6.ランスベル ―盟約暦1006年、秋、第13週―

 目が覚めたランスベルは、一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなって混乱した。内容は思い出せないが、とても現実感のある夢を見たせいかもしれない。


 ここは、ファランティア西部の商業都市フレスミルにあるエイクリム商会。その屋根裏にある自分の住み込み部屋だ――傾斜のついた低い天井の木目を見ながら、説明的に自分へ言い聞かせる。それから頭を巡らせて部屋を見回す。


 一七歳になっても同世代と比べて背の低いランスベルには、天井の低さは問題にならない。ホワイトハーバーの実家にある自分の部屋と比べて手狭で、ベッドの他には小さな机と、床に直接座るための小さな円形の綿入れクッションがある。この円形の綿入れクッションは初めての給金で買ったものだ。


 小さな机の上にはペン立てとロウソクが置いてある。このペン立ては、エイクリム商会の主マグナルが「たまには家族に手紙でも書きなさい」と言って買ってくれた。


 床には四冊の本が詰まれ、一冊はベッドの上にある。ランスベルの好きな冒険物語の連作である。


(全部思い出せる。大丈夫だ)


 再び天井に目を戻し、確認するように記憶を辿る。


 ランスベルが七歳の時、父のホルストは家族を集め、家業の経営状態について正直に話した。繊維貿易をしていた相手国で内乱が始まり商売に支障を来たしている事や、先代からの遺産もほとんど底をついてしまった事、そして、これからどうするかという事について。


 ホルストは新たな貿易相手を探すためにテン・アイランズに行くと言った。その間、家はランスベルの兄ガスアドと母クレーラに任せ、ランスベルには働きに出て欲しいと頭を下げた。


 父がそのような態度に出たのは七歳のランスベルにとって初めての事で、驚いた。そして同時に、嬉しかった。


 ランスベルはそれまで自分に価値を見出していなかった。家を継ぐのはガスアドで、自分はその予備か何かのようにしか思えなかったし、父の態度もそっけないものであったからだ。


 この時初めて、ランスベルは自分に存在価値があると思えた。だから、ホワイトハーバーから遠く離れたフレスミルまで働きに出されても苦に思わなかった。


 それから一〇年、ランスベルはエイクリム商会で働きながら、得た給金のほとんどを実家に送っている。自分自身のためには、二年に一度、本を一冊買うためにしか使っていない。だから、この部屋に本は五冊しかない。


 全てを思い出し、やっと安心してランスベルはベッドから出た。


 一つだけある小さな丸窓の隙間から漏れる薄明は、もうすぐ夜明けである事を告げている。起きて、仕事を始める時間だ。


 ランスベルは屋根裏部屋から梯子を伝って下り、一階の商店までやってきた。掃除道具を持って中央通りに出る。


 フレスミルは西部の内陸にある商業都市だが、エイクリム商会のある中央通りはホワイトハーバーの大通りにとてもよく似ていた。


 その事に、一〇年も過ごして見慣れているはずなのに、ランスベルは改めて驚いた。実家に向かう道すら思い浮かぶほどだ。


 最後に実家に行ったときは夜中だった――ふと、そんな事を考えて、怖くなる。


 実家を出てから一度も帰ってないし、夜中に帰宅した経験もないはずだ。しかも、その時一人ではなかったような気さえする。


(店が並ぶ大通りなんて、どこも同じさ。それにたぶん、そういう夢を見たんだ)


 そう結論付けると、血の気が戻ってきた。


(そんな事より、早く開店準備を済ませなきゃ)


 ランスベルは考えるのを止めて、仕事に集中した。


 午後になり、ランスベルは商店のカウンターから表の通りを見ていた。店内に客はいない。


 客がいないのは商売として良くないのだが、この客がいない空白の時間がランスベルは好きだった。ただ呆然と道を行き交う人を眺めているだけで、時間は穏やかに過ぎていく。


 実家にいた頃、商店にいたのは主に母で、父は外に出ている事が多かった。ランスベルは商店に顔を出すなときつく命じられていたのだが、ごくまれに、母が招き入れてくれる事があって、そんな時は二人で店の大きなガラス戸の向こうを眺めて過ごした。


 いつも父の従属物のようだった母クレーラは、客前でこそ笑顔でおしゃべりだったが、仕事以外では無口だった。ランスベルもどちらかと言えば無口な性質なので、二人ともただ黙って通りを見ていた。


 あれはあれで、大切な時間だったな――と、ランスベルは思い出していた。実家を離れてフレスミルに来てから気付いた事だ。


 扉が開き、取り付けられた小さな鈴が鳴って休憩の終わりを告げる。

「いらっしゃいませ」

 ランスベルは立ち上がって声をかけた。


 入ってきたのは背の高い赤毛の女性、アリッサだ。大きなガラス戸から差し込む光を背に受けて、その髪は燃えるように鮮やかである。髪の色が頬に映って、血色が良く健康的に見えた。薔薇のように赤い口紅も髪の色に良く合っている。年齢的にはランスベルよりずっと年上で四〇歳を過ぎているらしいが、すらりとして女性的な曲線を描く身体の線は美しい。


