8.トーニオ ―盟約暦1006年、冬、第1週―
ホワイトハーバーを出航した輸送船は、護衛船に守られながら〈貿易海〉を南下し、テストリア大陸東南端から進路を西にとってエルシア海に入った。途中、タルソスに寄港して、テッサまで向かう。
船旅の間、少年兵に変装したタニアが問題になる事もなく、トーニオとタニアは無事にテッサの港へ到着した。
輸送船に乗っていた傷病兵たちは、苦しみに耐える事で精一杯か、故郷に思いを馳せているか、敢えて傭兵に関わろうとしないか――理由は様々だろうが、二人に関心を寄せる者はいなかった。
海上から見るテッサは、明るく開放的なホワイトハーバーとは対照的で、険しくごつごつした印象である。岸壁に彫刻されたようにも見えるテッサの町は、南に面していて日陰になりがちで、半分が影に沈んでいる。
出発してからほぼ一つの季節が過ぎ去ってしまったが、トーニオには特に懐かしさも感動もなかった。しかし、エルシア海を渡る潮風の暖かさと香りには懐かしさを感じる。
テッサの町そのものに愛着は無くとも、テッサニア――今は、エルシア海に面したテストリア大陸の南岸地域全体を意味する――には、それなりに愛着を持っているのだとトーニオは自覚した。
盟約暦では冬が始まるこの時期でも、エルシア海を流れる暖流のおかげで上着は必要ない暖かさだ。トーニオはさっさと長袖の上着を脱いでいたが、変装しているタニアはそういうわけにもいかず汗だくで、すえた臭いを放っている。とはいえ他の乗員たちも臭いので目立つわけではない。
テッサの町に降り立ったトーニオは、まずタニアを連れて顔が利く娼館へ行き、身体を洗って身なりを整えるようにと頼んで彼女を預けた。自身も別の部屋で身体を洗い、新しい服を用意してもらう。それから、引き止めようとする女達をなだめつつ、すっかり清潔になったタニアを連れて正午過ぎには娼館を出た。
テッサ城に向かって坂道を上って行く間、暑苦しい変装と臭いと全身の痒みから解放されたにも関わらず、タニアの表情は暗く沈んでいた。何度も「大丈夫なの?」と尋ねてくるので、トーニオはその度に「大丈夫だ」と答えなければならなかった。
アルガン帝国ではエリオは死んだ事になっているが、ホワイトハーバーの帝国軍や傭兵団〈みなし子〉と同じように、始末するよう秘密の命令が出ている可能性はある。タニアにも同様の命令が出ているかもしれない。タニアが審問官に仕えている事はアルガン帝国内でも秘密だろうが、理由など好きにでっち上げればよい。
テッサ城に入るなり捕縛され、二人とも地下牢で秘密裏に始末される――というのが最悪の場合であり、タニアの心配するところであろう。
必要とあればロランドはそうするはずだから、「大丈夫だ」というのは嘘だった。正確に答えるなら、「分からんが、たぶん、大丈夫だと思う」という曖昧な言い方になってしまう。そんな事を言えばタニアが逃げ出すのは目に見えている。
トーニオは逃げ出すなど考えられない。最後に別れた時、ロランドは「お前は戻ってくるのだぞ」と言っていた。その最後の命令を実行しなければならないからだ。とはいえ、テッサ城の正門から堂々と入城する必要はない。
トーニオはタニアの気配を背後に感じながら、城に向かう道から外れて、テッサ城の影に沈む路地を歩いた。ファランティアの王都ドラゴンストーンとはまるで違う、狭くて入り組んだ、家と壁が作る迷路のような道だ。人間の出すゴミと臭気が溢れ出しているが、もっと港に近い裏路地や外壁の近く、そしてその外側に比べればずっとましである。
城をぐるりと回り込むように、そんな路地を歩いて、城の裏口へと向かう。
狭い路地から出て、人間が一人通れる幅しかない小さな橋と門を守る近衛兵に向かって歩いて行くとタニアが立ち止まった。
トーニオはそれに気付いたが無視して歩き続ける。もしタニアが付いて来ないなら、それでも良いと思った。ロランドから与えられている命令をどう解釈しても、タニアを連れて行く理由はないからだ。
