7.ギャレット ―盟約暦1006年、冬、第6週―

 ブラックウォール城の包囲が解かれた事で、それまで途絶えていたたくさんのものが入ってきた。ファランティアの現状に関する情報や食料などの物資、そして援軍である。


 最も衝撃的だったのは、テイアラン四九世が暗殺に倒れたという報せで、さすがのグスタフも驚きのあまり椅子の上で脱力し、放心状態になるほどであった。しかし王妃アデリンがテイアラン五〇世として即位したと聞くと、グスタフは我に返り、普段の厳めしい表情に戻った。


 さらに、ブラックウォール城より北にある旧王都キングスバレーより三〇〇〇人の援軍が到着している。ブラックウォール城に残った兵力と聖女軍を合わせれば約五〇〇〇の兵力である。


 しかし、入って来るものがあれば、出て行くものもある。

 出て行くものがあれば、残るものもある。


 門塔からギャレットが見下ろしている正門付近では、今まさに、城から避難する人々と、城に残る人々とが別れを惜しんでいるところだった。


 ファランティア王国の民は王国内の自由な移動が許されている。しかし、家や畑を所持する者は、その土地の持ち主である領主に対して地税の支払いや兵役の義務などを負う。


 南部総督であるグスタフ公が兵の召集を命じたので、南部の領主と領民はそれに応じる義務があるのだ。そして軍隊が解散されない限り、勝手な離脱は許されない。だから兵役に就いている男たちは、避難する家族と共に行くことはできないのである。


 避難民のほとんどは女、子供、老人、傷病者だが、自分の意思で城に残るという選択をした者もいる。兵士として戦いに参加しなくとも、軍隊を維持するために必要な仕事はあるからだ。


 領主への忠誠心、土地への愛着、離れたくない人がいる、敵への恨みなど、その理由は様々であろう。


 ギャレットは部屋を横切り、内向きの窓から外向きの窓に移動した。すでに城を出た避難民の先頭集団が、列をなして坂道を下っているのが見える。元より別れを惜しむような相手がいないか、いなくなってしまった人たちだろう。


 ギャレットは意図せず、その集団の中にエッドの姿を見つけた。


 ファランティアの法では、エッドは定住者ではないので兵役の義務を負わない。森の中にある狩小屋は許可を受けた狩人なら誰でも使える共用施設だし、町に来た時は宿を利用していた。時にはギャレットやジョンの家に泊まる事もあった。


 ふいに平和だった頃の生活が思い出されて、懐かしさに胸が苦しくなる。今まで感じた事の無い、憧憬の念とも言うべきものだ。


 あれが〝平和〟だったんだな――と、ギャレットは唐突に実感した。


 そしてエッドだけでなく多くの人々から、それを奪った帝国に激しい怒りが沸き上がった。握り締めた拳で壁を叩くと、近くにいた兵士が何事かとギャレットを見る。


 エッドは平和な暮らしから戦場に戻る理由が自分には無いと言っていた。ならば自分はどうか、この怒りがそうなのか、とギャレットは自問する。


 ファランティアにおいてもギャレットは騎士という、いわば職業戦士である。だから自分の仕事として当然のように戦って来た。ブラックウォール城解放戦において戦場にある種の安らぎを感じたのは事実だが、少なくともクララのように――おそらくジョンも――殺戮を楽しんではいない。


 聖女軍はブラックウォール城解放後も南部各地で帝国軍と戦い、敵の補給線を破壊してクライン川の向こうまで押し戻した。ギャレットも兵を率いて共闘したが、戦場で見たクララの表情は完全に殺戮を楽しむ狂人のそれであった。


 そして戦いの後に行われる〝聖女の裁き〟と呼ばれる儀式めいたものも、ギャレットは気に入らなかった。


 信仰心に飾り立てられているが、それは単純に〝死ぬか仲間になるか選べ〟と言っているだけだ。中には本当に信仰心から仲間になる者もいるだろうが、大半は死への恐怖が忠誠心に勝ったからだとギャレットは見ている。


 孤児を引き取って戦場に出す〈みなし子〉のような傭兵団でさえ、裏切り者と脱走者は仲間にしない。理由は簡単で、いざとなればまた裏切るに違いないからだ。実際、聖女軍の中には行方をくらませる者も少なからずいると聞く。おそらく脱走しているのだろうが、それを放置すれば軍隊はバラバラになってしまう。


 しかし、聖女軍に崩壊の兆しはない。そもそも、あれは軍隊と呼ぶべきでないものではないのかもしれない――ギャレットは避難民たちが下っていく坂の先に目をやった。そこには聖女軍の野営地が広がっている。