 一緒に入ってきたのは、アリッサと対照的な外見をしているドンドンという少年だ。一五歳だと聞いているので、ランスベルと二つしか違わないのだが、物言いや態度は子供のそれだ。


 二人は一緒に暮らしているが血縁ではないらしい。どんな事情があるのか、ランスベルは知らない。


 ランスベルはいつものように笑顔で話しかけた。

「アリッサさん、今日は何をお探しですか?」


 アリッサも微笑みを返す。思わず胸が高鳴る微笑だ。


「こんにちは、ランスベル。今日は私のものではなくて、ドンドンの服を仕立てようと思っているのだけれど、良い生地がないかなと思って」


「なるほど」

 ランスベルは頷き、ドンドンに向かって尋ねた。

「ドンドン君は、好きな色とか布の種類とか、あるかなあ?」


 ドンドンはランスベルよりさらに背が低く、よく太っていて横幅は二倍くらいある。くせの強い黒髪の下にある目は気弱そうで、人とは目を合わせない。今もアリッサのスカートをぎゅっと掴んで、顔を背けている。


 ランスベルはしばらく笑顔でドンドンの反応を待ったが、口を開いたのはアリッサだった。


「緑が良いかもしれないわ。あまり濃くないもので……あ、白と、海を連想するような青は駄目なの」と、最後のほうは小さな声で囁くように言った。


「そうすると、この辺りでしょうか」


 ランスベルは二人を案内して、店の一角に移動した。緑の生地が並ぶ棚を見ながら、続けて問う。


「どんな服を仕立てる予定ですか? それによって種類もある程度決まってくると思いますが……」


 アリッサは指を顎に当てて、布を見ながら答える。

「ローブを作るの。魔術師のローブよ」


「魔術師の……」


 何故か胸がずきんと痛み、ランスベルは呟いていた。全身の皮膚がぴりぴりとして、眩暈もしてくる。


「大丈夫? 顔色が悪いわ」

 アリッサがランスベルの顔を覗き込んで言った。


(今は仕事に集中しなきゃ……)


 自分にそう言い聞かせて、いつの間にか出ていた冷や汗を拭いながら答える。


「大丈夫、です。ローブ……ローブですね」


「ええ、そう。なるべく丈夫なのがいいわ」と、アリッサ。


「どこか旅行にでも行かれるのですか?」


 ランスベルが問うと、アリッサはドンドンの肩に優しく手を置いた。


「ドンドンじゃなくて私がね。とっても遠くに行くの。だからしばらくドンドンの面倒を見てあげられない。もしかすると、これが最後かも……」


 不吉な事を言うので、ランスベルはなんだか怖くなった。アリッサの影が濃くなったような気もしてくる。


「や、やめてください。悲しい事を言うのは……」


 〝怖い事〟とは言わず、ランスベルは何故か〝悲しい事〟と口にしていた。


 アリッサは悲しげに微笑して、ほつれた赤毛を耳の後ろに上げた。そして気を取り直したように明るい声で言う。


「……ごめんなさい。それじゃあ、ドンドン、生地を選びましょうか」


 この日はアリッサとドンドンが帰った後も、来客が続いた。まるで王のように堂々とした貴族や、厳しい顔をした騎士など、どこか懐かしいような人々で――ランスベルはまた奇妙に思った。皆、フレスミルの住民なら毎日見かけていてもおかしくはないのに、なぜ懐かしいなどと思うのか。


 日が暮れて一日の仕事が終わり、ランスベルは店じまいをした。

 そして夕食を買いに行くため、中央通りを歩き出す。


 日没直後のこの時間、通りを歩く人々は不気味な影のように見える。それがランスベルは不思議だった。完全に日が暮れた後のほうが、むしろ人々の存在ははっきりする。この昼と夜の境界にある短い時間が、一日の内で最も人の存在がぼやけてしまう。


 ふと、すれ違う人の中に懐かしい気配を感じてランスベルは振り返った。人々の間に、背筋を伸ばして歩くマント姿の騎士がいる。編みこまれた長髪は真っ白だ。


(誰だろう、知っている背中のような……まあ、いいか)


 そして視線を戻そうとして、ランスベルはぎょっとした。


 居酒屋と、宿屋の間の狭い路地の奥に何かがいた。ずんぐりとした丸い影と、すっと縦に長い影。人間ではない、とランスベルは直感的に思った。それらは影の中で、ランスベルには聞こえない小さな声で囁き合っている。


「う、うわっ」


 ランスベルは驚きの声を上げて後退り、背後から「ランスベルさん」と声をかけられ、驚いた顔のまま振り向いた。そこには目の前にある宿屋の娘、マイラが立っている。


「や、やだなあ、そんなに驚きました?」


「えっ、あっ、いや、何か変なのが……」


 ランスベルは路地の奥を指差した。マイラもその指先を追って路地を覗き込む。しかし、そこには何もいなかった。


「えーっ、泥棒か何かかなあ……うち、そんなに儲かってないけど……」


 泥棒ではない。あれは人間ではなかった。それだけは確実に言える。だが、人間でないなら何だと言うのだろう――そんな事をマイラに言うわけにもいかず、ランスベルは誤魔化した。


「いや、たぶん、見間違いかな?」


「ふーん、本当ですか?」


 マイラは不審な目でランスベルをじっと見据える。


「ほ、本当。影が変なふうに見えただけだよ」


 ランスベルは嘘をついた。その時また、奇妙な感覚に襲われる。マイラに嘘をついて申し訳ないという気持ちになったのは二度目だとランスベルは思った。では、一度目はいつだったのかと考えても思い出せない。


「で、ランスベルさんはお仕事終わりですか? 買い物?」


 マイラが話を切り替えたので、ランスベルはほっとした。


「うん。パン屋さんに行こうかなあ、と」


「ああ、ニクラスのパンもだいぶ美味しくなりましたもんね」


 訳知り顔でマイラが言った。パン屋の息子ニクラスが練習で焼いたパンを、ランスベルが格安で譲って貰っている事を知っているのだ。ランスベルは答える代わりに苦笑した。


「でも、たまには自分へのご褒美っていうか……ちょっと贅沢してもいいんじゃないかなあって、思いますけど?」


 そう言ってマイラは両手に物を乗せて運ぶような動作をして、ランスベルの視線を宿屋の入口へと誘導する。マイラの実家の宿屋は一階が食堂になっていて、食事だけの客も入れる。実家にいた頃なら当たり前に入れたような店だが、今のランスベルにとっては高級な部類である。


「ああ、うん……ごめんね……」と、ランスベルは苦笑いのまま言った。


「あっ、私こそ、ごめんなさい。調子に乗りすぎました」


 マイラはぺこりと頭を下げ、それから心配そうな表情で続ける。


「でも本当に、お給金のほとんど全部を実家に送っちゃうっていうのは、頑張り過ぎてる気がします。それじゃあ、自分が何のために頑張ってるのか分からなくなっちゃいそう――」


 そこまで言って自分の口に手を当て、マイラは言葉を止めた。それからもう一度、頭を下げる。


「あっ、また私……ごめんなさい」


 ランスベルは、マイラが自分を心配しているのだと分かっているので気分を害したりしない。ただ、〝何のために頑張っているのか〟という言葉には引っかかるものがあった。


 いつものように安くパンを譲ってもらい、部屋に戻ったランスベルは蝋燭を灯した。そしてベッドの下から鞄を引っ張り出す。そこには銀行の送金証書と、実家からの手紙が入っている。手紙は全て母からのもので、部分的な違いはあるものの、内容はほぼ一緒だ。


『こちらは変わりありません。そちらはどうですか。いつもお金を送ってくれてありがとう。お兄ちゃんも私も助かっています』


 何のために頑張っているのかと問われれば、その答えに一番近いものはこれだと思える。自分が誰かの支えになっている事、誰かに必要とされている事――それさえ実感できれば、自分の存在に意味があると思える。


(あれ、なんだ、これ?)


 ランスベルは鞄の中に見慣れぬ封筒が二通入っているのに気が付いた。手に取ると、途端に鼓動が早くなって冷や汗が出てくる。


 これは見てはいけないものだ。見るな――自分の中で誰かが言う。


 それでも震える手で、一通を裏返した。差出人は父だ。こんな手紙は、ランスベルの記憶にはない。動悸が激しくなっていく。封筒の中から手紙を取り出すと、そこにはこう書かれていた。


『お前が命を差し出せば、俺たちは助かる』


「うわあっ!」

 悲鳴を上げてランスベルはその手紙を投げ捨てた。


 実家の地下倉庫で、肩を落とした小さな父と、その傍らで小さく手を振る母の姿が蘇る。


(なんだ、これは!?)


 混乱したまま、ランスベルは答えを求めてもう一通の手紙を開いた。確認するまでもなく、それは兄からのものだと分かっている。


『俺を助けろよぉっ!』


 文字と共に、兄の叫びが蘇る。身体の内側から爆発の圧力で膨れ上がり、無残にも破裂した兄の最後の瞬間も。


 ランスベルは恐怖のあまり絶叫した。

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