(だったら何故、レッドドラゴン城から逃げる時にタニアを連れ出したんだ。何故、ここまで連れて来たんだ)
それは密かに、トーニオが何度も自問してきたことだ。
テイアランを押さえるというのがロランドの目的だったが、それが難しい事はレッドドラゴン城に忍び込む前から分かっていた。逃げ場を失ったテイアランが仕方なくトーニオの手を取る、という可能性がほんの僅かあるだけだった。
テイアランを気絶させて拉致するにしても、その身体を抱えて屋根を走ったり壁から飛び降りたりするのは無理だからだ。
もし成功した場合にのみ、タニアの協力に意味があった。城を脱出した後でテイアランが騒ぎ出した場合は気絶させて運ぶ事になっただろうし、顔見知りの侍女が同行していれば、そうなるまでの時間稼ぎになっただろう。
だからテイアランがトーニオの手を取らなかった時点で、タニアを連れ出す理由は無くなっていたのだ。
路地の影の中で足を止めていたタニアは、結局トーニオの後を追って来た。それでトーニオも考えるのを止めた。考えても答えの出ない問いにいつまでも思考を捕らわれていると、いざという時に反応できなくなる。それが生死を分ける事もあると子供の頃に学んでいる。
裏門を守る近衛兵は、やってくる二人を見て身構えた。トーニオが帽子を持ち上げて顔を見せると、近衛兵は緊張を解いて道を空ける。
まるでいつもどおり、という様子でトーニオが通り過ぎると、すれ違いざまに近衛兵は「お帰りなさい」と小さな声で言った。トーニオも微笑で応える。
タニアについて何か言われる事もなく、二人は橋を渡って門の前まで来た。少なくとも彼と、矢狭間から橋を見張る近衛兵たちに与えられた命令は以前と変わっていないようだ。
分厚い頑丈な扉を叩くと、がちゃり、と金属の錠前が外され、鉄の鎖を引き回すじゃらじゃらという音がした。続いて閂が外れる音がして、門が開く。一人がやっと通れる程度の隙間が開いたところで、トーニオは中に滑り込んだ。タニアも後に続く。二人が中に入ると、扉を開けてくれた近衛兵が再び施錠した。
門の先は地下牢の通路が左に湾曲しながら続いていて、松明が等間隔に掛けてある。右の壁沿いにある囚人たちの牢へ続く扉は閉ざされ、今は静かだった。
トーニオは我が家と言ってもいい歩き慣れた城内を、一応は人目に付かない経路で自室まで戻る。途中で何人か城の人間とすれ違ったが、忍び込んでいるわけではないので気にしない。
長い間留守にしていた自室は掃除が行き届いていた。念のために鍵を掛けた机や隠してある荷物に手を付けられた様子がないか確認する。トーニオが部屋の中でそんな事をしている間、タニアは手持ち無沙汰に立っていたが、そのうち椅子に腰掛けた。
しばらくして、ずっと黙っていたタニアが口を開く。話しかける機会を待っていたのだろう。
「ここ、あなたの部屋?」
「ああ、そうだ」
「あなたって、執政官の、えーと、補佐役なのよね。もっとすごい部屋に住んでいるのかと思った。レッドドラゴン城の侍女の部屋とあまり変わらないね」
やっと安心したのか、タニアの話しぶりは普段の調子に近い。
安心するにはまだ早いぞ、と思いつつ答える。
「俺にはこれくらいで十分だ。ここなら、今みたいに裏から入って来られるしな。それと、正確には補佐役助役という役職で、序列ははっきりしてないんだ。俺の立場を説明するのは難しいな。他にも君に話していない事はたくさんある」
タニアは足を伸ばし、寛いだ様子で言った。
「いつか話してもらえる?」
「いつかそのうち、機会があればね」
トーニオは部屋の中を確認し終えて、扉に向かって歩きながら言う。
「俺は部屋を空けるが、戻るまでここにいるんだ」
「わかった」
タニアは頷いた。それを見て、トーニオは部屋を出た。
ロランドの執務室に向かう途中で、最初に出会った近衛兵に声をかける。
