8.フィリベルト ―盟約暦1006年、冬、第7週―
フィリベルト・フォーゲルは子供の頃、自分の父は商人なのだと思っていた。
実際、何人かの商人が屋敷に出入りしていたし、父はいつも机で書類と格闘し、金勘定をしていたからだ。領地を経営するという仕事は、子供の目には商人と同じく映った。
自分が当主になってからその事を思い出し、あながち間違いでもなかったと一人苦笑した事もある。
フォーゲル家の近衛兵であるペーターに身支度を手伝ってもらいながら、なぜ今そんな事を思い出したのかとフィリベルトは不思議に思った。
そしてペーターからずしりと重い剣を受け取って、丸い腹の下に吊るしながら、この腹のせいかもしれぬ――と思った。
フィリベルトの体型は騎士や戦士というより、裕福な商人と言ったほうが相応しい。中年太りでぽっこりと腹が出ている。領地を継承するにはベッカー家から騎士に叙任されなければならないから、武芸も一通り学んだが、それはあくまで騎士という称号を得るために必要だったからに過ぎない。
当時のフィリベルトは、騎士になるための訓練を勉学の一部みたいに思っていた。そして実際に、領地経営で自身の武芸が役立った事はこれまで無かった。小さな橋の優先利用権を巡って争う領民がいても両者の間に割って入って叩きのめしたりしないし、追い詰めた盗人と刃を合わせる事もないし、猪や狼を退治した事もない。
これまでは――戦争が始まるまでは――フィリベルトの領地経営は安定していた。悩みと言えば、一人息子のフランツが剣で身を立てるなどと言って身を固めようとしない事だけだった。フランツの他に男子があれば、それを許してやれたかもしれない。
フィリベルトの妻カリーナはフランツを産んですぐに病となり、翌年の夏に死んでしまった。周囲は再婚を勧めたが、フィリベルトはあまり乗り気でなく、その期は逸した。だが、それで良かったと思っている。領地の継承でフランツに余計な面倒をかけずに済んだからだ。
フランツは武芸に優れ、頭も良い。その気になれば、すぐに領地経営も理解してフィリベルト以上の領主になるだろう。
竜の葬儀で王都に赴く時フランツは領地に残ると言った。この事態を想定していたわけでは無かったろうが、〝衛兵隊長として砦を離れるわけにはいきません〟という理由で、だ。
フィリベルトはフランツを自分の跡継ぎとして王都に連れて行きたいと思っていた。領主としても騎士としても忠誠心は何より大切なものだし、王や他の貴族たちに顔を売っておくに越した事はないからだ。
その事をグスタフに相談した結果、ゴットハルトがサウスキープに残る事になり――そして、フィリベルトは領地を失って、グスタフは末の息子を失った。
この事で面と向かってフィリベルトを非難した者はいない。フィリベルト自身、全ての責任が自分にあるとは思っていない。しかし任された領地と、そこに住む領民の多くを失ったのは事実である。
フィリベルトは自室を出てペーターを伴いグスタフの部屋に向かった。窓は閉められているが石造りの壁は冷たく、廊下は寒い。濁ったはめ込みガラスからぼんやりした光が差し込んでいる。東方製のものと違い、透明度が低く、でこぼこしたガラスは今から一〇〇年以上前のファランティア製だ。外の景色はガラスの中で歪んで滲み、視認するのは困難である。
廊下の角にはもう一人フォーゲル家の近衛兵が立っていた。ずっと立っていたわけではなく、フィリベルトが部屋を出た気配を察して立ち上がったのだろう。足元には三本脚の小さな腰掛けが置いてある。
フィリベルトが通り過ぎると、その近衛兵も付いてきた。
着込んだ甲冑の音を廊下に響かせ、二人の近衛兵を伴い、フィリベルトは歩いて行く。
部屋に侵入者があったと分かった時からフランツは一層の警戒を求め、常に二人以上の近衛兵を近くに置かせた。そして、城内であっても普段から甲冑を着るようにと進言してきた。
