9.ルゴス ―盟約暦1006年、冬、第2週―

 エルシア海の西の外れに〈白鯨号〉は浮かんでいた。北のテストリア大陸西南端からも、南のエルシア大陸北西端からも遠く離れた海域で、どちらの海図にも詳しく記されていない。


 エルシア海より西の外洋に名前はまだ無く、敢えて呼ぶなら〈大西海〉とでも言うだろうか。


 色の濃い濁った海で、波は高い。もし上空から見下ろしたなら、巨大な〈白鯨号〉でさえ波間に漂う小さな白い箱のように見えるだろう。


 この海域の冷たい流れはエルシア海に流れ込み、青いエメラルド色の海と出会う。冷たい海流と暖かい海流が交わる場所には魚たちが集まるので、エルシア海には好漁場がいくつもある。


 もっとも、〈白鯨号〉は貿易船で漁船ではないから漁場など気にしないだろう――ルゴスは小舟から〈白鯨号〉を見上げて思った。


 それはルゴスたちスケイルズ諸島の海賊も同様である。普段は漁師をやっている者も多いから漁場の知識もあるが、故郷からはるばる遠征してきたのは漁をするためではない。ブラン上位王の命でエルシア海を航行するアルガン帝国の船を襲うためにやって来たのだ。


 スケイルズ諸島の海賊は大海の神を信仰する海の男だが、陸地が全く見えない外洋で何週間も過ごすのに慣れているわけではない。


 スケイルズ諸島とは〈鉄の海〉に浮かぶ一六の島々を総称した呼び方で、島の大きさは様々だが、島が一つも見えなくなるほど遠くには行かない。海賊をする時も、海上にいる船を襲うより沿岸の村を襲うほうが多い。


 それに食料の問題もあった。大海の神を信仰しているからといって、海水を飲んで生きられるわけもない。スケイルズ諸島の船は細長い木の葉型をしていて海の上でも滑るように走れるが、船底は浅いので積載量は多くない。長い航海には向いていないのだ。


 それでもブランの考えた、エルシア大陸からやってくる帝国の人間と物資を海に沈めてしまうという作戦の有効性は疑う余地がない。

 そして誰にそれができるかと問われれば、スケイルズ諸島の海の男として名乗りを上げないわけにはいかない。


 配下の戦士たちもそれは納得している。しかし、見知らぬ海で何日も過ごすのはやはり不安なはずだ。スケイルズ諸島の王であるルゴスが同行し、直接指揮を執っている理由の一つがそれである。


 もし息子が生きていたら王位を譲り、そしてこの遠征を任せただろうか――そんな事を一度ならず考えたが、結論はいつも同じだった。王位を譲っても、やはりこの遠征は自分が率いただろう。


 ルゴスがまだ若く父王が健在だった頃、父の反対を押し切ってエルシア海まで遠征した経験があるのだ。気の合う仲間たちとエルシア海を荒らし回った日々は、今も心に焼き付いている。その経験と、王の威厳がこの遠征には必要だった。


 高い波に翻弄されながら、やっとルゴスは梯子に取り付いた。しっかりと掴んで〈白鯨号〉の甲板まで上っていく。


 小舟の漕ぎ手をしているのはルゴスの信頼する二人の老戦士だ。高波に小舟を転覆させられる事もなく、〈白鯨号〉の大きな船体に激突させてバラバラにする事もなく、ここまでルゴスを運んでくれた。


 〈白鯨号〉の甲板に上がる時、乗組員が手を差し伸べてきたがルゴスは掴まない。灰色の髪と髭、顔に刻まれた深い皺が自分を歳相応に、老人に見せているのは分かっているが、老人扱いされるのを許すつもりはない。


 ルゴスは王に相応しく堂々と甲板に立った。海水に濡れた青色の鱗鎧スケイルメイルが、どんよりした曇り空の下でもキラリと光る。


 この鎧はシーサーペントの鱗で作られた魔法の鎧だと言われている。シーサーペントが最後に目撃されたのは何百年も前なので、生きている人間で真贋を鑑定できる者はいない。だが、これが魔法の鎧なのは確かだ。陸上ではただの重い鱗鎧スケイルメイルだが、水中では沈むどころか浮き上がる。


 〝サーペント殺しのブリューナク〟という冒険譚の中で謳われている内容が正しければ、ドワーフの船乗りを助けてシーサーペントを退治したブリューナクが礼としてドワーフから贈られたものだ。