 城壁の外に野営地が広がる光景は、ブラックウォール城の兵士にとってはすっかり見慣れたものになってしまった。とはいえ、城壁からの距離に違いはある。帝国軍の野営地は矢の届かない距離まで離れていたが、聖女軍の野営地は城を囲む堀に接している。


 だから野営地の様子もよく見えるのだが、そこにもやはり軍隊の雰囲気はない。和気藹々とした生活感があり、驚くべき事に、小麦色の肌をしたエルシア大陸人と白い肌のテストリア大陸人が一緒に混ざり合って家族のように暮らしていた。城壁の中の暗く沈んだ人々とは対称的な明るい声が、今もそこここから聞こえてくる。


 傭兵団にも様々な肌の色をした人間がいたが、聖女軍はそれとも違う。傭兵団は戦闘を生業とする人々の集団であり組織であった。家族だとか友人だとかいうものではない。


 聖女軍は同じ宗教的熱狂を共有する集団でもない。全員がミリアナ教徒というわけではないからだ。


 考えれば考えるほど分からなくなり、言い知れぬ不安を掻き立てられるので、ギャレットは聖女軍について考えるのを止めた。再び避難民に目を向けると、先頭集団でちょっとした揉め事が起こっている。


 坂の下、聖女軍野営地の入口に少人数の集団が待っていた。これまで聖女軍に同行していたが、避難を希望している人々である。その数は十数人で、ブラックウォール城からの避難民に比べてずっと少ない。非戦闘員の多くが聖女軍に残るようだ。


 避難民を護衛するのは若き騎士パウエルと数人の近衛兵で、その中の一人が聖女軍からの避難民である男女に向かって何か言っている。


 男のほうは若く、これと言って特徴のないファランティア人に見えた。兵役の義務を負っているのなら、その事で何か言われているのかもしれない。


 グスタフ公の召集があってから〈クライン川の会戦〉までに合流しなかった領民も多いと聞いている。しかし、聖女軍に同行している者に限り、グスタフはそれを不問にすると公言していた。ブラックウォール城を包囲から救った聖女軍の人間を罰するのは心情的に悪いし、名誉を損なうと考えられたからだ。


 だからその若者が咎められる理由はないはずだが、戦いから逃れようとしているとなれば、確かに微妙な問題かもしれなかった。しかし原因はギャレットにも全くの予想外で、女のほうにあった。


 近衛兵が何か言いながら、女が目深に被っていた帽子を取り上げる。すると茶色の、綿毛のように縮れた髪の毛が飛び出し、小麦色をしたエルシア大陸人の顔が露出した。小麦色というよりは濃い茶色に近く、それはエルシア大陸の東側に住む人間の特徴である。聖女軍に属するエルシア大陸人の移動までは、さすがに認められていない。


 元帝国兵が女に変装して逃げ出そうとしているのか、とも思ったが、その華奢な体格からして男とは思えない。それに、隣にいるファランティア人の若者は明らかにそのエルシア大陸人の女を庇っていた。声を荒げながら、近衛兵と女の間に割って入る。


 様子を見に行くべきかギャレットは迷って、結局は自重した。その場はパウエルが取り仕切っているのだ。気になるなら後で話を聞けばいい。


 ギャレットが見ていると、パウエルは下馬して言い争う若者と衛兵に歩み寄った。それから有無を言わさぬ様子で若者とエルシア人の女を野営地のほうへ押しやる。若者は納得していない様子だったが、女と連れ立って野営地へ戻って行った。


 そこへエッドたち避難民の先頭集団が合流した。エッドもまた外国人なので、身分を証明する許可証を見せている。エッドの後ろには、幼いララを連れたサラがいた。二人は顔見知りなので、なんとなく一緒にいるのだろう。


 ギャレットは昨晩、サラと話していた。彼女はジョンから援助を受けた話をし、その身を案じていた。なんだか様子がおかしかった、とも言っていた。


「ジョンの事は心配いらない」


 ギャレットはそう言ったが、嘘だった。

 ジョンがどこに向かおうとしているのか、ギャレットにも全く分からないのだ。


 やがて、ブラックウォール城の正門からぞろぞろと避難民が出て行く。別れが済んだのだろう。


 ギャレットは彼らを見送るために門塔まで来ていたわけではないので、窓から離れ、狭くて急な階段を下りた。


 中庭に出て正門前までやって来た頃には、避難民も見送りの人々も残っていなかった。かつては市が開かれていたその場所にはもう露店の残骸すら無く、静まり返っている。鞭打ち刑を行うための台だけがぽつんと取り残されていた。


 結局、使用されたのはあの一度だけだったが、柱や台の上には飛び散った血の跡が黒く点々と残っている。


(こいつも一緒にどこかへ行っちまえば良かったのにな)


 限界まで高まっていた貴族と平民の対立感情は聖女軍の登場によってうやむやになっているが消え去ったわけではない。むしろ水面下に潜んでしまったというほうが正しい。


 軍を一度解散すれば不満のある人々は去っていくだろうが、戦争中にそんな事ができるわけがない。貴族に対して憎しみの目を向けていた連中は、今もこの城にいるのだ。


 フランツは主要な貴族たちに、城内にいる時でも最低限の武装をして一人で歩かないようにと密かに警告している。


 高い城壁が落とす影の中をギャレットは歩いた。


 開かれた正門から差し込む太陽の光が、影を長方形に切り取っている。この時期は太陽が南寄りになるためだ。


 その時、斜めに傾いた光の帯の中、何かが地面でキラリと日光を反射した。


 光の中に踏み出して近くで見ると、その正体は銀製の小さな馬だった。掌に乗る大きさで、馬の筋肉まで見事に再現されている。今まさに駆けている瞬間を写し取られたような躍動感のある精緻な細工物で、かなり高価な品物なのは間違いない。


 去って行った避難民か、見送った兵士か、どちらかの持ち物だろう。しかし、どこかで見た事があるような気もする。


(確か、同じ物をどこかで――)


 ギャレットは思い出してハッとした。銀の馬を手にしたまま、小走りに天守キープへ向かう。城内の人々からの挨拶を適当に返しつつ、階段を上って廊下を進むと、フランツとすれ違った。


「ギャレット、ちょっといいか」


 呼び止めてきたフランツに一度は「すまないが、後で」と言って通り過ぎたギャレットであったが、思い直して振り返り、フランツを呼び止める。


 手を開いて銀の馬を見せると、彼は言った。

「見事な銀細工だ。これをどこで?」


 ギャレットは周囲に人がいないのを確認してから、声を潜めて話す。


「正門前に落ちていた。これと同じ物をフィリベルト卿の部屋で見た気がする」


 ギャレットの心配を理解したらしく、フランツは途端に真顔になった。


「父の部屋に行って確かめよう」


「ああ」


 二人は城内を足早に進んで、フィリベルトが使っている部屋までやって来た。入口にはフォーゲル家の衛兵ペーターが立っている。もちろん、お互いに顔見知りである。


「父は中に?」


 フランツが尋ねると、ペーターは「はい」と返事した。それから部屋の扉をノックして「領主様、フランツ様とギャレット卿が来られています」と告げる。部屋の中から「通してよい」とフィリベルトの返事があり、二人は慌てて部屋に入った。


 フィリベルトは武装しておらず、羽ペンを手にして何やら書き物をしていたようだ。


「父上、失礼します。ギャレット、どこだ?」と、フランツが問う。


 ギャレットは暖炉まで大股に部屋を横切った。フランツも付いて来る。フィリベルトはきょとんとした顔で、「何事だ?」と問うてきた。


 一旦それを無視して、ギャレットは暖炉の上を指差す。


「ここにあったはずだ。やはり、無くなっている」


 フィリベルトは怪訝な顔をして席を立ち、近くに寄って、ギャレットが指差した所を一緒になって見た。


 暖炉の上には銀製の兵士や騎士、馬などが並んでいるが、ギャレットが指差した場所にはちょうど一体分くらいの間隔が空いている。うっすら積もった埃には小さな楕円形の跡が残っていた。ギャレットが持っていた銀の馬をそこに置くと、台座の形は埃に残った跡とぴったり一致する。


「なんだ、どうした?」


 フィリベルトは、顔を見合わせたフランツとギャレットに再び問う。今度もそれには答えず、逆にフランツが聞き返した。


「父上、この銀の馬を持ち出しましたか?」


 フィリベルトは首を横に振る。

「いいや、気にした事もない。それがどうした?」


 ついにギャレットはフィリベルトの問いに答えた。


「これを正門前で見つけたのです。つまり、誰かが、この部屋に忍び込んで持ち出した事になります。他にも盗まれた物がないか確認してください」


 そう言いながらもギャレットは、盗みは大した問題ではないと思っていた。

 問題は、ここに忍び込める人間がいる、という事のほうなのだ。

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