1.ステファン ―盟約暦1006年、冬、第7週―
ステファンは恐怖に全身を震わせて目覚めた。自覚はないが、叫んだかもしれない。
目の前にはマリーの顔があった。以前に助けてくれた時と同じく、不思議な言葉を呟きながら胸と左腕にそっと手を添えてくれている。マリーの触れている部分を中心にして皮膚が泡立ち、むずむずするような感覚はあるが、痛みは感じない。
少しの間ステファンは何があったのか、ここがどこかも思い出せず、呆然とマリーを見つめた。
それから自分が味方に揉みくちゃにされ、誰かに押し倒されて意識を失った事を思い出し、なぜブラックウォール城にいるはずのマリーがここにいるのかと疑問に思いながら起き上がろうとした。上体を起こしたところで眩暈に襲われ、頭を支える。
被っていたはずの兜は無く、右側頭部から頬にかけて血がべっとりと付いていた。血はすでに固まっていて、触れると土と一緒にパラパラ落ちる。これが自分の血なのだとしたら、マリーの白魔術が無ければ死んでいたに違いない。
(白魔術!)
ステファンは我に返って周囲を見回した。マリーのこの力が白魔術と呼ばれるものである事は、聖女軍と行動を共にしている間に偶然知った。そして帝国軍も聖女軍も魔法を憎んでいる。誰かに見られてはまずい――。
そこは、クライン川から敗走した聖女軍がブラックウォール城へと向かっていた道の途中であった。背後から帝国軍が迫ってきて、半狂乱になった人々にステファンは飲み込まれて意識を失ったのだ。
周囲にはたくさんの人が倒れている。声を出す者も身動ぎする者もいない。日没直後の薄闇の中、不気味に静まり返っている。
ステファンはほっとして、それからマリーに囁いた。
「魔法は駄目だよ、マリー。すぐに止めて」
首を左右に振ると、マリーは理解したらしく「止めて」とステファンの言葉を繰り返し、呪文を唱えるのを止めた。途端に、ずきんと鋭い痛みが左腕に走る。だがステファンはそれに耐えた。痛そうにすればマリーはまた魔術を使ってしまうかもしれない。
彼女は疲れた様子でぐったりとステファンに寄りかかってきた。魔術が彼女を消耗させたのかもしれないが、ステファンに本当の事は分からない。マリーを抱きとめ、耳元で問う。
「マリー、どうしてこんな所にいるんだ?」
「ステファン」と、マリーは答えた。
「俺を探しに来たのか?」
マリーは無邪気な笑みを浮かべている。
「ステファンと一緒」
一瞬、ステファンは嬉しさよりも怒りを感じた。しかし怒っても仕方ないのでため息で紛らわす。
ブラックウォール城から希望者が避難した時、ステファンとマリーも加わろうとしたが許されなかった。理由の一つはステファンがグスタフ公に対して軍役の義務を果たしていない事だが、それよりも決定的だったのはマリーがどう見てもエルシア大陸人だった事だ。拘束こそされなかったものの、聖女軍に留まるようにと命じられてしまった。
仕方なく、ステファンはマリーをブラックウォール城に残して、聖女軍と行動を共にしてきた。戦うのは嫌だったが、軍役の義務を果たせるし、なによりマリーを守っていると思えば我慢できた。
そんなステファンの想いを知ってか知らでか、マリーはブラックウォール城から出てきてしまったのだ。そのうえ、彼女を守っているはずのステファンがまたもや彼女に救われてしまった。
誰のために戦っていると思っているんだ――という苛立ちと、マリーを守れない無力感と、彼女を大切に思う気持ちが混ざり合ってステファンの心をかき乱す。
〝そんな時はな、口を閉ざすんだよ。何を言っても間違った言葉しか出てこないからな〟
賢い父の教えを思い出して、ステファンは黙ったまま立ち上がった。マリーの手を取って薄暗い道を歩き出す。地面に横たわるたくさんの死体にも、その臭いにも、もはや慣れつつあった。
もう少し進めば、城が見える――。
死体に躓かないよう注意して歩き、そして、遠くに城の明かりが見える所まで来た。
戦いが終わっているのは一目瞭然であった。
城門前には篝火がいくつも焚かれて、開かれた門が照らし出されている。そして、五つある尖塔の先にはアルガン帝国の旗が上がっていた。
(負けたんだ。籠城戦にすらならなかったんだ……)
ステファンはぼんやりと思う。
クライン川での戦いに負けたのは分かっていたので、再びブラックウォール城は籠城に入ったかと思っていた。その場合はもちろん、ステファンとマリーは締め出された事になる。だから城が落ちようが籠城していようが、二人にとって戻るべき場所ではなくなっていると分かっていた。ただ何となく確認したに過ぎない。
二人がいる場所から城まで連なる黒い影は死体だろう。ステファンは改めて周囲の死体を見た。ほぼ全員がうつ伏せで、背中を斬られて――あるいは突かれて――死んでいる。
帝国軍の追撃でやられたに違いない。この薄闇の中では見えないが、城の門まで続く死体の列もきっと同じだ。
恐怖で、ステファンはマリーの手をぎゅっと強く握った。
頭から血を流して気絶していたステファンは死んでいると思われたのだろう。馬に踏み潰されなかったのは、運が良かったとしか言いようがない。それにもしマリーが来てくれなければ、きっとそのまま死んでいた。
二人がこうして手を繋いでいられる奇跡にステファンは心から感謝した。そして二度と、この手を離すまいと誓った。マリーを守るためにマリーから離れてしまうという愚かな選択を、なぜ自分はしてしまったのか。
ぽつぽつと小さな灯りが現れ、死体の列に沿って動き出した。まだ生きている兵に止めを刺しているのか、死体から略奪しているのかは分からないが、やがて二人のいる所まで来るだろう。
ステファンは踵を返して、周囲の死体を漁り始めた。携帯食料や水、温かいマント、ナイフ、弓など役に立ちそうな物を鞄や袋に手当たり次第突っ込む。死体からめぼしい物を取るのは、聖女軍にいる間にすっかり手馴れていた。
大荷物を抱えてステファンは、黙って見ているマリーに手を差し伸べた。
「行こう、マリー」
マリーは頷いて、ステファンの手を取る。
「二人だけで暮らせる場所を探そう。俺は畑を作れるし動物の世話もできる。たぶん狩りだってできるようになるさ。二人だけの世界で暮らすんだ。他の奴らは好き勝手に殺し合っていればいい。あいつらの都合に付き合ってやる必要なんて無いんだ」
尋ねられたわけではないが、ステファンは口に出してそう言った。そうする事でより決心が強まるように思ったからだ。
「うん。ステファンと一緒」
言葉の意味を理解したとは思えないが、マリーはそう言って微笑んだ。ステファンにはそれで十分だった。
握った手に愛する存在の温かみを感じながら、ステファンはマリーを連れて死臭に満ちた世界を去った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます