスベルはそう言って剣を引いた。パーヴェルも立ち上がり、剣を収める。
「私には分かっていた。お前には無理だと。他人を犠牲にして我を通す覚悟も、その痛みに耐える強さも、お前には無いと分かっていたから。最後の別れの瞬間まで、その考えは変わらなかった」
ドラゴンと竜騎士は思考を共有できても、同じ意見だとは限らない。その事はランスベル自身よく知っている。
「それでも僕は、ブラウスクニースが選んだ最後の竜騎士だ」
そう言って剣を鞘に収めた時、はたとパーヴェルの言葉に疑問を抱く。
「最後の瞬間までって……あなたは僕が記憶から作り出したパーヴェルではないの?」
「周りをよく見ろ、ランスベル」
いつの間にか周囲は星が瞬く夜空のような空間に変わり、そしてランスベルとパーヴェルを取り囲むようにして一二体のドラゴンが見下ろしていた。彼らの背後には大勢の人間たち――歴代の竜騎士たちがいる。
その中にはパーヴェルのように騎士然とした者だけでなく、華奢な少年と少女、見た事のない衣装を着た外国人の青年、太った中年の男性や、ランスベルとそう年の変わらない女性などもいる。
『〈
その声はブラウスクニースのようであり、パーヴェルのようであり、そのどちらでもなかった。
「僕のせいで……すみませんでした」
ランスベルは素直に頭を下げて謝罪する。
「僕は……驕っていたと思います。自分にはもっと何かできたんじゃないか、救えたんじゃないかって……でも実際には、最後の竜騎士としての使命を果たす事さえ一人ではできない。ただ一つの事だけで精一杯だったんです。自分はその程度だと知って、そこから始めるべきだったんです。だから今からは、ただ前に進む事だけを考えます。これ以上、皆さんを心配させないように」
『ブラウスクニースはそんなお前の愚かさを、そして優しさを、愛していた。我らは再び眠りにつく……最後の竜騎士よ、お前が失いたくないと思ったものは、我ら全員にもあるのだ。どうかその事を忘れないでくれ』
ランスベルはしっかりと頷いた。それを見届けて、一人また一人と竜騎士たちは姿を消していく。
ブラウスクニースの足元に立つパーヴェルが最後に言った。
「お前の仲間が危機に陥っている。急げ、ランスベル。私が間違っていたと証明して見せてくれ。いつものようにブラウスクニースが助けてくれる」
ランスベルはブラウスクニースを見上げた。生前と同じ青い瞳は慈愛に満ちている。
『ブラウスクニース、我に力を』
ランスベルの祈りに応えて、金色のドラゴンは咆哮した。
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