10.セドリック ―盟約暦1006年、冬、第2週―
やはり、これは慣れん――と、セドリックは思った。
アベルの力による
それは夢も見ないような深い眠りとは全く違い、感覚的には気絶に近い。瞬間的な死、というのが最も近い表現だった。
アベルによれば、
今、アベルとセドリックは無の空間ではなく、暗闇の中に立っている。足の裏には固い床の感覚があるし、枢機卿という地位に就き、四〇歳を過ぎてから年々増している自分の体重も感じられる。服の布ずれの音や、アベルの体温や、閉じ込められた空気の圧力のようなものなど、とにかく光のない暗闇の中であっても色々と感じ取れるものだ。
そして何より、そうした事を知覚している自意識がある。
アベルと同じように無の空間を知覚できる者は他にもいる。例えば竜騎士と戦って死んだクリスもそうだった。知覚できる審問官は全員、〈
つまりセドリックには、魔術師としてそれほどの力がないという事だ。
アベルが手を動かす気配があって、直後に光源が出現して周囲を照らす。
〈
だが、セドリックにはその全てが必要だった。そのうえ、作り出せたとしても光量はアベルの半分程度で、動かせるのも
光に照らされたアベルの顔は得意げだ。
本人は冷静で無表情なつもりだろうが、セドリックは人の表情や感情を読み取るのが得意だし、子供の頃からアベルを知っているので一目瞭然である。それは〈
かつて母の死に際、金糸で縁取られた立派な司教のローブを着て見舞った時の自分も同じような表情をしていたのだろうか――セドリックはふと、そんな事を思った。
アベルの作り出した光球は光を強くしながら浮かび上がり、天井近くに達して部屋全体を照らし出す。この地下室には壁一面に書架が並んでいる。書架にはどれも戸が付けられ、鍵が掛かっているようだ。
「ブレア王国で〝禁呪〟とされたものが、ここに収められています」と、アベルが説明した。
セドリックが書架の一つに近寄ると、付き従っているアベルが鍵を取り出して扉を開ける。中にぎっしりと詰まった禁断の知識を見ると胸は高鳴る。
セドリックでは、ここにある本の内容を理解はできても、行使するのは無理だ。扱える魔力の量が全く足りないからだ。しかし、配下の審問官たちなら扱えるだろう。
魔術師の中には、魔術の理論を理解する知性には乏しいが、魔力の量だけは人一倍という者もいる。それを羨んだ事もあったが、今では無視できる程度の羨望を感じるだけだ。
かつてはセドリックにも魔術師としての未来を無邪気に夢見ていた時代があった。だが、このブレア王国で〈魔力開通の儀式〉を受けた日にそれは終わってしまった。
古の魔術王国時代と比べて魔術は明らかに衰退してしまったが、その理由の一つとして、〝魔術の一般化〟を挙げる研究者は多い。それは高度化した〈魔力開通の儀式〉によって起こった。かつては特別な才能の持ち主だけが魔力を得られたが、どんな人間でも魔力を得られるようになったのだ。
しかし、扱える魔力量には大きな個人差があって、それは生まれた時から決まっているという問題はついに解決されなかった。大きな期待を胸に秘めて〈魔力開通の儀式〉を受けた結果、扱える魔力量がほんの僅かしかないと判明して夢破れる見習い魔術師は多い。残念ながらセドリックもその一人だ。
魔術大学の教授たちは、魔術の行使はできなくとも理論の研究はできると言って研究者としての道を示したが、セドリックはその日のうちに大学を出て二度と戻らなかった。
〈魔力開通の儀式〉など受けるのではなかった――と、後悔した時期もある。
しかしそれは夢破れたからではない。むしろ自分が夢見た魔術師にはなれないとはっきり分かったのは良かったとさえ思っている。見果てぬ夢を追い続けなくて済んだからだ。
後悔する事になったのは、アルガン帝国がエルシア大陸の覇権を得て、魔獣のみならず魔法の排斥までするようになったためである。
魔術師としては無能と言ってもいい魔力しか持たなくても、魔術師である事に変わりはない。〈魔力開通〉の儀式を受けたせいで、セドリックは自分の身を守るためにあらゆる手を尽くさねばならなかった。
しかし、その結果として今の立場を得られたのだから、もう後悔はしていない。今のセドリックには個人の魔力量など比べ物にならない力がある。表社会では枢機卿という高い地位にあり、裏では優秀な魔術師たちを手駒として扱えるのだ。