フィリベルトは父親であり、立場上もフォーゲル家当主であるから、その進言を退けるのは容易い。しかしフィリベルトは息子の言葉に従った。父親を心配する息子の情を酌んで、と言うより、フランツの判断を信頼しているからだ。
グスタフの部屋の前には二人、廊下の左右の角にはそれぞれ一人ずつ、合計四人の近衛兵がいた。この厳重な警備は表向き、アルガン帝国の暗殺者に対する警戒のためとされている。先王テイアラン四九世も、彼の〈王の騎士〉ステンタール卿も暗殺されているのだから、もっともな理由である。だが実際には、帝国の暗殺者よりも城内にいるファランティア人のほうを警戒しているのだった。
フィリベルトの姿を確認したベッカー家の近衛兵は扉の前を空ける。
「フィリベルトです、陛下」
扉をノックして呼びかけると、中から「入れ」とグスタフの返事があったので、フィリベルトは少し戸惑った。このまま軍議に向かうものと思っていたからだ。
「入ります、陛下」
そう言いながらフィリベルトはグスタフの部屋に入った。寒風が、後ろに撫で付けた白髪を持ち上げて首筋に触れ、ぶるっと身震いさせる。
グスタフはすっかり準備を整えて、全開にした窓から外を見ていた。扉を閉めると、手で〝こちらに来い〟と命じる。
フィリベルトは部屋を横断して、グスタフから一歩下がった位置に立った。
「ヴィルヘルムはなぜ戻って来ないと思う?」
グスタフはいつもの厳格な命令口調ではなく、また、部屋に響くほどの大声でもなく、寒風に紛れそうな声で問うた。
フィリベルトは少し考えてから答える。
「おそらく、自分はこの城を継ぐに相応しくないと思っているのでしょう」
「脚が動かんからか?」
「それもあるでしょうし、クライン川での敗戦もあるでしょうし……」
フィリベルトはその先を言うべきかどうか迷って、言葉尻を濁す。
「言ってくれ、フィリベルト。遠慮はいらん」
本当に気付いていないのか、気付かないふりをしているのか、フィリベルトには分からなかった。だがここで口をつぐむ事は、長年の忠誠と友情が許さなかった。
「……自分が城主の器ではない、と気付いてしまったのでしょう。ヴィルヘルムは負けん気の強い青年で向上心もあった。よく当家を訪れてはフランツと一緒にギャレットへ挑んでいたのはご存知でしょう。おそらく、戦場であの男の真価を見て、自分がそこに到達できないと気付いたのです。私も戦場でギャレットの戦いぶりを見たので、よく分かります。そして城主としてはグスタフ様、貴方を目標にしていた。それは誰の目にも明らかです。しかしヴィルヘルムは貴方にもなれなかった」
サウスキープから避難民を率いてギャレットが戻って来た日、彼の口からゴットハルトが単身残ったと聞いてヴィルヘルムに負けず劣らず――いやそれ以上に――グスタフも衝撃を受けたはずだった。しかしグスタフは、人前ではその感情を抑えて威厳を保った。だがヴィルヘルムは感情を抑えきれず、ギャレットに憎しみを向け、わめき散らした。そこに人物としての格の違いを見たのはフィリベルトだけではないだろう。
〈クライン川の会戦〉でもそうだ。あの戦いを勝てたとは思わないが、ヴィルヘルムが自らを律してギャレットの進言を聞いていたなら、もう少し違う結果になっていたかもしれない。
グスタフは窓枠に手を付いて、うなだれた。
「わしが追い詰めてしまったのだろうか……」
むしろ、ヴィルヘルムが勝手に追い詰められたと言うべきだろう――と、フィリベルトは思ったが口には出さなかった。
南部総督にしてブラックウォール城の厳格な城主、そして現テイアラン女王の実父でもある彼がこのような姿を見せる相手はほとんどいない。生きている人間ではフィリベルトだけになってしまったかもしれない。
友人としての贔屓目を差し引いても、グスタフほど君主に相応しい人物はいないとフィリベルトは思っている。もし彼が国王であったなら、と思わずにいられない。
しかし、そんな彼でも完全無欠ではない。グスタフの弱点は三人の子供たちだ。親になった瞬間から、彼の人生の全ては自分のものではなく、子供たちのものになってしまった。
