10.トーニオ ―盟約暦1006年、冬、第7週―
トーニオは歩兵の中にいた。三列になったテッサニア軍の、二列目の左翼である。すぐ隣には騎兵隊がいるので、興奮し始めた馬の嘶きや足踏みの音がうるさく、落ち着かない場所だ。時々、馬に押された兵士が不満げに鼻を鳴らしたりもする。
最前列の向こうでは帝国旗が行ったり来たりしているので、ロランドが何か話しているのだろうが、ほとんど聞き取れなかった。むしろファランティア軍の中に作られた壇上にいる男の説教のほうがよく聞こえる。
男の説教は帝国語なので、無視しようと思えば無視できた。テッサニアも今や公用語は帝国語だが、堪能でない者も多い。何を言っているのか分からない者もテッサニア軍にはいるだろう。
テッサニアでも、ミリアナ教の布教は熱心に――はっきり言えば、ほとんど強制的に――勧められてきた。町には教会もあるし、休息日の午後を教会で過ごす信者も増えている。それでもテッサニア人にとっては、あくまで〝新しい考え方〟に過ぎない。
だから、敵の説教はそれほどテッサニア人の心に響かなかった。聖女への信仰心よりも、それ以前からあるテッサ王家への忠誠心のほうが勝っていたとも言えよう。
今回従軍しているのは厳密に言えばテッサニア軍というよりテッサ軍というほうが正しい。ずっとロランドに付き従ってきた軍隊なのだ。
トーニオは鍔付き兜を目深に被り、口元を覆う布を引き上げた。ここにはエリオの顔を知っている者も多い。無用な混乱や詮索を避けるためだ。
その他の装備も一般的な歩兵と変わらないが、野外活動する斥候のような
時々ちらりと視線を送ってくる者もいるが特殊な任務を与えられた部隊だと判断したのだろう、詮索までしてくる者はいない。
前方で兵士の頭の上を行き来していた旗の動きが止まった。もうすぐ戦いが始まるのだ。
戦場に出るのは久しぶりなのでトーニオもさすがに緊張していた。もっとも、それは自分が死ぬかもしれないからではなく、任務を全うできないかもしれないという不安からだ。
戦場で生きるか死ぬかは運次第だと言う者もいるが、実際には単純に装備の良し悪しで決まる。重装騎兵が着ているような全身を覆う甲冑はそのために作られたので当然だが、ほとんどの武器に対して有効である。怪我をさせるくらいはできても即死させるのは難しい。
殺そうと思ったら中身がぐちゃぐちゃになるまで頭部を何度も鈍器で殴るとか、動けなくなったところで
唯一の例外は帝国製のクロスボウだが、それでも急所に当たらなければ即死には至らない。しかもエルシア大陸で普及し始めた新しい甲冑は矢を逸らしやすくするため装甲に角度を付けていて、ファランティア騎士の着ている甲冑よりも優れている。
ロランドが着ているのはまさにそうした鎧で、同じように完全武装した騎士に守られてもいるからあまり心配はしていない。
トーニオは、と言えば歩兵の基本的な装備である鉄製の鍔付き兜と
嵐の前の静けさ、とでも言うべき一瞬の空白があって、帝国旗が大きく左右に振られた。ほぼ同時に戦闘開始の角笛が響き渡る。仕掛けたのはテッサニア軍からだった。
クライン川は歩いて渡河できるような浅くて穏やかな川だ。とはいえ冷たい水の流れる滑りやすい川の中に陣取る必要もない。テッサニア側のクロスボウ部隊は川の手前で隊列を整えた。
その間に、聖女軍の元帝国兵部隊も隊列を組んでクロスボウを構えていた。土手の上から一射目が放たれる。
強力な帝国製クロスボウの聞き慣れた発射音が響き、
自分が指揮官だったら今の一射は撃たせなかっただろう。それでも聖女軍のクロスボウ隊が訓練された帝国兵である事に違いは無い。素早く距離を詰めて二射目を放ってきたので、テッサニア軍のクロスボウ隊も応射する。
バババンと発射音が重なり、恐るべき
その後の対応も両者似たような動きだった。負傷あるいは死亡した味方を後方に引きずり戻し、別の兵士が前に出て隊列を維持する。
どちらも同じ帝国兵士として、同じ訓練を受けてきたのだから当然ではある。
両軍はクロスボウの撃ち合いを続けた。射手への被害は
(歩兵にとってはこの時間がもっとも苦痛だと、誰かが言っていたな)
ふと、トーニオの頭の隅で思い出が蘇る。
まだエリオだった頃、テッサニア統一のためテッサ軍に従軍していた頃の事だ。顔は思い出せるのだが、名前までは思い出せない男がこう言っていた。
〝次は自分が悲鳴を上げる番かもしれない。次の命令で、自分は死地に飛び込まなければならないかもしれない。死ぬ順番を待っているような気分になる。恐怖に負ける前に、いっそ敵の中に飛び込んでしまいたい。そんな気分になるんだよ〟
兜の鍔の下から周囲を見ると、歩兵たちは確かにそんな事を考えていそうな顔をしている。だが、誰一人として隊列を乱すような者はいない。テッサニア軍は統制の取れた軍隊なのだ。
