3.ギブリム ―盟約暦1006年、冬、第7週―

 地震が来るのを感じたので、ギブリムは小型の片手鍋スキレットを手にしたまま台所で立ち止まった。すぐに家全体がぐらぐらと揺れだす。人間でも体感できそうな揺れは今日になって二度目だ。大地震から二八日が経過した今でも余震は続いている。


 より震源に近い第二区画ではどれほどの被害が出ただろうか――と、揺れるたびにギブリムは心配になった。地震を想定して作られたドワーフの地下都市でも、あれほどの大地震では被害無しとはいかないだろう。


 ギブリムたちのいる第一区画でも倒壊した家こそないが、柱や壁に亀裂などの被害が見られた。しかし、第一区画を南北に分断している大地溝を渡るための大アーチ橋が無事だったのは幸いである。もし大アーチ橋が使えなくなっていたら、二日ほどかけて遠回りするはめになっただろう。


(だが、ランスベルが目覚めなければそもそも……)


 苛立ちを感じてギブリムはそれ以上考えるのを止めた。


 カンと音を立てて鉄板の上に小型の片手鍋スキレットを置き、チーズの塊を入れ、台座の取っ手ハンドルをくるくると回して熱を送る。パンをふた切れナイフで切り、燻製肉も薄く削ぎ切りにして鉄板に乗せた。


 やがて鉄板に熱が伝わって、じゅうじゅうと燻製肉から油が出てくるようになると、ナイフの先で燻製肉をすくい上げてパンの上に乗せ、それを染み出た油の上に移動させる。これは自分用だ。アンサーラは燻製肉の油があまり好きではないらしいので、油を避けて彼女のためのパンを置く。


 アンサーラのパンにも燻製肉を乗せると、それを持って部屋に戻りアンサーラに渡した。それから台所に取って返し、溶けたチーズの入った小型の片手鍋スキレットを持ってくる。


「ありがとうございます」とアンサーラが言い、ギブリムは頷いて椅子に座った。


 アンサーラは少しずつパンと燻製肉を千切って食べるが、ギブリムは一気に燻製肉を平らげてからパンで溶けたチーズを掬い取って食べる。


 日常的と言えてしまうほど、もう何度も繰り返された食事風景だ。すでにランスベルが目覚めないまま、五五日が経過してしまった。現状のままなら、もう一度食料を補充するために第二区画まで行かなければならないと考えているほどだ。


 だがその日は、アンサーラがいつもと違う話題を口にした。


「もしも……の話なのですが、もしランスベルがこのまま目覚めなかったとして、彼の身体を運んで旅を続けても誓約を果たした事になると思いますか?」


 ギブリムはもぐもぐしながら考え、それから答えた。


「分からんが、仮に意識の無い竜騎士を目的地まで運び、〈竜の灯火〉を握らせても誓約を果たしたと見做されるかは疑問だ」


 オースヒルで誓約の言葉を口にした時、ギブリムはドワーフ語を使ったがアンサーラには内容を理解されたと思っている。だから、〈竜の灯火〉という言葉を隠そうとはしなかった。もっとも、それがどんな形をした物なのかは、さすがにアンサーラも知らないはずである。


 アンサーラは伏し目がちに言う。


「意識のないランスベルを〈エルフの港〉まで運んでも、そこから〈竜の聖域〉には送り出せませんから、誓約を果たしたとは言えない……と、わたくしも考えています」


 ギブリムは鍋底に残ったチーズをパンで掬い取り、それを口に放り込んだ。咀嚼して飲み込むまでの間、ずっと心にわだかまっていた言葉を口にする決心をした。


「俺にも何かできることがあればいいのだが……」


 たったそれだけの事をギブリムは今まで口にできずにいた。言葉にしてしまうと、無力感が深まるように思えたのだ。そして実際に今、そうなった。


 そんなギブリムの気持ちを知ってか知らでか、アンサーラは眠っているランスベルを見ながら話す。


「ランスベルは夢を見ているようなのです。エルフは眠っている間も、周囲の状況を理解しています。夢の中で現実という舞台の上の演劇を見ているような感じ……と言えばいいでしょうか。それと同じような事が彼にも起こるかもしれません。話しかければ、届くかもしれません」


 上手くいっても言葉を伝えられるだけか――ギブリムは落胆した。


 ランスベルを眠らせている何かと武器で戦えるものなら、いくらでも戦うのにと歯がゆく思う。


 それからアンサーラの様子を見た。彼女は間違いなく消耗している。今までも話す機会はあったのに、今日になってこの話題を切り出したのは、彼女の限界が近いからだろうか。


 そんな事を考えていると、〈ドワーフの感覚〉が動くものの気配を察知した。ギブリムの様子に気付いたのか、アンサーラも表情を険しくして耳を澄ます。


 二本足で歩く何かが、通路を歩いてくる。歩幅は狭く、かなり小さな生き物のようだ。誰も住んでいない第一区画とはいえ、ドワーフの地下都市に入り込める者がいるという事実はギブリムに衝撃を与えた。