その気持ちはフィリベルトにも分かる。父親になった時、それまで自分だけのものだった人生がそうではなくなる。生きる目的そのものが変化し、人生が次の段階に入ったと自覚する。それは親になった経験のある人間なら誰しもそうだろう。だが世間一般の親以上に、グスタフは子供たちの行く末を心配している。
それは不幸な事なのだ。フィリベルトはもう、フランツをあまり心配していない。文武両面で自分以上に優れた息子だからだ。
しかしグスタフの子供たちはそうではなかった。それは子供たちが人並み以下という意味ではない。グスタフのほうが人並み以上に優れているせいで、彼の目には子供たちが未熟に映ってしまうのだ。だからいつまでも不安で、心配で、心を砕いてしまうのだ。
そしてまた、フィリベルトにはヴィルヘルムの気持ちも分かる。彼自身、幼い頃からグスタフという人並み以上の人物に付き従ってきたのだから。
グスタフはフィリベルトより五歳年上である。八歳になったフィリベルトは父の言い付けで小姓としてブラックウォール城にやって来た。騎士になるための修行だと言われていたが、父の狙いは未来の城主であるグスタフと親交を深めさせる事にあったと今なら分かる。
その目的は叶って、グスタフとフィリベルトは友人になった。テイアラン四八世から騎士に叙任されたグスタフが従者に選んだのもフィリベルトだった。
二人の付き合いはまもなく五〇年になろうとしている。その長い時間の中で、フィリベルトはグスタフへの劣等感と羨望に向き合い、徐々に折り合いをつけてきた。
自分にもできたのだからヴィルヘルムにできないとは思えない。だからフィリベルトが言える事はたった一つだけだ。
「私たちにできる事は、ヴィルヘルムが戻って来られる場所を守る事です」
グスタフはうなだれたまま聞いて、それから「そうだな」と言って顔を上げた。その顔は厳格な城主のものではなく、友人としてのものだ。口元には笑みを浮かべている。
〝グスタフ公は決して笑うことがない〟とか、〝グスタフ公は笑顔を母親の胎内に忘れてきてしまったのだ〟などと言う者もいるが、決してそんな事はない。確かに、若かりし頃に比べれば、この笑顔を見る機会はずいぶん減ってしまったが。
グスタフは大きな酒樽のような胴回りを締め付けている幅広な革ベルトの隙間に太い指を突っ込み、小さな紙片を取り出した。伝書鳩が運んできたものだ。それをフィリベルトに差し出す。
「これは内密のものだが、お前には知らせておきたい」
「よろしいのですか?」
フィリベルトは念を押した。グスタフは笑みを浮かべたまま頷く。
受け取った紙片を広げて目を通し、フィリベルトはグスタフの笑顔の理由を知った。その紙片にはアデリンが懐妊したと書かれている。戦時中ゆえ、危険を避けるためにも当面は内密にする――と最後に付記されていた。
臣下の一人としても、また友人としても、それは嬉しい報せであった。しかしグスタフを笑顔にしたのが自分の言葉ではないと分かり、少し複雑な心境にもなる。ともあれ、フィリベルトは紙片を畳んでグスタフに返しながら言った。
「おめでとうございます、グスタフ様」
「うむ」と言って、グスタフは受け取った紙片を再びベルトに挟み込んだ。
「しかし、フィリベルトはどう思う。公表したほうが皆の戦意も高まるというもの。秘密にしておく理由がわしには分からん」
フィリベルトは自然に納得してしまったので疑問を感じなかったが、グスタフがそう言うのなら、そうなのだろう。しかし考えてみても、そこに何かの事情や思惑を見出す事はできなかった。
「まあ、よかろう。この件は内密にな」
グスタフはフィリベルトの肩をぽんぽんと叩いて言った。
「では、行くか」
グスタフは胸を張り、堂々たる巨体を揺らして歩き出した。その顔は厳格な城主に戻っている。フィリベルトもまた、臣下の顔をしてその後ろに付いた。
廊下に出ると、待っていた近衛兵が二人の前後を固めた。グスタフはいつもどおりのしかめ面だが、内心でこれを良く思っていないとフィリベルトは知っている。
先祖代々受け継がれ、生まれ育った自分の城だ。その中で警護されるなど気分の良いものではないだろう。しかも、警戒する対象には自分の領民も含まれているのだ。
城壁の外で野営している聖女軍の人間が許可無く
フィリベルトはグスタフに従って大広間に入った。
軍議には聖女軍の人間も参加するので、大広間の一角に場所を設けて開かれる。窮地を救った相手に対して無礼かもしれないが、大広間より奥には入ってもらいたくないとブラックウォール城の人々は思っているのだ。
テーブルにはすでに他の参加者が揃っている。聖女軍からはマイルズ司教とヨハン・グーデルが来ていた。ヨハンはグスタフに忠誠を誓った身だが、普段は聖女軍と行動を共にしている。どちら側なのか、フィリベルトは図り兼ねていた。
グスタフの臣下としてはフランツとベルントが参加している。グスタフに剣を捧げた身ではないが、ギャレットもその一人と数えていいだろう。
その他に、先日到着したばかりの援軍から三人の騎士が来ていた。謁見の時には三人とも名乗っていたが、フィリベルトは大将だというトーマス・キルシュの名前しか覚えていない。
キルシュ家は西部総督トビアス公の家臣で、ベッカー家に対するフォーゲル家のような近しい関係だと記憶している。すでに何度も実戦を経験している他の面々に比べると、真新しいピカピカの鎧と装束で、表情も硬い。
グスタフが姿を見せたので、全員が立ち上がり深々と礼をした。マイルズ司教もそれに倣う。一番奥にある大きな椅子にグスタフがどっかりと身体を収めると、他の人々も着席した。フィリベルトもグスタフに近い席へと腰を下ろす。
「それではグスタフ様、軍議を開いてもよろしいですか?」
フィリベルトが問うと、グスタフは「うむ」と重々しく頷いた。それを受けてフィリベルトは話し始める。
「斥候からの報告によると、サウスキープにいる帝国軍が進軍間近との事。サウスキープには一万弱の帝国軍がいる。我が方は五〇〇〇だ。キングスバレーからもっと援軍を出してもらう事はできんだろうか?」
一瞬の沈黙があり、フランツがトーマスに呼びかけた。
「トーマス卿?」
「ああ、そうか……まだ大将という役に慣れなくて」
トーマスはぶつぶつ言い、軽く頭を下げてから続けた。
「キングスバレーには当初、西部軍一五〇〇〇が集結予定であった。しかし、ハイマン将軍から緊急の要請があり、五〇〇〇が王都に取って返した。つまり、キングスバレーには一万の兵力があったわけだが……我々は、もちろんトビアス公も、全軍でもってブラックウォール城解放に向かうつもりでいた。しかしキングスバレーに留め置かれた。どうもブラン上位王からテイアラン女王陛下に進言があり、王都防衛のためにキングスバレーの兵力が必要だと話したらしいのだ」
意味が分からん――と、フィリベルトは言いかけて止めた。フランツが口を開いたからだ。
「予備兵力として、あるいは、東部から王都に敵が迫った時に背後を突くため……でしょうか?」
トーマスは首を横に振った。
「詳しくは私も聞いていない。知る必要があるとは思えなかったのでな」
トーマスは正しくファランティアの騎士だな、とフィリベルトは思った。
騎士は主君の命に従って歩兵と共に戦場へ行き、後は各自の判断で戦うものだ――というのがファランティアの常識である。この場にいるファランティア人も全員かつてはそうであった。
拠点防衛のために兵力を分散したり、敵の背後を突いたりはしない。なぜならそれは卑怯だからだ。騎士であれば正々堂々と、戦場にて一騎打ちで雌雄を決するものである。
帝国軍にはその常識が通用しない事はトーマスも知っているだろうが、そう簡単に身に付いた常識は覆るものではない。
「我々をここに遣ったのもトビアス公の独断に近い。これ以上の援軍は無理だと思われる」と、トーマスは話を終えた。
「意味が分からん」
今度は口に出してフィリベルトは言った。