「素晴らしい。よくやってくれたな、アベル」
セドリックは心を込めてそう言い、アベルの肩に手を置いた。手駒の中で最も強力な〈選ばれし者〉だ。大切に扱わなければいけない。
「いえ、時間がかかってしまいました」と、アベルは頭を下げて言った。
おそらく、嬉しさが表情に出てしまうのを恥らって顔を見られまいとしているのだろう。アベルはそのままセドリックの顔を直視せず、微妙に逸らしたまま「次の部屋にご案内します」と言って歩き出す。その様子で、セドリックは自分のアベルに対する理解度に満足した。
次の部屋にはあまり見慣れない道具類が並んでいた。アリッサの部屋によく似たものもあるが、その他にも用途の分からないものばかりだ。東方の錬金術で使う道具に似ている。
部屋を見て回ると、ブレア王国の公用語であったサビナ語の注釈がついたエルフ語のメモや、本などが埃に埋もれていた。置き去りにされた羽ペンなどもエルフの物ではない。埃の積もり具合やインクの変色具合からして、二〇年は経ていない。
「錬金術の道具に似ているな」
謎の器具を見ながらセドリックが言うと、アベルは待ち構えていたように口を開く。
「エルフの魔法は、世界を構成する〝要素〟を見出して操作するものです。より効率的で効果的な触媒の研究から始まったのが東方の錬金術ですから、よく似ているのでしょう。エルフのほうがはるかに進んでいたようですが――」
アベルはまるで自分の知識のように披露したが、それは鎧の悪魔から聞いたものだろう。この場所を発見するのに〝協力させた〟という悪魔が、誰から生まれたものか、セドリックには予想がついている。しかし、それを明らかにする必要はない。そんな事をしてアベルを刺激するほうが、悪い結果になるからだ。
セドリックがそんな事を考えている間もアベルは話を続けている。
「――例えば、ほんの小さな火で〈
「それは、魔術の触媒として優れているという事かな?」
驚いたように目を丸くしてセドリックは言った。アベルが得意になっている時はいつもそうするようにしている。
「触媒としても、もちろん優れているのでしょうが、魔術師でない普通の人間が着火しても同様の爆発を起こせるようです」
「なんと――」
今度は演技ではなく、本当に驚いてセドリックは言葉を失った。
セドリックは〈
(それを魔術師ではない一般人が起こせるというのか!?)
エルフの遺した知識とはいえ、さすがに信じられなかった。
「あくまで研究の副産物に過ぎず、実用するつもりもなかったのでしょう。連中にとっては魔法を使ったほうが早いですから。それは次の部屋にあるものを見てもらえれば分かります。こんなものとは比較になりませんよ」
アベルは奥の壁に鍵を差し込んで回した。自分の発見したものを早くセドリックに見てもらいたいと気が急いているのが伝わってくる。
継ぎ目すら見えない見事な隠し扉が開き、小さな階段が現れた。アベルが光球を中に入れて足元を照らし、「さあ、どうぞ。この下です」と急かす。
階段はセドリックの大柄な体格には狭かったが、抜けた先には確かに驚くべきものがあった。
「な、なんだ、これは――」
吹き抜けの通路から、球形の空間の中央にある見た事もない物体を見下ろしながら、セドリックは絶句した。後に続いて来たアベルが答える。
「これはエルフが〈
「〈
聞いた事もないが、何かとんでもないものだという予感がする。アベルが〈選ばれし者〉だと知った時と似た興奮がある。
巨大な心臓に似たそれは灰色の乾いた皮膚のようなもので覆われているが、部分的に剥がれ落ちていた。その隙間からは緑色に発光する液体が透明な皮膜の内側に透けて見える。一体何のためのものなのか、何をするものなのか、全く想像が及ばない。
しかし見慣れたものもあった。床に描かれた何重もの
「このブレア王国の周辺は不毛の地でしたが、それを作物の育つ土地にしようという研究から、ブレア王国で魔術が発展したという経緯はご存知でしょう。自然環境を作りかえるという、その発想自体、元はと言えばエルフの魔法から得たものでした。まさにこの遺跡からブレア王国は始まったのです。しかし、この地を調査しに来た魔術師たちが発見したのは一つ前の部屋まで。この部屋と〈