「俺の部屋に女が一人いる。勝手に出歩かないか念のため見ていてくれ。もし部屋を出たら、力ずくでも中に戻して欲しい」
そう言って、銀貨を三枚ほど握らせる。近衛兵は「お任せを」と言って銀貨を受け取った。
ロランドの執務室がある通路の入口には近衛騎士が立っていたが、トーニオを阻もうとはしない。テッサを出てから一二週間経ってもテッサ城は何一つ変わっておらず、それがトーニオには何故か奇妙に思えた。
ロランドの執務室の手前には小さな机と椅子があり、侍従が一人座っている。
「閣下にご報告がある」
トーニオが告げると、侍従は静かに答えた。
「閣下は執務室におられませんが、あなた様が来られたら執務室で待つように伝えよ、と仰せつかっております」
トーニオは頷いて了解の意思を示し、執務室の扉に手をかけたところで、振り向いて侍従に尋ねる。
「閣下はいつ頃お戻りに?」
「それは、閣下のお心次第です」という侍従の返答を聞いて、トーニオは執務室に入った。
執務室の内装も、最後に見た時から全く変わっていない。
テラスから入ってくるエルシア海の暖かい風と、真上を過ぎた太陽に照らされて、暖かいというよりは暑い。しかしファランティアの寒さよりはずっとましだ。
ロランドがこの部屋を執務室にした理由も、案外そんなものかもしれない。暑いとも寒いとも文句を言った事のないロランドだが、実は寒いのが苦手なのかもしれない。
トーニオはテラスに出て、鷹小屋を覗き込んだ。鷹の姿はなく、綺麗なものだ。やはり鷹はあれ以来、戻っていないのだろう。
しばらくロランドの真似をして、テラスから太陽の光を反射して輝くエルシア海を見ていたが、目が眩んできたので室内に戻る。そして柔らかい
長旅の疲れもあって何度もうとうとしてしまい、その度に起きて姿勢を変えるというのを繰り返す。
いつの間にか朱色の西日が部屋を照らすようになり、日が落ちて薄暗闇になって、やがて真っ暗になった。テラスの向こうには星空と暗い海が広がっている。
暖かいテッサニアとはいえこの時期の夜はそれなりに寒い。こんなに待たされると分かっていたら上着を持ってきたのに、と悔やみ始めた頃、扉が開いた。
燭台を手にしたロランドは、扉を開けたまま一瞬立ち止まって、それから部屋に入って来る。濃紺色の長袖は、きっちりと首元まで襟を止めている。黒いズボンは、もともと細いロランドの体躯をより華奢に見せていた。上下とも暗い色の服なので、燭台を持つ手と、つるりとした禿頭の顔だけが闇の中に浮かび上がって見える。明かりが顔の影を濃くしているせいか、ロランドの目は落ち窪み、顔はげっそりとして見えた。
また少し痩せたのかもしれない。もっと自分に贅沢を許してもいいのに――と、トーニオは何度目か思いながらさっと立ち上がり、ロランドの前に膝をついて頭を垂れた。
「陛下、失敗しました。申し開きもございません」
「私は執政官だ。陛下ではない」
頭の上からロランドの声が降ってきた。以前と変わらず、声に感情は感じられない。表情は見えないが、きっと無表情なままだろう。
「申し開きも不要だ。座れ。そして全て話せ」
ロランドは向かい合う二つの
「はっ」と返事して、トーニオも対面に座る。
それからトーニオは、テッサを発ってからの事を全て話した。
事実のみならず、トーニオが考えた事まで付け加えて話したので、その度にロランドから「お前の考えはいらん」と釘を刺される。それでもトーニオは自分の考えを付け加えたので、話は長くなり、真夜中までかかってしまった。
全てを聞き終えてやっと、ロランドは
「エリオが死に、トーニオが戻ったというわけか。私はエリオに戻ってくるよう命じたはずだがな」
トーニオは頭を下げる。
「はい、申し開きはございません。なんなりと処罰をお与え下さい」
部屋の中は暗く、蝋燭の灯りだけが二人の顔を浮かび上がらせていた。ロランドは表情を変えずに言う。
