2.アベル ―盟約暦1006年、冬、第7週―
アベルはサンクトール宮の廊下を歩いていた。すでに日は落ちて、ブレア王国の廃都も夜の闇に包まれている。
以前であれば〈
かつては静寂に満ちていた王宮内も、今は人の気配があった。
アベルが見つけた〝禁呪〟や〝エルフの錬金術〟を調査、研究するためにセドリックが呼び寄せた審問官たちが滞在しているからだ。孤独に慣れているアベルにとって、彼らの存在は煩わしかった。
ちょうどそんな審問官の一人であるデメトリが廊下の角から姿を現し、アベルに気付いて軽く会釈する。しかしアベルのほうは、相手を見もせず、挨拶を返すでもなく、尊大な態度で通り過ぎた。
同じ審問官であれば階位による上下関係はない。だが、実力や実績による力関係は暗黙の内に存在する。そういう意味では、アベルは〈選ばれし者〉であり、セドリックのお気に入りであり、実績も充分にあった。
とはいえ、ここにいる審問官たちはセドリックによって集められた知識も経験も豊富な実力者ばかりだから、アベルがそんな態度を取って当然という相手ではない。現にアベルは背中に鋭い視線を感じていた。しかしそれは、彼をより苛立たせるだけだ。
(世が世なら、俺はブレア王国の王だったのだ。貴様らがあの秘密に触れられるのも、ここに住まわせてやっているのも、俺がそれを許しているからなんだぞ。この寄生虫が!)
そのように心中で毒づいても、気分は晴れない。
灯りを辿るように廊下を歩いて、アベルはサンクトール宮の最奥区画までやってきた。この区画はブレア王国最後の日に帝国兵によって略奪され、破壊されている。今、アベルが歩いている廊下と一番奥にある部屋だけが形を留めているような状態である。
屋根もほとんど無くなっているので、雨季の雨が降り注ぎ、割れた床から緑の草が伸びていた。この季節特有の緑のにおいがする湿った空気が充満していて、とても王宮内とは思えない。
唯一残った部屋は、かつて国賓のための客室として使われていたものだ。
そして、ブレア王国最後の日にアベルたちが逃げ込んだ場所でもある。
〝あなたを守るために行くのよ〟
そう言った母の姿が思い出され、アベルの胸を苦痛が襲った。大切な審問官のローブがよれるのも構わずに、胸を掴んでそれに耐える。
(あれは嘘だった。あの瞬間に、あの女は俺を捨てたに違いない)
もう一度あんな事があったら、アベルはそれに耐えられないだろう。だが幸いにも、もう二度と同じ思いをする事はない。アリッサは死んだのだ。アベルが再び母親に裏切られる事はない。
胸の痛みが鎮まったので、アベルはローブを正して顔を上げる。
一番奥の部屋は、急遽取り付けた閂が外され、壁に立てかけられていた。それを見てアベルは舌打ちする。
この部屋の扉は幼いアベルの目の前で破壊されたので、最近になって修繕された新しいものだ。壁が歪んでしまっているのでぴったりと閉まらず、隙間からは室内の明かりが漏れている。
高位の魔術師が何人もいるこの場所で、この扉には一切の魔術が使用されていない。〈
(あいつには地下牢か豚小屋が相応しいのに……)
普通の犯罪者を投獄するためのものではないが、サンクトール宮にも地下牢はある。だが今は、そこから禁断の書庫へと通じる横穴が掘られていて、地下牢としては使えない。そしてサンクトール宮に豚小屋はなかった。
アベルは忌々しいというように顔を歪ませて、扉横の壁に背を預けて腕を組む。扉の隙間からは明かりだけでなく、声も洩れ聞こえてくる。
男性的な低音の美声で朗々と語っているのはセドリックだ。声量もあるのでかなりはっきりと聞こえる。相手の言葉に相槌を打ったり、優しい言葉をかけたりしている。
その合間にぼそぼそと聞こえる小さな声は、この部屋に閉じ込められているドンドンのものだ。こちらはセドリックの声と違ってほとんど聞き取れない。
時々、セドリックの笑い声が聞こえてきて、その度にアベルの苛立ちは増し、ついには怒りに変わった。今すぐ部屋の中に飛び込んでドンドンに飛びかかり、太った顔が潰れるほど殴ってやりたいという衝動に駆られる。