 その後、ブリューナクはスケイルズ諸島を統一した最初の王となり、以来、代々の王に受け継がれてきたとされている。


 この話が真実かどうか疑わしいのは、〝ドワーフの船乗り〟が登場する件だ。ドワーフが地上に現れるだけでも珍しいのに、船乗りになどなるはずがない。しかし、このような鎧を作れるのはドワーフ以外に考えられないので、真実と虚構が半分ずつ入り混じっているのだろう。


 シーサーペントの鎧に締め付けられたルゴスの太い腹の下から膝までは、青地に白い波模様が編みこまれた織布を腰巻にしたスカートが覆っている。膝から下はなめし革のすね当てとサンダルが一体になったものを履いていた。


 武器は腰に吊るした幅広の片手剣ブロードソードと、短剣ダガーだけだ。


 王らしく上等な衣服に身を包んでいるが、シーサーペントの鎧を除けば一般的なスケイルズ人の格好である。


 ルゴスの海賊船五艘は、少し離れたところで波に上下されていた。波に対して垂直に並んでいるので、衝角をこちらに向けている。まっすぐに尖ったものもあれば、鉤のようになっているもの、ナタのように垂直方向に幅広いものもある。このような外洋に近い場所で横から高波を受ければ人がさらわれるかもしれないし、転覆してしまう事もあり得るからだ。


 ルゴスが乗船した〈白鯨号〉の右舷では、乗組員が声を掛け合って荷物を下ろしていた。海上にいる運搬用の小舟に載せようとしているのだ。今のところ海に落としたり、揺れる船体にぶつけてしまったりはしていない。海上にいる船同士で荷物のやり取りをするという面倒で難しい作業をこなせる彼らの能力は認めざるを得ない。


 荷下ろしを監督している異常に肥満した男が、ルゴスに気付いた。隣に立つ色黒で屈強な体格の男に指示を与えると、杖を付きつつ難儀そうに身体の向きをルゴスのほうに変える。右足首から下は無く、木の棒になっているせいだ。上半身は裸で膝下までのズボンを履いただけの脂肪の塊は、頭をつるりと剃り上げた真ん丸な顔に笑顔を浮かべた。


「ルゴス王! いやぁ、わざわざわしの船に来てもらって、すまねぇな」


 杖を持っていないほうの左手――手首から先は丸い鉄の輪が付いた義手になっている――を広げて陰気な海に似合わない陽気な声を上げ、ひょこひょこと近寄ってくる。


 大きくて安定性の高い〈白鯨号〉のような船でも、外洋に近いこの海域ではかなり揺れる。それでも、危なっかしくもこの肥満体は転ぶことなくルゴスの前まで来た。


「グイド、わしを呼びつけるほどの話なのか?」

 〝ブラドー〟と昔の名前で呼びそうになりつつ、ルゴスは尋ねた。


 グイドは笑顔のままウインクした。かつてたくさんの女を魅了したその笑顔に当時の力はないだろうが、不思議な事に愛嬌は昔のままだ。


「もちろんだとも、王様。とんでもなく重要な話だよ。この船の野郎どもは全員わしの家族みてぇなもんだが、それでも二人きりで話をせにゃならんほどの、な。本来ならわしのほうが、あんたの船に行くべきだろうが、この図体じゃ一番難儀な荷物になっちまう」


 グイドは馴れ馴れしく金属の輪になった左手をルゴスの肩に置いた。ルゴスはそれを許し、二人は船長室に向かった。


 ルゴスがグイドの船長室に入るのは二度目だ。こじんまりした狭い部屋の中は、貿易船の船長室というより、海賊船の船長室というほうがしっくりくる。

 統一性のない色々な国の品物が飾り棚キャビネットに並び、テーブルには海図が広げられ、短剣が突き立ててある。


 奥の壁に張り付けられた黒い旗には、赤い染料で薔薇をくわえた髑髏が描かれていた。それは海賊時代に――グイドがまだブラドーと名乗っていた頃に――掲げられていたものだ。


 初めてこの部屋に招かれた時、ルゴスはこの旗に思わず見入ってしまった。かつての記憶が一気に蘇ったのだ。その時はグイドが、ブラドーの一味にいた太った会計係ではないかと思った。本人から聞かされても、優男で有名だったブラドーとは信じられなかったのだ。だが話してみれば、ブラドー本人しか知り得ない事を知っているし、脂肪に埋もれた瞳にも、若かりし日の彼と同じ陽気さが見て取れた。