「白々しく、よく言う。死んだ人間を処罰などできぬ。アルガン帝国では、エリオ・テッサヴィーレは同盟交渉の使者としてファランティアに赴き、殺害されたというのが事実となっている」
ロランドはそう言ったが、とはいえトーニオを処罰することなど容易である。いますぐ部屋の外にいる近衛騎士を呼んで、執務室に見知らぬ男が忍び込んでいると言えばいい。この城にエリオの顔をしたトーニオという男などいないのだから。
「今後はトーニオがエリオに代わってロランド様にお仕えします」
トーニオがそう言うと、ロランドは「うむ」と頷いた。
「お前の話した内容について少し考えねばならぬ。エリオの部屋をお前に与える。そこで待機していろ」
トーニオは立ち上がって頭を下げ、「仰せのままに」と言って執務室を出た。
深夜のテッサ城を歩くのも久しぶりだ――トーニオは自室までゆっくりと歩いた。この時間でも全員が寝静まっているわけではない。巡回する近衛兵はいるし、深夜に起きて仕事をする侍従もいる。トーニオは深夜に城内を歩く時、彼らの目を避けて見つからないように歩くのが常だった。
それは隠密行動の訓練というわけでなく、単なる戯れだ。
物陰に潜みながら、突然飛び出したら驚くだろうなと、その様を想像して楽しむような子供っぽさは今でもトーニオの中に残っている。
そうして誰にも見つからないまま自室に戻ると、ベッドはタニアに占有されていた。トーニオは服を脱ぎ、図々しい女だと思いながら押しのける。「ううん……」とタニアは小さく呻いて、横を向いた。トーニオは背中合わせになるように、隣へ身体を滑り込ませる。
あれだけ死を恐れながら、これほど無防備になれてしまうのがトーニオには理解できなかった。今のタニアは、まるであらゆる運命を受け入れているかのようだ。
トーニオはベッドの縁から下に手を入れ、そこに
その晩トーニオは、久しぶりにトーニオの夢を見た。
翌日の午後になってロランドからの呼び出しがあり、トーニオは主君の執務室に向かった。執務室に入るといつものようにロランドはエルシア海のほうを向き、手を後ろに組んで直立している。
「お呼びでしょうか。ロランド様」と、その背中にトーニオは話しかけた。
ロランドは振り向くと、テーブルにある二つの書状を指す。
「読め。一つは帝国から。もう一つはお前に届けてもらうものだ。読み終えたら封をする」
トーニオは
「これは……」
思わず呟いたところで、ロランドが鋭く警告した。
「余計な事は口走るな。いつか首ごとその舌を失くすぞと警告したな」
トーニオは黙って帝国からの書状を畳んで戻すと、もう一通を開いた。むしろ、こちらのほうが驚くべき内容だった。
「北方の海賊がエルシア海に?」
トーニオが尋ねると、ロランドは平然と答える。
「海に壁を立てる事はできんし、テッサニア海軍はホワイトハーバーの海上封鎖に割いている」
なるほど、充分な言い訳だ――そう思いながらも、どこか違和感があった。
ロランドの大胆さは目を見張るものがある。しかし、それは充分な慎重さを持っているがゆえだ。今回の皇帝レスターの動きを知れば、ロランドでなくとも好機と見るだろう。トーニオでもそう思う。だが、それは凡庸な判断とも言えた。
子供の頃からロランドに仕えてきたトーニオには、慎重さを欠いているような、焦っているような、そんな一抹の不安が感じられたのだ。
だが、トーニオは主君に意見するような立場にはないし、求められてもいない。この件に関しては、うっかり何か言おうものなら、いつものように軽口では済まされないだろう。トーニオは続けて尋ねた。
「〈白鯨号〉はいつまでテッサに寄港しているのですか?」
ロランドがトーニオに託すつもりの手紙を渡す相手は、〈白鯨号〉のグイド船長なのだ。
ロランドは手紙を取り上げると、自分の執務机で封をしながら答えた。これは極秘の手紙なので、当然ロランドを示すような印章などは使っていない。