セドリックはなぜあいつを生かしておくのか。なぜ俺ではなくあのデブと夕食を共にするのか――そんな疑問をアベルはずっと心の中に閉じ込めてきた。子供っぽい嫉妬心のように思えたからだ。
だが今日こそははっきりとセドリックに問いたださねばならない、とアベルは決心した。
それからほどなくして、セドリックが部屋から出てくる。ドアのすぐ横にアベルがいたので、少し驚く。
「おお、アベルか。どうした?」
アベルは憮然とした表情のまま一礼した。廊下にいるのは二人だけなので表情を取り繕ったりしない。
「なぜ、あいつを生かしておくのです。もう役目は終わったのに」
セドリックは眉を寄せて困ったような顔をしつつ、「歩きながら話そうか」と言ってアベルの背中に大きな手を当てて歩くよう促した。アベルはそれに従う。
「ドンドンは〈選ばれし者〉だ。もし全ての〈選ばれし者〉が存在したとして、世界に九人しかいない内の一人だ。必ず、我々の役に立つ」
声量を落としてセドリックはそう言ったが、無人の廊下では意味がなさそうなほど響いて聞こえる。
「確かに、〝アレ〟の封印を解く役には立ちました。あのデブが歩くだけで、封印の魔術も魔力も全部食われて消え去った。それで〝アレ〟は蘇りましたし、研究できるようになりました。でも、それで終わりでしょう? あいつは魔術に対しては無敵かもしれないですけれど、それ以外には何の役にも立ちませんよ」
アベルには自分が危うい事を口にしているという自覚はあまりなかった。ここには身内しかいないし、廃墟ではあるが、自分の王国なのだ。
しかしセドリックは違った。真剣な表情でアベルの腕を掴み、明るい廊下から暗がりへと引き込む。セドリックの大柄な体格に相応しい力はアベルに有無を言わせない。
「〝アレ〟の事は迂闊に口にするんじゃない。ここにいる審問官は信頼できる者を集めたつもりだが、皇帝に通じている者がいないとも限らんのだぞ!」
いつも温和なセドリックが鋭く強い口調で言ったので、アベルは少なからず衝撃を受けた。彼の目の奥に見える怒りに気圧されて、思わず「ご、ごめんなさい……」と子供のように謝ってしまう。
しばし、二人の間に緊張感が漂った。
アベルは目を逸らし、セドリックはため息をついて諭すように言う。
「いいかい、アベル。帝国はファランティア併合後、東方へと拡大するだろう。東方諸国には強力な魔術師を擁する魔術結社が存在する。その戦いにドンドンは役立つだろう?」
それからセドリックは顔を近付け、より声を潜めて、アベルにもやっと聞こえるような小声で付け足した。
「それに、もし帝国が割れる、あるいはレスターが我々を闇に葬ろうとした時、審問官のうち何人かが敵に回る可能性もある」
片眉を上げて、〝それ以上は言わなくても分かるだろう?〟という顔でセドリックはアベルを見た。アベルが小さく頷くと、セドリックは顔を離して言った。
「ドンドンは実年齢と比べて精神的に幼い。幼い子供を手駒にするには恐怖ではなく愛情と優しさが有効なのだ。私はあくまでドンドンを道具としてしか見ていないよ」
最後の一言に、自分でも驚くほどアベルは安堵した。苛立ちは嘘のように消え、疑念と怒りは雨季が過ぎれば姿を消す緑のように、あっという間に消えていく。
そして冷静になると、自分の愚かさに恥ずかしくなった。父のように慕うセドリックが、ドンドンに取られてしまうのではないかという馬鹿げた妄想に囚われていた。
「出過ぎた事を申しました」
アベルが謝ると、セドリックはふくよかな頬を持ち上げて笑顔になる。
「アベルは心配性だなぁ。大丈夫か?」
「はい。もう大丈夫です」
アベルの答えを聞いて安心したのか、微笑んだままセドリックは明かりの中へと戻った。そのまま立ち去ろうとする大きな背中を見ながら、アベルはドンドンの部屋の閂がされていない事を思い出して言う。
「セドリック様。部屋の閂が――」
「必要ない。ドンドンは逃げないよ」
セドリックは片手を軽く上げながら断言して、廊下を歩いて行った。アベルは追従しようとして、足を止め、振り返る。