 とはいえ、ルゴスとブラドーはそれほど親しかったわけではない。初めて出会った時は酒場で乱闘になったし、その後も何度か顔を合わせたが友人と呼ぶほど親しくはならなかった。しかし敵というほどでもない。好敵手、というのが一番近いかもしれない。


 スケイルズ諸島での海賊稼業は、いわば生活の一部である。それは北方で大昔から続いてきた、奪い合いという慣習の中で行われるものだ。他の地域の人間――例えばファランティア人から見れば、何をやっても許されるように思われるかもしれないが、暗黙の御法度はあるのだ。


 だが、エルシア海での海賊稼業はスリルと冒険、そして自由を楽しむためのものだった。古い慣習も、しがらみも、そこには存在しない。稼ぎという意味では十分だったのに、エルシア海を離れられなかったのはそれが理由だ。


 若く、暴力的で、愚かな、しかし情熱的で気さくな海賊たち。時に対立し、時に手を組み、エルシア海を北に南にと荒し回ったその時代の思い出は、ルゴスにとって間違いなく青春の輝きを放っている。


 大量の綿入れクッションが置かれた三人掛けの長椅子ソファに、グイドはどすんと巨体を沈めた。船全体が揺れそうな勢いだ。床がミシミシと軋む。


 ブラドーだった頃のグイドはあまり海賊らしくない細身の優男だった。女装してタルソスの軍船に入り込んだという逸話に説得力を持たせるほどの。


 ルゴスはおしゃべりな性質ではないので、体型の変化でグイドをからかう事も、昔話をする事もない。変わったという意味ではルゴスも他人の事を言えないからだ。グイドほどではないにせよ、若い頃に比べて太ってしまったし、なにより王になってしまった。鏡に映る自分に刻まれた深い皺を見て、昔とはまるで違ってしまったと感じた事もある。


 海賊旗に目をやったままのルゴスを見て、グイドは言った。


「ここだけが唯一残った海賊時代の名残さ……って、あんたは今でも現役の海賊だったっけな。まあ、好きに寛いでくんな」


 その言葉でルゴスの頭に一つの考えが浮かんだ。海賊たちと手を組んで帝国船を襲うのも悪くないかもしれない。


「あの頃の連中、どうなったか知らぬか。今でも海賊をやっておるのか?」


 グイドは少し悲しそうに、顔の肉を左右に振った。


「エルシア大陸が帝国に統一された後、テッサニアを併合するまでの間に皆いなくなっちまったよ。帝国から海賊に布告があってな。期限までに帝国海軍に入るか、犯罪者となるか、どちらか選べってよ。抵抗して殺された奴、帝国海軍に入った奴、昔の仲間に捕まって牢の中で死んだ奴、エルシア海から逃げた奴……ま、いずれにしても昔みてぇに大手を振って海賊を名乗ってるやつぁ、エルシア海にはいねぇよ。もし海賊と渡りを付けてぇなら力になれるが、今はテン・アイランズより東の海で稼いでる。向こうは内乱が続いてっからな。契約した国以外の船しか襲わないって約束で、お国の旗を掲げて海賊やってるよ……おっと、あんたも似たようなもんだったな」


「そうか……」


 思いがけず、しんみりした声になってしまってルゴスは自戒した。

 グイドはぴしゃりと、巨大な腹を叩いて陽気な調子に戻って言う。


「ま、そんな事より仕事の話をしようや。王様に伝えなきゃならねえ話が三つあってよ。一つはあんたが隠れ家にしているエルシア北岸のあそこさ、もう戻らねぇほうがいい。チェプトの港で噂になってたぜ。テストリア人がいるってよ」


 ルゴスはエルシア海賊時代の隠れ家を利用していた。チェプトというのは、今使っている隠れ家から一番近い港町である。


「分かった。二つ目の話は?」


「マレーン商会が食料品の値上げをする。商会で買い付けた品物をあんたの船に届けるのが俺の請け負った仕事だが、同じ店からずっと生活必需品を買ってりゃ、足元を見てくるもんだ。あんたの……上位王だっけ、そいつに言っといたほうがいいぜ」


