11.ジョン ―盟約暦1006年、冬、第7週―

 やっぱり、これは駄目だな――と、ジョンは聖女軍を諦めた。


 まだ一度も敵と戦っていないので、白衣は汚れておらず、翼のような飾りの付いた剣もぴかぴか光っている。だが、この戦いはもう終わりだった。


 ジョンたちのいる本陣はマイルズ率いる帝国兵部隊に守られている。その帝国兵部隊がテッサニア軍の歩兵部隊を止めたように見えるが、こちらの動きを止めて前線を維持するために止まっただけである。


 ジョンには指揮官としての知識も経験もないが、土手の上から見ればそれは明らかだ。テッサニア軍の両翼が包囲を狙って幅を狭めてきている。


 ジョンは素早く戦場を見渡した。テッサニア軍の左翼部隊は被害が少ないが、右翼部隊は聖女軍のクロスボウ部隊によって被害を受けて戦列が崩れている。そちらを突破して逃げるしかないだろう。


 どすんとジョンの馬に味方が当たった。迫ってくるテッサニア軍左翼に、味方が押されて後退しているのだ。


(くそっ、邪魔だなぁ)


 心中で毒づき、ジョンは背後を振り返る。

 クララはまだ本陣の旗の下にいた。すぐ隣にはマイルズがいて、味方に指示を出している。


 ジョンは戦いの様子を見るために少し離れていたが、戻る判断が遅かった。周囲はすでに雑多な味方が溢れている。無理に馬を動かせば味方を踏み潰してしまう。


 それにクララを連れて逃げるにしても、どうすればいいかまでは考えていなかった。味方を踏み潰してでも馬で駆けつけてクララを乗せて走り去ってしまえばいいかもしれないが、万が一、聖女軍が生き残った場合にどうなるか考えると面倒な事になりそうである。


(あの狂信者どもに追い立てられるのはご免だな)


 ジョンは再び前線を見た。


 このまま乱戦になるのを待って、どさくさに紛れて逃げるのが一番だが果たしてそうなるだろうか。しかしジョンには他に良い方法が思いつかなかったので、思い切り息を吸い込んで大声を張り上げる。


「前進、前進! 敵を突き崩せ、後ろには聖女様がおられるぞ、聖女様がおられる限り我々に負けはない。我らは聖女様の剣だ、打ち破れないものなどない!」


 ぴかぴかの剣で敵を指し示すと、周囲の味方が「おうっ」と声を上げて答えた。


(こいつらが何人死のうが構わないが、とにかく盾の壁に穴を開けて乱戦に持ち込まないと……)


 ジョン自身も周囲の味方と共に少し前進せざるを得なくなり、移動しながら横目にクララの様子を見る。殺戮の興奮を前にして今にも飛び出しそうな顔をしている。


 そこにいてくれよ――と、心の中で呼びかけて再び前方を向いた時だった。


 甲高い指笛のような音が微かに聞こえた。

 続いて、黒い影がシュッと頭上を過ぎる。


 それが鳥の影などではないとジョンには直感的に分かった。まるで自分に向けて矢を射られた瞬間のような、ぞくりとした不気味な感覚に身がすくんだからだ。


 戦場の騒音の中では太矢クォレルが刺さる音は聞こえなかった。振り向くと太矢クォレルはクララの足元に突き立っている。


 ジョンはぞっとした。


 角度を付けて撃ち上げられた太矢クォレル板金鎧プレートメイルを撃ち抜く威力はないが、革鎧レザーアーマーくらいなら貫通するだろう。そして、それは流れ矢などではなく、明らかにクララを狙ったものだ。


 ジョンは自分が的になってしまうかも、落馬するかも、などとは考える余裕もないまま馬の背で立ち上がった。


 敵左翼の中に一人だけ片膝を付いてクロスボウを構えた兵士がいる。その兵士は撃ち終えたクロスボウを構えたまま、微妙に向きや角度を修正した。隣にいる兵がそのクロスボウを取り上げ、装填済みのものを固定した腕に乗せる。兜の鍔の下で光る目には確信があった。


 ジョンの背後でマイルズが勝ち誇って叫ぶ。


「見よ、いかなる矢も聖女様を傷つけることなどできぬのだ。聖女様を信じぬ盲目の徒よ、その目を開いて今こそ見よ!」


 敵中の奇妙な兵士はゆっくりとクロスボウの発射レバーを引いた。ジョンにはその発射音が聞こえたような気さえした。


 振り向くと、マイルズは両手を広げて自らの言葉に陶酔している。

 ジョンは叫んだ。


「ばかやろう! クララの盾になれ!」


 マイルズは、「えっ?」というような顔をした。


 戦場の騒音の中で音も無く、太矢クォレルはジョンの頭上を通り過ぎ、そして孤を描いてクララの胸の中に入っていった。その一瞬が、残酷なまでにゆっくりと、ジョンには見えた。


「クララァッ!」


 ジョンは叫んで馬から飛び降りた。味方の上に落ちて、押し倒したが気にしない。邪魔な連中を突き飛ばし、避け、壇上に跳び上がる。


 クララは胸から太矢クォレルを生やして倒れていた。白い革鎧の下の、白い服が血で赤く染まっていく。


 その様子を、信じられないという顔でマイルズが見ていた。


 ジョンはクララに駆け寄って、その小さな頭を支えて持ち上げる。つうっ、と口元から血が流れた。


「う、嘘だ……嘘だろ、クララ。そんな……こんなところで……俺たち、まだこれからたくさん……ううっ」


 クララの身体からは血が、ジョンの瞳からは涙が溢れ出す。


「君は俺の自由な世界。君は俺の殺戮の女神――」


 ほとんど嗚咽のような声で呟きながら、クララの顔を見て、ジョンは言葉を失った。


 うっすらと目を開けたクララの顔は、彼の愛した殺戮の女神などではなかった。ジョンが初めて会った時の、ただの農場の娘だった。


「ジョン、ありがとね……」

 クララはか細い声で言った。


「私、いっぱい、かたき、討てたから……ジョンのおかげ――」


 クララの口から、まるで泉から湧き出る水のように、ごぽり、と血が溢れた。

 全身をビクビクと痙攣させ、苦しそうに目を閉じる。


 最後に何を言おうとしたのか、潤んだ瞳で、血が溢れ出るだけの口を数回パクパクさせて、クララは動かなくなった。


「クララ……なんでだよ……」


 落ちたジョンの涙が、クララの最後に流した涙と混じり合う。


「なんでそんな……満足したみたいな顔をして……まだまだ殺したりないんじゃなかったのかよぉ……」


 クララは満足げに、笑みを浮かべて死んでいた。

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