セドリックが必要ないと言うなら、必要ないのだろうが、ドンドンは客人ではなく囚人なのだ。囚人の部屋は施錠されているべきだ――そう考えて、ドンドンのいる部屋へと戻った。
閂は外され、壁に立てかけられたままになっている。普通に持ち上げるなら、重そうな閂をかけるのは一苦労だろうと思いつつ手をかざす。転移で済まそうとして、アベルはふと思い立った。
(セドリックを信頼して〝逃げない〟とか言っているのだろうが……馬鹿なデブめ。実際には道具としてしか見られていないのにな。奴の間抜け面を見れば、もっと気分が良くなるだろう)
アベルは閂ではなく扉のほうに手をかけて押し開く。
部屋の中に国賓の客室だった頃の内装は全く残っていない。ただの広くて朽ちかけた部屋だ。壁に付けられた傷や、装飾が剥ぎ取られた痕もそのままになっている。そこに簡素なベッドと、テーブルがあって、傾いた戸棚が一つだけある。
テーブルの上は夕食を終えたままになっていた。まるで四、五人で会食したような皿の数だが、きれいに平らげられている。
ほとんどこいつが食ったんだろうな――と、アベルはドンドンの腹を見て嘲った。
ドンドンは食事の後片付けをしようとしているところだった。突然入ってきたアベルに驚いたのか、動きを止めている。黒いくせ毛のもじゃもじゃした前髪の間から覗く小さな目は、警戒しているようにも、怯えているようにも見えた。
アベルはニヤリと余裕の笑みを浮かべ、大げさな様子で話しながらドンドンに歩み寄る。
「こいつはすごいな! さすが〈暴食に選ばれし者〉だ。この量を一人で食うとは、まるで豚だな」
ドンドンの前に立って見下ろし、アベルは反応を待った。ドンドンはぼそぼそと呟くように答える。
「……セドリックと半分こしたんだ」
その言葉にアベルの苛立ちが再び目を覚ます。
だがアベルは、セドリックが最近太り過ぎを気にしていると知っている。そんな個人的な悩みまで知っているのは自分だけだと信じている。だからドンドンとセドリックがこの量の食事を半分ずつ分け合ったなど信じない。
「あの女が死んで、今度はセドリックに鞍替えか。餌をくれるなら誰にでも尻尾を振るんだな、豚め」
「あの女?」
ドンドンが聞き返した。
「アリッサだよ。お前がお母さんだとか言っていた魔女の事だよ。毒入りのワインを飲んで血反吐を吐いて死んだ女の事だよ。忘れたのか?」
口元を歪めてアベルは言った。
しかしドンドンはきょとんとした様子で、特に怒るわけでも泣くわけでもない。その様子にアベルは困惑させられ、小さな怒りの炎が心の中に灯る。
「馬鹿なのか?」
ドンドンは小さな目を数回、瞬きさせてから言った。
「馬鹿なのはお前のほうだ」
アベルの怒りはカッと燃え上がった。椅子を蹴り倒し、ドンドンに詰め寄る。
「お前はやっぱり、アリッサの子供じゃない」
続けてそんな事を言うドンドンの胸倉を掴んで捻り上げ、握り締めた右の拳を振り上げる。ドンドンは確かに魔術に対しては無敵だが、その力で拳は防げない。それでもドンドンは怯まずに話し続ける。
「僕がここに来たのは、ここにいるのは、僕の居場所はアリッサのいる所だからだ」
「なんだと?」
「分からないの? アリッサはここにいるんだよ。僕らのすぐ側に」
ドンドンは自分の言葉を微塵も疑っていなかった。その妄想が伝染したのか、ふいに気配を感じて振り返る。
開け放したままの扉の向こうに人影があって、アベルは目を見開いた。だが、それが鎧を纏った悪魔だと分かって、安堵する。
「今、用はない。消えろ」
アベルがそう命じると、悪魔は闇の中へ溶けるようにして姿を消した。
視線をドンドンに戻せば、ずっと胸倉を締め上げられていたせいか苦しそうに真っ赤な顔をしていた。鼻の穴を広げて口をぱくぱくさせ、目には涙を浮かべている。
その無様な顔を見てアベルは気が抜けてしまい、掴んでいたローブを離すとドンドンは床に手を付いて咳き込んだ。
「馬鹿なデブめ。苦しい思いをしたくなかったら、俺には逆らうな」
アベルはそう言い残して、ドンドンの部屋を後にした。
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