 エルシア海で帝国船を相手に海賊をやる、というブランの作戦で問題なのは、帝国船を襲っても生活必需品が全て揃うとは限らないという事だ。帝国船が何を運んでいるか分からないし、全ての船を襲えるわけでもない。


 アルガン帝国に統一される前は、相手が海賊だと分かっていても知らぬふりで取引する商人はいたし、金さえ払えば港を使うこともできた。今ではそんな事をすれば、すぐに通報されてしまうだろう。


 ファランティア西側の海岸線は、まるで切り取られたような絶壁が続いていて船を付けられるような場所はないから、補給を受けるためには北方まで戻らねばならない。それでは効率が悪すぎる。


 驚いたことに、ブランはこの問題をすでに解決していた。テン・アイランズにあるマレーン商会と話をつけてあり、そこから補給を受けられるようにしていたのだ。現状、テン・アイランズ所属の貿易船はエルシア海を自由に航行できる。


 グイドの〈白鯨号〉はマレーン商会に雇われている。余計とは思いつつ、ルゴスは言った。


「雇い主の情報を漏らしてよいのか?」


 グイドは小首をかしげる。太り過ぎて分からないが、たぶん肩をすくめたのだろう。


「昔のよしみだよ。ところで荷物の受け取りなんだけどよ。エルシア海の中でやらねぇか。ここじゃあ、うっかりすれば荷物を失っちまうし、最悪、大事な乗組員を失っちまうよ」


 ルゴスは樽のような腹の上で腕を組む。帝国船を襲うようになって四週間は過ぎた。帝国海軍の哨戒は増えたが、厳重というほどではない。明らかな穴があるのだ。

 それがルゴスは気に入らなかった。罠ではないかと疑ってもいる。だから慎重を期して、エルシア海の外で荷物の受け渡しをしている。


 グイドは手を伸ばして果物を取ると、かぶりついた。滴る果汁が雪崩れた腹を濡らす。


「テッサよりも東に入り込まなけりゃ大丈夫だぜ。テッサのロランドはあんたが上手くやっている限り、手を出すつもりはないだろうよ」


「なぜ、そう言える?」


 ルゴスが問うと、グイドは鉄の輪になっている左手に食べかけの果物を乗せ、まともなほうの右手で尻の下から手紙を取り出した。綿入れクッションの間に隠してあったようだ。


「これが三つめの話だ。マレーン商会が買い付けた品物の受け取りでテッサに寄港した時、この手紙を持った女がやって来た」


 ルゴスは差し出された手紙を受け取り、中に目を通して、驚いた。


 そこに書かれていたのは、皇帝レスターがエルシア海を渡りテッサへ移動する日程だった。当日の哨戒と警備の情報まで付いている。


 その内容はもちろん驚くべきものだったが、ルゴスが驚いたのは別れ際にブランが言った言葉を思い出したからだ。


 〝レスターが釣れるかもしれんな〟と、ブランは言ったのだ。


 ルゴスは気味が悪くなった。幼い頃からブランを知っているし、見た目や勇猛な戦いぶりからは想像できない賢しい面があるのも知っている。しかし、それでも過小評価だったのかもしれない。よく知っているはずのブランが、得体の知れないもののように感じられた。ブランを中心に世界が動いているような、その渦に自分も巻き込まれているような、そんな錯覚さえする。


 グイドが三つめの果物に手を伸ばしながら言う。


「それが罠じゃないとは言い切れねぇが、出所はロランドに違いねぇ。だから奴の庭なら問題ないと思ったのさ」


「なぜ、ロランドだと言える?」と、ルゴスは平静を装って問うた。


「他に誰がいるんだよ?」

 グイドはそう答えて、果物にかぶりつく。


 テッサニアの執政官であるロランドが敢えてルゴスを野放しにしているのだとしたら、帝国に損害を与える事がロランドの目的に適うからだろう。もし皇帝を害する事ができれば、帝国に大打撃を与えられる。


 ロランドの野心と、ブランの予測が一致したのなら、これはまたと無い機会だ。危険を冒す価値はある、とルゴスは判断した。


「グイド、この話――」


 グイドはルゴスの言葉に先んじて答える。


「言わねぇよ、誰にも。おかのことは、わしにゃあ関係ねぇこった」


 〝おかのことは、俺には関係ないね〟


 かつてのブラドーの口癖が思い出される。名前も姿も変わってしまったが、グイドはやはりブラドーだ。だからルゴスはこの男を信じる事にした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る