アベルはもったいぶって一呼吸置き、興奮を隠しきれずに声を大きくして言った。
「これこそが、ブレア王家に伝わる真の秘密です。〝禁呪〟も、エルフの錬金術も、これに比べれば大したものではありません!」
「それで、これは何をするものなのだ?」
セドリックは〈
「これは、生命を自在に操作する魔法装置だそうです。このエルシア大陸に生息している魔獣のいくつかはこれで生み出されたと考えられています。全ての魔獣がこれで作られたという説もあったようですが、それは飛躍しすぎでしょう」
アベルの言葉はあまりに信じ難く、我が耳を疑ったが、その意味を理解するにつれて興奮が全身を駆け巡っていく。動悸が激しくなり、頭の芯がじんじんと痺れるようだ。
自分の望む生物を作れるのであれば、その生物は創造主に従うはずである。でなければ、飼い犬に手をかまれる程度では済まない事になってしまう。エルフがそのように愚かなはずはない。つまり、この〈
神の創造物を作りかえる力――神に並び立つ力だ。
〈
「使えるのか?」
「おそらくは使えます。魔術による封印で〝力〟の供給を絶たれ停止しているだけで、生きているように見えます」
「封印を解く方法は王家に伝わっているのかな?」
当然そうなのだろう――というセドリックの期待を、アベルは首を横に振って裏切った。
「封印に封印を重ね続けた結果、すでに術式が複雑に絡み合ってしまい安全に解除する方法がありません。魔力の供給は魔女――の、死で止まっていますから徐々に弱まっていくはずですが、何年かかるか分かりません」
セドリックには、アベルがアリッサの死をまだ引きずっているのが分かったが、今は気遣ってやる余裕がない。
眼下の〈
蓄えられた魔力を吸い出すか、消すことができればいいのだが――と、そこまで考えて、セドリックは思い当たった。もう一人の〈選ばれし者〉だ。
「アベル、お前が話していたファランティアの、例の〈選ばれし者〉だが……」
ファランティアという言葉から連想される全てが、アベルには禁句だったと思い出してセドリックの言葉は尻切れになった。だが、アベルは全く気にしてない様子だ。
「はい。あのデブを連れて来るようにと、すでに悪魔へ命じてあります」
「そうか! さすがだな、アベル!」
演技でも何でもなく、セドリックはアベルに抱きついた。それから、ふと心配になる。魔力そのものの塊である悪魔に、〈暴食に選ばれし者〉を捕らえる事ができるのだろうか――と。
(いや、あの悪魔なら心配はいらないだろう。レッドドラゴン城での出来事がアベルの言ったとおりなら)
セドリックはそう独りごちて、アベルから身を離した。
「すまん、すまん。年甲斐も無く、はしゃいでしまったな」
アベルは咳払いする真似をしながら、「い、いえ……別に……」と小さく言う。
セドリックは満面の笑みで、これからの計画を考えながら話した。
「まずは魔術理論に詳しい審問官を数人呼び寄せ、〝禁呪〟を研究させよう」
「えっ!?」と、驚くアベル。
「しかし、セドリック様。審問官を動かせば、皇帝陛下の耳にも入ってしまうのでは……?」
この件はこれから先もセドリックとアベルの二人で進めるものと思っていたのだろう。見る見るうちに険しくなるアベルの目を見て、自分の手柄を奪われるように感じているのだとセドリックには分かった。だが、それには敢えて気付かないふりをして話を続ける。
「時間が無いのだ。ファランティアでの戦いが終われば、次は東方に向くと思うが、その前に我々を粛清する可能性も無くはない。私とお前の二人では研究が結実するまで時間がかかりすぎる。それに、お前自身が言っていただろう。〝禁呪〟も、エルフの錬金術も、これに比べれば大したものではないとね。私もその通りだと思うよ。つまりだな、我々は〝禁呪〟を手に入れ、帝国はエルフの錬金術を手に入れた、と思わせておくのだ。そして私とお前で、〈
話を聞くにつれ、アベルの表情が和らいでいった。それを見てセドリックは満足げに頷く。
「レスターは今頃、海の上だ。エルシア大陸にいない今が好機なのだよ」
そう言ってから、うっかり皇帝陛下を呼び捨てにしてしまったと気付いたが、もう気にしなかった。
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