 しかも、ギブリムの予想が正しければドワーフの忌み嫌う敵だ。


 アンサーラはパンをテーブルにそっと置き、音もなく立ち上がると、二本の剣を手にした。天井の低いドワーフの家の中を、腰を屈めて歩いていく。


 ギブリムもまたアンサーラの後に続いて部屋を出た。今は鎧を身に着けていないが、それでもアンサーラと比べて騒々しく感じる。


 二人は玄関の入口まで来ると、左右に分かれて壁を背にした。何者かは、すぐそこまで来ている。


 ギブリムは魔法の短剣ダガーを手元に呼び出した。予想通りの相手なら不要だが、念のため大地の力を呼び出して身に纏う。


 それは氏族の戦士となったドワーフが最初に学ぶ魔法で、どれだけの攻撃に耐えられるかは本人の力量による。ドワーフの頑健さもまた人間の伝説に謳われるほどだが、それはこの魔法によるところが大きい。


 何者かが家のすぐ前まで来て、ギブリムは飛び出した。その動きに合わせてアンサーラが魔法の明かりを呼び出す。家のすぐ外は高さ七フィート、幅一三フィートの通路になっている。もっと下層には人間の町がすっぽり入ってしまうほどの広い空間もあるが、地表に近い上層ではこのような狭い通路で住居や施設が繋がっていた。そんな通路をアンサーラの魔法の光が満たし、侵入者の姿が照らし出される。


 身長は一フィートあるかないか、灰色の毛で覆われた丸っこい生き物で、細い手足がずんぐりした胴体から出ている。ほとんど黒い瞳しかない目を驚きに丸く見開いていた。


 ギブリムは唸り声を上げて飛びかかろうとしたが、アンサーラが「待ってください!」と制したので一瞬動きを止めてしまった。その隙に、灰色小人は回れ右すると、見た目からは想像もできない素早さで逃げ去った。


 どういうつもりだと言わんばかりに、ギブリムはアンサーラを睨む。


「あれは灰色小人です。無害ですよ。殺すことはありません」と、アンサーラは弁明した。


「無害だと!?」

 ギブリムは鼻を鳴らして言う。


「あいつらは盗人だ。ドワーフの宝を盗んでいく卑しい連中だぞ。放っておけば、氏族の宝を盗まれる」


「でも、彼らに持ち運べる大きさの物しか盗みません。それに食べ物を与えれば返してくれます」


 何を言ってるんだこのエルフは――ギブリムは頭にきた。


「なぜ自分の大切なものを盗んだやつに、食べ物を与えて返してもらわねばならんのだ!」


「与える食べ物はチーズの一かけらでもいいのですよ。とてもあなた方ドワーフの宝に匹敵するようなものではありません。弱き者に施すと思えばいいではありませんか」


 アンサーラの反論は感情的ではなく、諭すような言い方だった。それがますますギブリムの神経を逆撫でしたが、怒りの原因はアンサーラの物言いだけではないという自覚もあった。抑えてきた苛立ちが出口を見つけて怒りとなり噴出しているのだ。


(アンサーラに八つ当たりしてどうなる。氏族の名を背負っているのを忘れるな)


 自分にそう言い聞かせて、ギブリムはなんとか自制した。不満げに鼻を鳴らし、魔法の短剣ダガーを元の場所に戻すと腕を組む。


「一番の問題は、やつらがここにいたという事のほうだ。つまり、この都市にはどこからか入り込めるという事だ。やつらが埃から生まれるのでなければな!」


 怒気を隠しきれずにギブリムはそう言った。


 今年で二三二歳になるギブリムだが、一〇〇〇年の時を生きてきたアンサーラにとっては子供のようなものかもしれない。彼女は冷静にギブリムの怒りを受け止め、頷く。その態度は気に入らないが、ギブリムも少し冷静さを取り戻して話を続けた。


「……入り込んだのが灰色小人だけならいいが、もっと危険なものがいないとも限らん。様子を見てくる」


 そしてアンサーラの同意を待たずに家の中へ戻ると、自分の荷物に食料を詰め込み、鎧を手に取る。


 ミスリル銀の鎖帷子チェインホーバークは布のように軽く、さらさらと流れる砂のような手触りだ。それを頭から被り、腹の下で丈夫な金属製のベルトをカチンと留める。


 それから黒鋼製の鎧を胴、肩、腕、腰、脚へと取り付けていく。ミスリル銀も黒鋼もドワーフが作り出した魔法の金属である。黒鋼はこの世界の鉱物からも作れるが、ミスリル銀はこの世界では作れないので、より貴重だ。


 それら魔法の鎧を身に付け、荷物を背負い、最後に兜を手にした。へこみを直した跡や傷跡がいくつもあり、片方の角は先端が欠けている。一見すると古ぼけた兜だが、ギブリム個人の持ち物では最も貴重な魔法の品であった。冷気や炎、雷などに対する防御力のほとんどは、この兜が担っている。


 いつでも呼び出せる七つの武器はギブリム個人のものではなく、氏族のものだ。


 準備を整えたギブリムは、ランスベルが横たわるベッドの傍らに立った。〝話しかければ、届くかもしれません〟と、アンサーラが言っていたのを思い出す。


「戦ってくれ、ランスベル。今はお前を助けてやれん」

 そう語りかけても、ランスベルに反応は無かった。


 ギブリムは振り向いて部屋の入口に立つアンサーラの前まで行くと、革で保護された巻物を差し出した。


「何日か戻らないかもしれん。これは予備の地図だ。念のため持っていてくれ」


「わかりました」


 アンサーラは巻物を受け取った。そして、ギブリムは暗い地下通路へと出て行った。

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