「今日は荷物を積み込んでいる。明日には出航する」
つまり、手紙は今日中に届けろという事である。
ロランドは封をした手紙を、再びテーブルに置く。まだ退出しろとは言われていないので、トーニオは主君の次の言葉を待った。
「それと、お前が連れ帰った審問官の密偵だという女だが、審問官の元に戻らせろ。連絡手段を用意して、必要な時はこちらから連絡すると言ってな」
「タニアに審問官を密偵させるつもりですか?」
ロランドがじろりと睨んだ。ロランドは自分の決定について理由を問われるのも、いちいち聞き返されるのも好まない。だが、言いかけておいて止めるわけにもいかず、トーニオは言葉を続けた。
「タニアにそんな事ができるとは思えません。連絡方法を逆に辿られて、すぐに我々とのつながりは見抜かれてしまいますよ」
ロランドは眉を吊り上げる。
「お前に理由を説明する必要があるのか? いいだろう、一度くらいはな。その女を手元に置くほうが危険だ。役に立たんのなら連絡手段は作らなくてよい。審問官を隠れ蓑にする魔術師どもが始末するなら、そうさせておけ。こちらは痛くも痒くもない」
ロランドの静かな怒りを受けて、トーニオは混乱した。
なぜ、ロランドに意見などしてしまったのか自分でも分からなかった。それがタニアのためだというのなら、確かに彼女は危険だ。
「口が過ぎました。どうか、お許し下さい」
「……わかったら、行け」
そう言って、ロランドは背を向けた。
トーニオは主君の背中に向けて頭を下げ、グイド船長に宛てた手紙を持って執務室を後にした。
執務室を出た後もトーニオは動揺していた。ロランドの怒りに触れたことがきっかけなのは間違いないが、もう一人の――双子で本物の――トーニオの記憶が蘇る。とても養父とは呼べないネーロの事さえ思い出す。
なぜあの夜トーニオと入れ替わったのか。
なぜトーニオはネーロのようなろくでなしに好かれたかったのか。
なぜトーニオを探すのか。
なぜタニアを連れ出したのか。
なぜ、タニアの事でトーニオが出てくるのか。
なぜ、なぜ……と、置き去りにしてきた答えの無い問いが溢れてくる。
いつものように、答えの出ない事を考えるのは止めようと思える頃には、自室の前まで戻って来ていた。部屋に入ると、ベッド上で膝を抱えていたタニアが「おかえり」と声をかけてくる。
タニアの姿を見ると、心が乱れるのを感じた。話す気分になれず、トーニオは机に向かって椅子に座り、手紙を書く準備をした。自分が何をしようとしているのか、当然トーニオには分かっている。
(たぶん、トーニオならこうして欲しいはずだ)
自分でもおかしな事を考えているな、と思いながらペンを走らせる。
手紙を書き終えて、インクが乾くのを待つ間にトーニオは椅子からベッドへ移動した。
「どうしたの?」
タニアが不安そうな顔で尋ねてくる。様子がおかしいのに気付いたのだろう。
「ロランド様は、お前に審問官を探らせるつもりだ。奴らの所へ戻せ、と命じられた。具体的な指示は必要な時にこちらからする。それまでは今までどおり審問官に従え、と」
トーニオが話すほどに、タニアの顔色は見る見る青くなっていく。恐怖に擦れた声で彼女は言った。
「む、無理だよ……え、ほ、本気なの……?」
トーニオの真剣な眼差しを見て、タニアは冗談ではないと理解したようだった。目を潤ませ、首を左右に振る。
「無理、無理、無理……絶対に無理よ。どこに行けばあいつらに会えるか知らないの。本当だよ。あいつらの身の回りの世話をしていた場所は、気が付いたらそこにいたし、出てくる時も魔法で飛ばされて一瞬だったの。だから場所は知らないし、どうやって連絡したらいいかも分からないよ。それにもし、戻れても絶対に殺されちゃう……あいつら普通じゃないんだから……私、エリオやロランド様の事を秘密にしておく事もできないよ。前に話したでしょ? 知ってるでしょ?」
タニアの瞳から涙が零れ、彼女は泣き出した。トーニオは涙を拭うタニアの手首を掴んで彼女の目を見据え、強い口調で言う。
「よく聞け。ほら、俺を見て。そうだ……いいか、悩む時間はないが、よく考えて決めるんだ。ロランド様の言うとおりにやってみるか、もしくは、従うふりをして隠れて暮らすか、だ。従うふりをするって事はロランド様を騙すという事だが、あの御方は簡単に騙せるような人じゃない。もし見つかれば、俺もお前も確実に殺される。ファランティアの王都からホワイトハーバーまで逃げた時の事を覚えているだろう。これからずっとあの時のように、背後からの視線を気にして生きていかなきゃならない。できるか?」
タニアの目が左右に揺れた。彼女に選択肢はないと、トーニオには分かっている。
「逃がしてくれるって事……?」
「ああ、そうだ」
タニアは涙を拭いて言った。
「あなたの言うとおりにする。私、死にたくないの……」
トーニオは立ち上がって、机の上の手紙を畳み、封をした。そしてロランドから預かった手紙と合わせて二通をタニアの前に並べ置く。まずはロランドからの手紙を指差して説明する。
「タニア、まずこっちの封筒だが、これから港に行って〈白鯨号〉という船のグイド船長に渡さなければならない。グイド船長はエリオと知り合いだが、エリオは死んだ事になっているから俺は姿を見せられない。しかし、トーニオからの使いで船長に用があると言えば分かってもらえるはずだ。相手は荒くれ者の船乗りだが、堂々とやれ」
タニアは真剣な顔で頷いた。次にトーニオは、自分で書いた手紙を指して説明を続ける。
「その後で、こっちの手紙を渡す。これはエリオからだと言うんだ。グイド船長が受け入れてくれれば船に乗せてくれる。テン・アイランズか東方か知らないが、どこかの外国に降ろしてくれる。知らない土地で一人きりだ。それに、それまでは海の上で男に囲まれて過ごさなきゃならない。間違いも起きるかもしれない。大丈夫か?」
タニアはもう一度、頷いた。
「殺されに行くより、ずっとまし。できるよ」
トーニオは旅をするわけではないし、タニアも今着ている服しか持っていないので準備は必要なかった。二人はすぐに、裏口の門から城を出て港に向かう。途中で女性用の下着や着替えなどを購入して袋に詰め、タニアに持たせる。
〈白鯨号〉は、港ですぐに見つかった。二人は建物の影から、白い大きな船を覗き見る。
「あれが〈白鯨号〉だ。グイド船長はたぶん見た事ないほど太っているが、あまり驚いてやるなよ」
トーニオの言葉にタニアは頷いてから問う。
「わかった。ねぇ、あなたも一緒に逃げないの?」
「なぜ?」
「なぜ、って――」
言いかけて、タニアは止めた。そして首を左右に振る。
「……ううん。なんでもない。さっきの話だと、グイド船長にはトーニオもエリオも通じるみたいだけど、どうしてなの?」
「俺には子供の頃に生き別れた双子の兄弟がいる。そいつの名前がトーニオっていうんだよ。グイド船長や、他の船長たちに探してもらっているんだ」
簡単な説明でも、タニアは納得したようだった。
「ほら、そろそろ行くんだ。ここで見ていてやるから、どうしようもなくなったら合図してくれ」
そう言ってタニアの背中をそっと押す。タニアは振り返り、素早くトーニオの唇に自分の唇を重ねた。
「ありがとう、助けてくれて。あなたが助けてくれた分、長生きしてみせるよ。それと……もしできたら、私も探してあげるね。本物のトーニオ」
「ああ、そうしてくれ」
タニアは建物の影を出て〈白鯨号〉に向かった。船員と話して、甲板に上がっていく。
それからしばらくの間、トーニオはそこにいた。だが、タニアが合図を送ってくる事も、戻ってくる事もなかった。
上手くいったのだろう――そう判断して、トーニオは城に戻っていった。
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