13.フィリベルト ―盟約暦1006年、冬、第7週―

 突如として、聖女軍は崩壊した。

 何が起こったのかは、聖女軍の人々の叫びで知る事ができる。


「聖女様が死んだ」

「聖女は偽者だった」

「俺たちも殺される」


 ほんの一時間前まで、まるで死と無縁のような顔をしていた連中が恐怖に目を見開き悲鳴を上げながら逃げ惑う。


 その混沌の中でフィリベルトは苦渋に顔を歪めた。局地的には、勝利を目前にしていたからだ。


 フィリベルト率いるファランティア軍の騎士たちは、テッサニア軍の騎兵隊に対して互角以上に渡り合った。ファランティアの騎士にとって、三年に一度のトーナメントに参加するのは誉れであり、好成績を残せるよう武芸に励むのが一般的だ。フィリベルトのような名ばかりの騎士を除けば、騎士同士の戦いに関しては充分な訓練を積んでいる。むしろ馬上槍ランスを扱う技術はファランティア騎士のほうが優れていると言えよう。


 戦場に戻ろうとするテッサニアの騎兵隊をフィリベルトの部隊が足止めする作戦は成功していた。騎士たちは馬上で槍と盾を打ち合い、落馬してからは剣を抜いて戦った。


 両軍とも甲冑に身を包んでいるため、なかなか致命傷を与えられない。運悪く馬の下敷きになった者や、落馬して首や背骨を折った不運な者もいるが、倒れている者も半数以上は生きていた。全身甲冑に身を包んだ人間を剣で殺すのは困難なのだ。


 〝板金鎧プレートメイルの相手を剣で殺すなら、刃のほうを持って、こう、柄で殴り殺すつもりで頭を狙うんだ〟とは、ギャレットの教えである。


 倒れた者にとっては、味方がこの戦場を制するかどうかに命が掛かっている。味方が勝てば救助してもらえるし、負ければ止めを刺されるか捕虜になるしかない。アルガン帝国が捕虜を取らないことは知られているので、ファランティア騎士は自分と仲間の命のため必死に戦った。


 その甲斐あって馬上に残っている騎士はファランティア側のほうが多くなり、このままいけば勝てる、という状況で聖女軍の敗走が始まったのだった。


 主戦場から少し離れた下流で戦っていた騎士たちの戦場にも、川沿いを逃げてくる聖女軍の兵士たちが押し寄せてきて、戦場は混乱し、騎士たちは落馬しないよう馬を御するので手一杯になって戦いどころではなくなってしまった。


 その隙にテッサニア騎兵は後退し、倒れた騎士たちは敵味方の区別なく逃げる人々に蹴られ、踏み潰される。


「何をしている、戻って戦え!」


 フィリベルトがそう叫んでも、まったく意味がなかった。二〇〇〇人近い人々が一斉に恐慌状態になって走り出したのだ。フィリベルトが叫んだところで、嵐に向かって小石を投げるようなものだ。


 クライン川から味方が敗走する様をフィリベルトが見るのは二度目だが、その様子は一度目の時とまるで違う。前回はフィリベルト自身が撤退を指揮していて、兵士たちは混乱しながらもそれに従っていたし、脱出を支援してくれる味方の存在もあった。


 今回はただ、恐慌に陥った人々の混沌とした濁流に飲み込まれ、押し流されただけだ。


 散り散りになって逃げ出した人々はいつの間にか集まって長い列をなし、ブラックウォール城を目指していた。聖女軍やグスタフ公の軍、トーマス卿の軍などが一緒になって、下を向き、ぞろぞろと歩いている。


 混乱の内に、気付けばフィリベルトもその中にいて、どうする事もできず馬に揺られていた。


 フィリベルトはブラックウォール城に行っても助からないと知っている。雑多な聖女軍の人々を受け入れて再び籠城するなど考えられない。ブラックウォール城の門は全て閉ざされているはずだ。城壁の中には逃げ込めない。


