9.ジョン ―盟約暦1006年、冬、第7週―

 冬のよく晴れた寒い日に、クライン川を挟んで再び両軍は対峙した。


 北にファランティア王国軍、南にアルガン帝国軍というのは変わらないが、両軍の内実は前回と異なっている。


 ファランティア王国軍の前衛は聖女軍であり、その主力は聖女に帰順した帝国兵だ。小麦色の肌をした人々であり、前回はクライン川の南側で帝国軍として戦った兵士たちである。


 彼らの作る見事な隊列を中央に、聖女軍に属するファランティア人たちが見様見真似の隊列で両翼を形成している。


 聖女軍の後ろで第二陣を作っているのが、ブラックウォール城の軍とキングスバレーから来た援軍の歩兵たちだ。人数的には聖女軍の二倍近いので、敵からは主力に見えるかもしれない。


 しかし、あくまでも聖女軍が主力だという意識は敵味方共にあるはずだった。ブラックウォール城を解放し、アルガン帝国軍をクライン川の向こうまで押し返したのは聖女軍だと認めない者はいない。


 実際、ファランティア騎士を集めた重装騎兵隊も最後列に控え、聖女軍に従っているかのように見える。


 対するアルガン帝国軍は、軍衣サーコートに描かれた紋章も装備も前回同様だが、それを着ているのはテッサニア人だ。ファランティア人よりも日焼けしているものの、同じテストリア大陸人である。


 この状況を皮肉なものだと見る者もあるだろうが、ジョンにとってはそれほど奇妙な事ではない。彼のいた戦場では肌の色で陣営が決まるわけではなかった。


 ジョンは馬に乗って、聖女軍の中央にいた。身に着けている鎧は地味だが自分の体格に合ったもので、サウスキープの衛兵だった頃の装備に似ている。頭から胴体まで覆い、裾は膝まで達する鎖帷子チェインホーバークを着て、膝から下は鉄製の脛当てグリーブ、腕は腕甲ヴァンブレイスで守られている。左肩用の肩甲ポールドロンには、首を守る鉄製の襟が立っていた。


 鎧の上から着ている袖なしの聖衣は白地で、ミリアナ教のシンボルが描かれている。ジョンにとってはどうでもいいことだが、白い衣装は聖女か使徒しか身に着けられないものだ。


 隣には馬の背中より少し高い位置になるよう組み立てられた台があって、その上にミリアナ教の旗と聖女クララ、それに司教を自称するマイルズの二人が立っている。


 クララはいつもどおり、白い服の上から白い革鎧レザーアーマーを身に付け、白いマントを着けていた。北風にマントがひるがえれば、腰に下げられた細身の剣と手足の白い肌が露出する。それを目にするたび、戦いを前にした興奮とクララへの情欲とがジョンの中で混じり合う。


 壇上にいるクララの横顔はこれから始まる殺戮への期待に狂喜していた。目を見開き、口元には恍惚とした笑みを浮かべている。ジョンの愛する彼女の顔だ。


「聞け、ミリアナ教の信徒たちよ!」


 壇上でマイルズが両手を広げて声を張り上げた。その声は北風に乗って、クライン川の向こうにいる帝国軍にも届いているだろう。


 またいつもの演説が始まるな――と、ジョンはうんざりした。


 しかし、この演説によって帝国兵の戦意が低下するのは間違いない。それはつまり殺し易くなるという事であり、クララにとって良い事であるから、ジョンはいつも神妙な顔をして黙っている。


「かつて神は聖女ミリアナ様を地上に遣わした。聖女様は稲妻と共に邪悪を打ち滅ぼし、我らを救い、そしてこう申された。〝人間に魔法は必要ない。人間は自らの手で世界を作ってゆける〟と。我ら帝国の民は聖女様のお言葉を体現する聖なる民である。全ての帝国兵はそのための聖兵でなければならぬ。だが此度のファランティア侵攻はどうだ。ファランティアに魔獣はいない。ファランティアの民は魔獣でも魔術師でもない。彼らは一〇〇〇年の間、魔術とは無縁だった。むしろ、魔術と最も縁遠い人々ではないか!」


 そこでマイルズは一旦、言葉を切った。聖女軍の帝国人たちは頷いたり、ぐっと顎を引いたりして決意を新たにしている。彼らの士気が高まるのを、ジョンは肌で感じた。対して敵軍はどうか、とジョンは川向こうに視線を向ける。


 敵軍の前を見事な甲冑に身を包んだ騎士が三人、馬に乗って行き来している。三人のうち一人は旗持ちで、もう一人は盾持ちである。


 その二人に挟まれている者こそ、敵軍の指揮官であろう。その鎧は一切の装飾がない実用的なもので、一見ただの騎士に見える。身を飾らず、権威を誇らない帝国軍指揮官といえば思い浮かぶのは一人しかいない。


(まさか、テッサニアのロランドか!?)