しかし、敵軍は違ったらしい。
突然、わっという声を上げて聖女軍の一部が土手を駆け下り始めた。統一感の無いでたらめな装備で一見して農民兵だと分かる動きだ。武器を振り上げ、目を見開き、大口を開けて、恐怖に駆り立てられた顔をしている。
そんな鬼気迫る表情で不意打ちされたら驚くかもしれないが、ここは戦場だ。相手は身構えている。
角笛が三度響いて、テッサニア軍の騎兵隊が一斉に駆け出した。突出した敵の歩兵に突撃を仕掛けたのだ。
聖女軍のクロスボウ隊は、このまま応射し続けるべきか騎兵を狙うべきかで迷ったのだろう。それまでほぼ同時に撃ち合っていた両軍のクロスボウ隊だが、聖女軍の射撃が遅れた。その隙を突いてテッサニア軍のクロスボウ部隊が
駆け出した騎兵のほうは突出した敵集団に突入した。人馬の声や様々な音が混じり合って戦場の騒音を作り出す。
テッサニア軍の騎兵隊は敵部隊を突き抜け、川岸に沿って離脱して行った。馬首を返してもう一度突撃するはずだ。
これをきっかけにして、両軍が動いた。
聖女軍の雑多な兵士の集団が、味方を助けるつもりなのか、声を上げて土手を下り始める。隊列を維持していた聖女軍の帝国兵部隊も、それに引きずられるようにして前進を始めた。
テッサニア軍に角笛と太鼓の音が響く。全軍前進の合図である。
トーニオの紛れている歩兵部隊は
味方の歩兵と共に前線近くまで移動していたトーニオも突撃に備えて身構えた。護衛に囲まれているし、トーニオの位置まで突き破られるとは思わないが、戦場では何が起こるか分からないものだ。
死ぬのは構わないが任務を果たせなくなるのは困る。周囲を犠牲にしてでも自分は何とか生き延びなければならない。
だが、ここで意外な事が起こった。
ファランティアの騎士はテッサニア軍の本隊に突撃して来なかったのである。彼らは向きを変えて、方向転換を終えたばかりのテッサニア軍の騎兵隊に向かって行く。
これはロランドも予想外だったに違いない。少しの間があって、再び太鼓が叩かれた。歩兵たちは構えを解いて立ち上がり、
そして両軍の歩兵が接触して、殺し合いが始まった。
武器と盾の激突する音、怒号と悲鳴、そして血しぶきが上がる。この最初の衝突で崩れたのは聖女軍のほうだ。
テッサニア軍の前衛はぴったりと
テッサニア軍はゆっくりと前進を続けた。敵の前衛が柔らかいからと言って前進速度を上げれば討ち漏らす敵も出てくるし、横一列の隊列に歪みが出る。そこから敵が自軍に入り込んで乱戦になってしまうのを避けるためだ。乱戦になってしまうと、訓練された兵士であっても勢いだけの暴徒に殺されてしまう事もある。
聖女軍は技量も装備も戦い方も、てんでバラバラだった。帝国軍から奪った装備一揃いを身に着けている者もいれば、一部位しか身に着けていない者もいる。武器も騎士が使うような立派な
中には正規の訓練を受けたであろう近衛兵や、馬に乗った騎士らしき者まで混じっている。そうした敵の一団にぶつかれば、そこを打ち破るまで全体の前進が止まった。
テッサニア軍は優位に戦闘を進めたが、まったくの無傷というわけではない。
最初の射撃戦でクロスボウ部隊は両軍ともに傷ついた。聖女軍に混じっている騎士たちは馬上から
頑丈な甲冑に身を包んだ徒歩の騎士や近衛兵が
予想より早く接近戦になってしまったため、生き残った聖女軍のクロスボウ部隊によってテッサニア軍の右翼が攻撃を受け、被害が出ていた。前面の敵を横一列の盾で防ぐ隊列は乱戦状態と違って敵味方がはっきり分かれているので、ほぼ水平に飛ぶクロスボウの
洪水のように押し寄せる戦場の音の中で、トーニオは味方の部隊に押されながら一緒になって進んでいた。味方の兵士と盾の隙間から、敵軍の様子に鋭い視線を向けている。
やがて血に染まったクライン川を渡りきる前に、テッサニア軍の前進が止まった。聖女軍の本隊とも言うべき帝国兵部隊と接触したのだ。
トーニオの紛れている左翼部隊は予定通り、包囲網を形成するために角度を付けながら素早く移動を始める。右翼部隊も同様に動いているはずだが、そちらがどうなっているかまでは分からない。
トーニオは自分の任務に集中していた。そして、ひしめき合う味方と敵の隙間から一瞬だけ白いものが見えた。トーニオの目は目標を見誤らなかった。
指笛を吹いて鋭い音を出すと、それに気付いた護衛の兵士たちが味方を強引に押しのけてトーニオが仕事をするための空間を作る。移動中の味方の兵士たちが文句を言いながら、小さな円陣を作っているトーニオたちを避けて行った。
血に染まった冷たい川の水を気にも留めず、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます