6.ロランド ―盟約暦1006年、冬、第6週―
サウスキープの町は、その名の由来となった小高い丘の上にある砦から一望できる。今、町と呼べるのは丘の斜面東側に作られた新しい家々である。より緩やかな勾配で通行しやすい斜面西側にはまだ焼け跡が残っていて、撤去に手間のかかる大きな残骸は放置されたままだ。
砦の司令官室となっている部屋には南向きの大きな窓がある。ロランドはその前に立って後ろに手を組み、外を眺めていた。テッサ城の執務室にあるテラスからエルシア海を眺めていた時と全く同じ姿勢で身動ぎもしない。これは考え事をする時の癖なのだった。
吹き込む風にエルシア海の暖かさはなく、見渡す限り広がる輝きうねる海原もない。内陸の冷たい冬の風に顔を向ければ、遠方には見渡す限り緑の森が広がっている。
その広大な〈魔獣の森〉を樹海と呼ぶ者もいるが、森を海に例えるのはロランドにとって受け入れ難いものだった。
理由は単純明快で、海は海、森は森だからだ。
少し目線を下げると、町から〈魔獣の森〉へと続く兵士たちの列が見える。このサウスキープに駐留していたマクシミリアン将軍の軍団である。先頭集団にはマクシミリアンがいるはずだが、さすがに見分ける事はできなかった。
兵士たちは誰一人としてサウスキープの町を振り返りはしない。マクシミリアン、ひいては帝国への忠誠心によって統制の取れた軍隊なのは確かだが、理由はそれだけではないだろう。彼らの心はすでに遥か南のエルシア海を渡っているに違いない。
ロランドが自らのテッサニア軍を率いてサウスキープに到着した時、ファランティア南部の状況はさらに悪化していた。聖女軍と自称する武装集団によって、南部の要であるブラックウォール城を解放されてしまい、そのうえ帝国の支配地域はクライン川にまで後退させられていたのだ。
たびたび脱走兵が出て、その多くは聖女軍に合流していると思われた。聖女が降臨したという噂を知らぬ者は、もはやサウスキープにはいない。
しかし、これらがマクシミリアンの過失だとロランドは考えない。むしろレスターの失策だと言えよう。
サウスキープ占領から〈クライン川の会戦〉を経て、ブラックウォール城の包囲完成までの動きは、マクシミリアンと彼の軍団の有能さを証明している。記録を見るだけでもそれは明らかだ。そのままブラックウォール城を落として南部の支配を磐石にすれば良かったものを、レスターはブラックウォール城への攻撃を指示しなかった。
マクシミリアンの副官ロジャーから聞いた話によると、現状維持では兵の士気を保てないとマクシミリアンも考えていたという。本国に攻撃指示を求めても、返答は〝現状維持〟であった。
〝マクシミリアン将軍の考えは正しかったのです〟
ロジャーはそう言っていた。ロランドも同意見だ。トーニオを使って集めた小隊長以下の兵士たちの話が、それを裏付けている。
彼らが抱いていた不満の多くは、〝いつになったら家に帰れるか分からない〟というものだ。いかに精鋭部隊といえども人間である。遠い異国の地で、進軍もせずただ待ち続けているのでは、さもありなん。
その不満が、今回のファランティア侵攻そのものに対する疑念を育て、脱走と反乱に至らせたとロランドは考えている。
アルガン帝国の大義は対魔獣、対魔法にある。ファランティアに魔獣はいないし、亡命した魔術師は二〇人に満たない。普通に考えれば軍事力を用いて侵攻する必要があるとは思えないだろう。
(だからこそ、エリオが殺されるという茶番を演じる必要があったのだがな)
ロランドは身動ぎ一つせず、心の目だけを背後に向けた。そこにはトーニオが控えている。ほとんど気配もなく黙っているのはロランドの思考を邪魔しないよう気遣っているからだが、それは当然の事だ。
ロランドは兵士の列を目で辿って、再び〈魔獣の森〉を見た。列の先頭はすでに森へと達している。
テッサニアを併合した後、アルガン帝国によって〈魔獣の森〉は開かれたが、それは全体の三割ほどに過ぎない。ファランティアに侵攻するよりも〈魔獣の森〉に棲む魔獣の絶滅を目指したほうが帝国の大義に相応しい。一般の兵士でさえ疑問に思うのだから、本国の貴族にも同様に考える者はいるはずだ。
(マクシミリアンの反応も、それが原因かもしれん)
ロランドがサウスキープに到着して、わずか五日で交代を完了できたのはマクシミリアンの協力によるところも大きい。
ファランティア南部方面軍の司令官を解任されるというのは、明らかに不名誉な人事だ。皇帝の右腕とも言われるマクシミリアンが自らの立場を危うくするような命令に文句の一つもないどころか協力的というのには、何か理由があるはずだった。
しかしロランドにはその理由を想像する事しかできない。帝国議会の内部事情を知る方法が、ロランドにはまだ無いのだ。
ロランドは身体の向きをさっと変えた。
部屋の中はマクシミリアンがいた頃のまま変わっていないが、ロランドの嫌う過度な装飾はされていない。執務机の他にテーブルが一つと椅子が二脚、
ロランドが振り向いたのを見て、トーニオは椅子から立ち上がった。もしトーニオがロランドの指示どおりにタニアとかいう女を審問官の所へ潜り込ませていたら、もっと帝都の動きが分かったかもしれない。
(いや、いずれにしてもあの娘では無理か)
ロランドは自身の考えを否定した。
トーニオが女を逃がしたのは知っているが、それを話題にした事は一度も無い。トーニオのほうも、後ろめたさや隠し事をしている様子は一切見せなかった。現に今も、しれっとした様子でロランドの視線を受け流している。
ロランドはトーニオのそんなところが嫌いで、気に入っていた。
「聖女とかいう娘に、特殊な力はないな」
ロランドは結論を口にした。トーニオの報告を聞いてから、ずっとその事を考えていたのだ。「でしょうね」と、トーニオが同意する。
ロランドはトーニオの意見など聞いていないが、この男は分をわきまえず自分の意見を述べることがよくあった。ロランドはそれも嫌いで、気に入っていた。
ロランドは魔術師ではないが知識はある。ごくまれに、〈選ばれし者〉と魔術師が呼ぶ特殊能力者が生まれる事も知っていた。〈選ばれし者〉は魔術師としての訓練を受けていなくても特殊な力を発揮し、人間の思考に影響を与える力もあるらしい。そんな力が自分にあれば、と思ったのでよく覚えている。
脱走兵の心理とは別に、聖女とかいう娘が〈選ばれし者〉か、あるいは強力な魔術師である可能性もあった。それでトーニオに調べさせたのだが、報告を聞く限り、そういうわけではなさそうだ。
決定的だったのはトーニオが見つけたある兵士の証言である。その兵士は聖女軍と交戦して破れ、一度は聖女軍に加わったが、隙を見て脱出してきたという。
その兵士は、自分が聖女軍に加わったのは信仰心からではなく、単に生き延びるためだったと語った。聖女軍に加わることを拒否すればその場で娘に殺されていたからだ、と。
もちろん、この兵士は誰にもこの話をしていない。敵から逃げるうちに帰り道を見失って時間がかかったのだと言っている。彼を見つけて、さらにこの話を聞き出したトーニオこそロランドからすれば魔術師であった。
「ベルナルドを呼べ。軍議を開く」
ロランドがそう言うと、トーニオは「これからですか?」と口答えした。
サウスキープに到着してから五日間、ロランドは全く休んでいない。それはトーニオも同様である。少しくらい休まないのか、と言いたいのだろう。一睨みすると彼は肩をすくめてからうやうやしく敬礼して言った。
「承知しました。閣下」
トーニオが部屋を出て行き、一人になったロランドは再び窓の外に目をやった。
休んでいる暇などない。時間がないのだ――。
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