 ジョンは目を見開いてもっとよく見ようとした。目の前にいるのがテッサニア軍で指揮官はロランドだと分かっているが、最初の会戦を自ら指揮するとは思わなかった。ロランドはもっと、もったいぶって出て来る人間だというのがジョンの印象だった。


 ロランドと思しき男は自軍に向けて何か話しているようだったが、背後から吹く北風はその言葉をジョンに届けてはくれなかった。再びマイルズが大声を出したので、耳を澄ませていたジョンは顔をしかめて思わずを睨む。


「この戦いに大義はない。アルガン帝国は、いや皇帝レスターは道を誤った。その証拠に、神は再び聖女様を遣わされた。雷鳴と共に現れたこの御方こそ、聖女ミリアナ様の再臨である。神を信ずる者は今すぐ帝国の印を捨てよ。帝国に従うならば、聖女様の裁きを畏れるがよい。聖女様には、いかなる刃も矢も届かぬと知れ!」


 マイルズの狂信的な熱狂が伝播していく中で、ジョンは壇上のマイルズを睨んだまま思う。


(〝いかなる刃も矢も届かぬ〟わりには、がっちがちに鎧を着込んでるじゃねぇかよ)


 マイルズは帝国士官らしく鍛えられた立派な体格をしている。板金鎧プレートメイルに身を包み、その上から司教のローブを着ているので、いつも以上に大きく見えた。ローブの下には見るからに凶悪そうな、先端に棘がいくつも付いた槌矛モーニングスターを隠し持ち、足元には鉄製の大盾タワーシールドも用意されている。帝国製のクロスボウでも近距離から撃たれなければ防げそうな重装備だ。


 もしかするとマイルズ自身は加護の対象外なのかもしれない。だとしたら神の力というのも大したこと無いなとジョンは思った。人間の魔術師でさえ、一人を矢から守るくらいはできる。


 ジョンは再び視線を敵軍に向けた。


 敵軍の兵士に、マイルズの言葉で動揺した様子が無い。いつもなら明らかに動揺しているのが見て分かるのだ。そしてその動揺が周囲に伝播していくのを見計らって戦いを始めるのが常だった。


 帝国に併合されてテッサニア人もすっかりミリアナ教徒になったと思っていたが、そうでないなら――これは普通の戦いになってしまう。


(まずいな……)


 不安になって、ジョンは周囲を見回した。


 数だけ比べれば、両軍ともに四五〇〇人前後と大差ない。騎兵の数ではファランティア王国軍のほうが勝っている。だが、ファランティア軍と聖女軍の足並みが揃っているとは言い難い。


 聖女軍で統制の取れた部隊はマイルズ指揮下の元帝国兵だけだ。他はただの武装した農民と聖女軍に身を置くと決めた元騎士や近衛兵である。言ってしまえば烏合の衆だ。彼らに戦術的な動きなど求めようもないし、求めた事もない。


 テッサニア軍の布陣は特殊な戦術を用いるようには見えない。ジョンの経験から言えば普通の、帝国軍の基本的な陣形だ。しかし当然、統制の取れた戦術的な動きをするはずである。もしロランド本人が指揮しているなら、なおの事だ。


(気付いているのか、マイルズ)


 ジョンは壇上を見上げた。


 マイルズは両手を広げたまま天を仰いで陶酔している。ジョンの視線には気付いていないか、無視しているかのどちらかだ。壇上に飛び乗ってマイルズを小突いてやりたくなったが、そんな行動に出れば味方に混乱を引き起こすのは目に見えている。


 だから、〝まあ、いいか〟と思う事にした。


 これはただの遊びだ。クララさえ生きていればいい。いざとなれば彼女を連れて脱出し、二人きりだった頃に戻るだけだ――。


 そう思うと、この戦いの結果など途端にどうでもよくなって、ジョンの心は軽くなった。

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