 枝だけになった冬の木々の間を抜けて視界が開けると、緩やかに上下する茶色の土地の向こうに黒い壁のようなブラックウォール城が見えてきた。人々が城を指差しながら「もう少しで逃げ切れるぞ」というような事を口々に言い出す。


 そんな彼らをフィリベルトは侮蔑の眼差しで見ていた。あのまま戦い続けていれば、テッサニア騎兵を打ち破ったファランティア騎士が敵の本陣を攻撃できたかもしれない。そうすれば勝利の可能性もあった。背後から敵の本陣を突くなど名誉を損なう行為だが、自分だけなら甘んじて受けるつもりだった。グスタフやフランツの命と名誉を守れるなら大した代償ではない。それくらいの覚悟でもって挑んだ戦いだったのだ。


(それが、小娘一人死んだだけで――)


 ふと、ブラックウォール城の様子に違和感を覚えたフィリベルトは思考を中断した。城に目を凝らして違和感の正体に気付き、驚きの声を上げる。


「門が……門が開いているだと!?」


 そこへ、ペーターが馬を走らせてフィリベルトに追いついて来た。取り囲む人間が邪魔で近寄れないため、ペーターは苛立った様子で叫ぶ。


「フィリベルト様、敵の追撃がすぐそこまで迫っています。このまま門が開いていては――」


 彼の声はそれ以上聞こえなかった。追撃と聞いた人々が悲鳴を上げて他の人間を押しのけ、突き飛ばし、走り出したからだ。


 フィリベルトは決断した。

「どけ! どかぬ者は踏み潰す!」


 そう叫んで、馬を後ろ足に立たせると、人々をものともせずに走らせた。何人かに衝突したが、彼らがどうなったかフィリベルトは気にしないことにした。


 ずるい。馬に乗せて。自分だけ逃げる気か。卑怯者――そんな声を無視して逃げる人々の集団から飛び出すと、馬を全速力で走らせる。


 逃げ出した聖女軍を含む人々の先頭集団はすでにブラックウォール城へと到着していた。敗走した味方を収容するために門を開いてしまったのだろう。無人と思っていた野営地にも数人の人影が残っている。逃げ込むべき城とは逆方向に走る女とすれ違ったような気がしたが、そんな事を気にしている場合ではない。


 正門に向かって坂を駆け上がり、城内に入った。そこにはたくさんの人々が戦々恐々という様子で集まっていて、馬で飛び込んできたフィリベルトに何事かと目を剥く。


 その中から、鎧姿の騎士が飛び出してきた。

「父上!」


 フィリベルトはすぐに話したかったが息が切れていて声にならなかったので、フランツが近寄ってくるまで待たなければならなかった。


「フランツ、なぜ、門が、開いている?」


 息も絶え絶えに問うと、フランツは困ったように眉を寄せて答えた。


「お止めしたのですが、グスタフ公が味方に対して門を閉ざしたままではいられぬと……少しの時間だけでも開けと命じられたのです」


 フィリベルトは頭を巡らせて門塔を見上げた。


「門が閉まる気配はない。今、閉めなければ敵が来てしまうぞ」


「ええ。ですから様子を見に行くところです」


 そう言って門塔へと向かうフランツを、フィリベルトは馬体で阻んだ。


「私が行く。お前はグスタフ公のところへ。もう間に合わないかもしれん」


「グスタフ公のところへはギャレットを行かせてあります。まだ門が閉まらないのは何かおかしい。私も一緒に」


 フランツが手を差し伸べる。だが、フィリベルトはその手を乱暴に払った。


「門を閉めるくらいは、私にもできる。グスタフ公に必要なのはお前だ。早く行け!」


 問答無用と言い残して、フィリベルトは馬を門塔の入口に進めた。汗に濡れた馬体から滑り落ちるようにして下馬する。今日一日の疲れと、鎧の重さと、体力の無さで、前のめりに片膝を付いて強かに打った。鋭い痛みが膝に走る。


 フィリベルトは声にならない苦痛の声を上げて扉を掴み、立ち上がると、門塔の中に入った。


 一階にいるはずの衛兵が一人もいない。鍵掛けには鍵が一つもない。やはり何かおかしい。フランツが言ったとおりだ――フィリベルトは剣を抜き、予備の鍵が保管されている箱を調べた。そちらには鍵が残されていたので、念のため取り出してベルトに引っ掛ける。それから階段を上り始めた。


 門塔には屋上を除き三つの階があり、それぞれの階は長い螺旋階段で繋がっている。一階から二階に上がるだけで、今のフィリベルトには限界に近かった。


 二階からは城壁へと上がる通路に出られる。その扉は開いたままだ。部屋には椅子やテーブルなどもあって、探せば飲み物もあるだろう。ここで休んでいきたいという欲求をはねのけて、次の階段に足をかける。


 三階への螺旋階段の途中でもう、一段ずつ時間をかけて上らなければならない有様になってしまった。甲冑が重すぎるし、下馬した時に打った膝が尋常ではなく痛む。胸が苦しくて、息をするたびに喉が擦り切れるようだ。


 鎧を外すことも考えたが、中途半端に一部分を外すと返って重くなるし、全て外すには時間がかかる。そもそもフィリベルトは一人で全身鎧を着脱したことがない。


 汗が垂れて目にしみた。せめてヘルムだけでも外そうとしたが、篭手ガントレットをしたままでは上手くいかない。余裕の無いフィリベルトは無理やりヘルムをむしり取ったが、その勢いで手が滑り、剣を落としてしまった。長剣ロングソードヘルムは階段の上を滑って壁に当たりながら、盛大に音を響かせて落ちていく。ヘルムは転がって行って見えなくなったが、剣は一〇段ほど下で引っかかって止まった。


 たったの一〇段だが、取りに戻るという決断は今のフィリベルトには相当な気力が必要であった。戻るかどうかと迷っているうちに、螺旋階段の途中にある細長い窓から外の騒ぎが聞こえてくる。聖女軍の連中が逃げ込んできたのか、敵が入ってきたのかは分からない。


(急がなければ――)


 フィリベルトは剣は諦め、階段を上る。


 這うようにして何とか三階に辿り着き、扉に手をかけた。鍵が掛かっていて開かない。中に呼びかけたかったが息切れが激しく声が出ないので、どんどんと乱暴に叩く。反応が無い事と、上手く動かない指に、苛々しながら予備の鍵を使って扉を開いた。


 フィリベルトは朦朧として、思考は鈍く、眩暈がしていた。そのせいで扉を開けた瞬間にふらりとよろけてしまう。


 顔のすぐ近くで金属同士のぶつかる激しい音と火花が散った。肩甲ポールドロンの襟に何かが当たったようだ。


 それでもフィリベルトはぼんやりと部屋の中を見回した。


 正門の橋を上げるための大きな滑車は、橋を下ろした位置に固定されている。格子戸の止め具も押し込まれたまま――つまり開いた状態――である。部屋の片隅には衛兵が三人ほど積まれていて、ぴくりとも動いておらず死んでいるようだ。


 その他に生きている人間も三人いた。服装から農民兵のように見える。そのうちの一人がフィリベルトに向けて腕をまっすぐ伸ばしていた。何かを投げた後の姿勢だ。


 その男は舌打ちして、木の葉型の刀身をした短剣ショートソードを抜き、テーブルを回り込んで斬りかかって来た。その様子を呆然と見ていたフィリベルトだが、さすがにハッとして右腕を持ち上げる。


 再び金属のぶつかり合う音がして火花が散った。相手の振り下ろした剣は鎧われた腕で防げたが、衝撃が頭の芯まで届き、激痛が腕から全身に駆け抜ける。途端に思考がはっきりした。


 こいつらは敵だ。殺される――そう認識すると同時にフィリベルトは「うがあぁ!」と咆哮を上げてテーブルを相手側へひっくり返した。続いて激痛が、左足から全身を貫く。別の一人が手にした棍棒でフィリベルトの左足の膝を殴ったのだ。足が膝からくの字・・・に歪んでいる。


 反射的に、フィリベルトは左腕を横に振るった。次の一撃のために棍棒を振り上げていた相手は、それで踏み留まる。腕を振った勢いそのままに回転して回れ右すると、フィリベルトは扉から外に転がり出て、階段を落ちるように下って逃げた。


 戦場で敵に相対するのと、見知った場所で見知らぬ相手に襲われるのではまるで違う。恐怖が痛みを忘れさせ、フィリベルトは気が付くと城壁へと向かう通路の半ばまで来ていた。


 振り向けば、この通路に通じる扉は閉ざされている。施錠までしたかは覚えていない。そもそも扉を閉めた事さえ覚えていない。だが、とにかく、先ほどの男たちが追って来ている気配はなかった。


 その事に安堵した瞬間、痛みが蘇ってきて呻き声を上げながら通路に座り込む。左足は膝を砕かれてしまったようでぴくりとも動かないし、動かそうとすると頭の芯まで響くような激痛が走る。右腕の腕甲ヴァンブレイスはへこみ、装甲の隙間からは血がポタポタと垂れていた。こちらも痛いはずだが、左足が痛すぎて気にならない。


 頭上からは、城壁の上を走り回る人の足音がする。誰かを呼ぶ声や、命令するような声が遠くから響いてくる。戦いのような騒ぎが城壁の内側から聞こえるような気もした。だが、この通路には不思議な事にフィリベルト一人だ。


 門塔に敵がいると誰かに伝えねば――そう思って声を上げようとしても、激痛が全身を貫いて呻き声にしかならない。もはや左膝が痛いというよりも、痛すぎてどこが痛いのか分からない。


(あの木の葉の形をした剣はテッサニア人が使うものだ。きっと聖女軍の野営地に敵が紛れ込んでいたのだ。神よ、誰か遣わしたまえ。なぜ誰も来ない?)


 壁に背を預け、天井を見上げて喘いでいると、ふいに一人の兵士が城壁側から通路に姿を現した。見るからに農民兵という格好で、革を継ぎ接ぎした手製の鎧と帽子を身に付け、木の棒に鉄製の穂先を付けただけの短い片手用の槍に、盾代わりの木の板を持っていた。


 涙で滲んだフィリベルトの目には敵か味方か判別が難しかったが、味方だと思った。少なくともエルシア大陸人ではない。


(エルシア大陸人だと……何を考えているのだ、私は。もしここにエルシア大陸人がいたとしたら、むしろ味方ではないのか。聖女軍の……いや、今はどうなった?)


 痛みと熱が意識を朦朧とさせ、思考を散漫にしていた。


 農民兵は話しながら近寄って来る。


「こりゃあ、ミリアナ教徒の言う神ってやつを信じてもいいかもな。六神に祈っても、こんな機会を与えてはくださらなかった」


 そして農民兵はフィリベルトを見下ろすように、眼前に立つ。


 貴族に対する無礼な態度をフィリベルトは許してやった。今はそれどころではないからだ。痛みに怯えながら恐る恐る小さく声を出してみると、話せそうだった。


「お前……フランツを、いや、誰でもいい。誰か騎士を呼んでくれ……今すぐに。褒美をやる。今すぐに……」


「いや、褒美は今貰う」

 農民兵はそう言って、槍の柄でフィリベルトの砕かれた膝を叩いた。


 フィリベルトは絶叫した。これほどの痛みは味わった事がなかった。意識が明滅するように途切れ途切れになる。その狭間で、突然はっきりと、その農民兵が誰なのか思い出した。


 鞭打ちの刑に処した、あのデニスだ。


「うるっせぇなあ、いたぶってやりたかったが、これじゃ人が来ちまう。のんびりしていられねぇな」


 デニスは粗末な槍を持ち上げて両手で構え、穂先をフィリベルトに向ける。


 待て、やめろ――そう言ったつもりだったが、声になっていたかどうか自分では分からなかった。


 突き出された槍はフィリベルトの右目を貫き、穂先は脳にまで達した。


 ガクガクと全身を小刻みに痙攣させ、最後にびくんと大きく跳ねてから、フィリベルトは死んだ。

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