「私ならキングスバレーに留め置かずブラックウォール城を取り戻し、維持するために送れるだけの援軍を送るだろう。なぜなら、ブラックウォール城で南からの敵を食い止めておけばキングスバレーに兵を置く必要はないからだ。それではまるで、ここを見捨てるような采配――」
「父上」
フランツに止められて、フィリベルトは言い過ぎた事に気付いた。ちらりとグスタフの顔色を窺うと、厳しい表情のまま変わっていなかったので少し安心する。
「陛下には陛下のお考えがあるのでしょう」
フランツが誰にともなく言う。
トーマスと彼の副大将である二人の騎士は顔を見合わせ、遠慮がちにトーマスが口を開いた。
「……実は、トビアス公も心配されていたのだが、テイアラン女王陛下はブラン上位王の言いなりだという噂がある」
バン、と音を立ててグスタフがテーブルを叩いた。マイルズ以外の全員が注目する。
「皆を集めたのは、過去の経緯を確認するためでも、噂話をするためでもない。いずれにせよ今からでは次の戦いに援軍は間に合わん。現状で敵の動きにどう対応するか、意見はないのか」
フィリベルトは期待を込めてフランツを見たが、何事か考えているようだったので自ら発言する事にした。
「現状では、この城で敵を迎え撃つ他ないと思うが……」
それまで黙っていたヨハンが顔を上げた。
「フィリベルト卿のおっしゃりたい事は分かります。キングスバレーにトビアス公の軍がいる現状、この城を無視して北進する事はできません。補給線を絶たれ、挟撃されてしまいますから。あるいはそれが、テイアラン女王陛下のお考えなのかもしれません。ブラックウォール城なら五〇〇〇人の兵力が適当です。それを見越しての援軍というわけですね」
フィリベルトはそこまで考えが及んでいたわけではなかったが、敢えて言うまでもないので、うんうんと頷いて見せた。
続いてフランツが発言する。
「進軍してくる敵の数がはっきり分からない現状では仮定で話すしかありませんが、一万の全軍で出てくる事はないと思います。南部は我らの土地だと彼らも分かっていますから、我々が彼らの知らない道を知っているのではと普通なら警戒します。つまり、それなりの人数を守備に残さなければならない。道中の補給線を守る部隊も同様です。もし敵が七〇〇〇以上の兵力を投入してくるなら、サウスキープの守備は手薄になっているはず。こちらは一〇〇〇の兵でブラックウォール城を維持しつつ、残りの戦力でサウスキープを突く事もできるでしょう。奪還できれば、敵は南部に拠点を失います」
「ふむ」と、グスタフは立派な二重顎に手をやった。
それを見てトーマスは唖然とし、そして一同を見回すようにして「本気ですか?」と声を荒げる。
「キングスバレーから来た我が軍は、この私も含めて、次の戦いが初陣となります。それが、城の壁に隠れて戦うだの、敵の背後を不意打ちするだのと……そんな、そんな卑怯な、不名誉な戦いにしたくありません!」
トーマスの言葉を否定する者はいなかった。フィリベルトは横目にギャレットの様子を見たが、自由騎士は腕を組んで無表情にテーブルの上の地図を睨んでいる。こういうやり取りにもう慣れてしまったか、うんざりしてしまったのだろう。
〈クライン川の会戦〉の時、ギャレットはきっと今の自分と同じような気持ちだったに違いない。
トーマスはフィリベルトと違って、騎士として鍛錬を続けてきた身体つきをしている。その身にはファランティアの騎士道が染みついているのだ。
しかし彼は知らない。本当の戦いは、痛くて怖いものだと。
負け戦で失われた命の多くは、ただ無意味に消え去ってしまうのだと。
〝名誉ある死〟などというものは、生き残った勝者だけが、死んだ味方に与える事ができるものだと。
沈黙を破ったのは、所々おかしな抑揚で話すマイルズだった。
「どのような戦いをするにせよ、私たちの勝利は確定しています。私たちには聖女ミリアナ様がついています。負けることは絶対にありません」
小麦色の肌をしたエルシア大陸人を見て、フィリベルトは皮肉のつもりで言った。
「ならば、聖女軍に第一陣を任せれば勝利は確定というわけですな」
マイルズは真面目な顔で深く頷く。
「はい。誤った道に進む信徒を目覚めさせるのは我々の使命です。最前列には我が軍を、とお願いするつもりでした」
フィリベルトが呆気に取られてぽかんと口を開けていると、初めてギャレットが発言した。
「それなら一つ考えていた事があります。騎士同士の戦いであれば、ファランティア騎士は帝国軍の騎兵とも互角以上に戦えるはずです。敵の騎兵隊が本隊から離れていれば直接向かえばいいですし、そうでない時は突撃直後の方向転換している間を狙えば良いでしょう。そのためには騎士以外の誰かが前線を維持しなければなりませんが、聖女軍が前線を維持してくれるなら……」
ギャレットはマイルズを見た。その視線にはどこか険があるようにフィリベルトは思ったが、マイルズは穏やかな表情で胸に手を当てる。
「お任せ下さい」
「よかろう」と、グスタフは声を響かせた。
「まずは敵の数をはっきりさせる事だ。斥候を増やして敵の動きに注意させよ。会戦となれば、聖女軍に前線を任せる。ギャレットの案も一考しよう。それと、トーマス卿」
呼びかけられて、トーマスは「はい」とグスタフに向き合った。
「そなたの気持ちはよく分かっているつもりだが、ここで敵を食い止めなければ、そなたの主君トビアス公の信頼を裏切るだけでなく、危険に晒す事にもなる。そのほうが名誉を損なうという考えもあろう。ここは実戦経験のあるこの者らの意見に耳を傾け、多少の事には目を瞑ってもらえぬか」
南部総督であり、テイアラン五〇世の実父であるグスタフ公にそこまで言わせては、トーマスも恐縮するしかない。騎士は深々と頭を下げた。
「はい。私も己の未熟さを、今は恥じています。戦いを前に神経質になってしまいました。グスタフ公のおっしゃるとおりです」
「うむ」と頷いてから、グスタフは軍議の一時解散を命じた。
「では、軍議は一時解散とする。各自、緊急の呼び出しにも対処できるよう心構えをしておくように」
その後の正賓を、フィリベルトはグスタフと共にした。
給仕が退室して二人きりになった時、グスタフは友人に対する気安さを感じさせて言う。
「お前が言ったように城で戦う事はできんだろう。そうするには聖女軍の連中を城内に入れる事になる。あのマイルズとかいう奴、わしは好かん」
フィリベルトはパンを飲み込んでから口を開いた。
「帝国軍の戦術は、私には全く予測不能です。自由な布陣で、自由に動ける野戦では不利だと思います」
「わかっている……お前にはすまんと思っている。何度も戦場に出てもらったが、お前がそういう事は苦手だと分かっていて命じている。それから、こんな事を言えるのはお前だけなのだが……」
グスタフは手元のパンを千切っては、口に入れずに散らかしつつ話していた。そういう態度は非常に珍しく、フィリベルトは緊張して背筋を伸ばす。
「わしは、アデリンとその子を守るためなら、ブラックウォール城を失っても良いと思っている」
「それは――」
「分かっておる。ブラックウォール城を、いや南部を、維持する事が王都にいるあの子らを守る事に繋がると言いたいのだろう。それはそうだと分かっておる。覚悟の話だ。つまり……そのために、お前を犠牲にする事もあるかもしれぬ」
自分でも意外な事に、フィリベルトは動揺しなかった。むしろ、グスタフが友人として接してくれているのだという嬉しさが勝った。あるいは、すでに何度も死を意識したせいでそれに慣れてしまったためかもしれない。
「私も同じ気持ちです、グスタフ様。家臣としても、友人としても。その時が来たら遠慮なく命じて下さい」
グスタフが口を開いた瞬間に、部屋へ給仕が入って来たので、彼はいつものしかめ面に戻ってしまった。しかし、彼が何を言おうとしたのかフィリベルトには分かっている。
ありがとう――きっと、そう言おうとしたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます