1.トーニオ ―盟約暦1006年、秋、第12週―

 トーニオは今、薄暗い部屋の中で壁を背に床へ腰を下ろしていた。そこはホワイトハーバーにある宿屋〈白かもめ〉の一室で、窓の戸は閉まっている。僅かな隙間から射し込む冬の日差しが、光の幕のように部屋を横切っていた。


 その向こうにあるベッドの上には、タニアがぐったりとして横たわっている。


 トーニオは彼女を少し恨めしく思った。気を抜けば、すとんと眠りに落ちてしまいそうなほど疲れていても、タニアのように横になるわけにはいかない。まだ安全が確保されたわけではないのだ。


 レッドドラゴン城を脱出した二人は、そのまま王都を出た。追っ手をかく乱する手段として、自分と背格好の似た男に偽の手紙を持たせて南部へ出発させたり、外国人の夫婦に金を渡して北部へ向かう荷馬車に乗せたりもしたが、それで安心するほどトーニオは楽観的ではない。


 ファランティア軍は当然として、帝国軍の目も避けて昼夜を問わず歩き続けてきた。ホワイトハーバー近くに隠しておいた服で〈みなし子〉の傭兵に変装して、この〈白かもめ〉まで辿り着き、すぐにアレックスを呼ぶように伝えたが、傭兵隊長はまだ姿を見せない。


 タニアはベッドの上で苦しそうに何度も姿勢を変えているが、手足の痛みに呻き声をあげる事は無かった。タニアもタニアなりに、まだ警戒心を保っているのだろう。


 レッドドラゴン城からの脱出、ホワイトハーバーまでの道中、どこかでタニアが脱落した場合は彼女を始末しなければならなかったが、そうはならなかった。それどころか、タニアは疲れたとか足が痛いとかいうような愚痴は一度も口にしなかった。まるでトーニオという命綱から手を離せば、死へと真っ逆さまに落ちてしまうと思っているかのように。今も彼女は黙って痛みに耐えている。


 まだ王都に潜伏していた頃、タニアとベッドを共にした後に、なぜ魔術師の手先をしているのかと尋ねた事があった。その答えは「死にたくなかったから」だった。それから、彼女は身の上話をした。


 タニアはエイースの出身で、父はファランティアから招かれた哲学教師、母はエイースの上級市民だった。エイースには奴隷制があったから、上級市民ということは奴隷を使う裕福な市民という事だ。


 彼女には魔術師を目指す弟がいた。エイースはブレア王国と親交があって、魔術大学の分校もあったから難しい事ではない。エイース市民なら入学金を支払えば誰でも魔術師になる事は可能だ。


 やがてテッサニア統一戦争が起こり、テッサ軍が侵攻してきて、エイースは降伏した。エイース市民の愛する詩と文学では、鉄の刃を払うことはできなかったのだ。


 奴隷身分の廃止と市民からの徴兵など、エイースは慌しくテッサニアの一部になっていったが、奴隷を使っていなかったタニアの家の生活はあまり変わらず、変化といえば両親が徴兵逃れのために弟を魔術大学へ入学させたくらいだった。


 彼女の生活に変化が訪れたのは、統一戦争が終わってテッサニア王国が成立し、その一週間後にアルガン帝国の属領になってからだ。


 アルガン帝国の魔術師狩りは有名だったから、タニアの父親も家族を連れてファランティアの実家へ逃れようと、密かに船を手配した。


 無事にエイースを脱出した船上で、安心する両親と弟を尻目に、タニアは生まれ故郷を離れて見知らぬ外国へ連れて行かれる事に不満を感じていたらしい。


 逃げるなら弟だけでいい筈だ。自分は関係ない――そう思っていたと彼女は言った。


 タニアの父親が知っていたかどうかは彼女にも分からないそうだが、この船の乗客はほとんどが魔術師であった。まるで逃げ出した魔術師を一網打尽にする罠だったかのように、船は海上で帝国軍船に捕捉された。魔術師たちは抵抗し、船上で激しい戦いが起こったが、抵抗むなしく捕らわれる。この戦いに巻き込まれてタニアの父親は死んでしまった。


 残された一家は帝国軍に掴まって犯罪者のような扱いを受けた。投獄された牢には一家の他にも魔術師やその関係者がいて、一人また一人と、どこかへ連れて行かれ、そして一人も戻って来なかった。


 弟が連れて行かれ、次に母親が連れて行かれて、タニアは一人になった。


 この時の恐怖をタニアは、「帝国兵に指差されただけで、処刑が決まったと思い込んで痙攣を起こしたくらい」だと語った。


 しかし、連れて行かれた弟は生きていた。彼は深夜にこっそりと会いに来て、帝国が秘密にしている魔術師団に誘われた事と、その仲間になれば殺されないと話した。そして、タニアに魔術師だと嘘をつくように勧めた。


 タニアは混乱した。魔術師は殺されるはずなのに、魔術師だと嘘をつけば殺されないとはどういう理屈なのか分からなかった。ただ、〝死にたくない〟という思いで弟の言うとおりにした。


 もちろん、そんな嘘はすぐにばれる。幼い弟の愚かな計画に乗ったタニアこそ、一番の愚か者だとトーニオは思う。


 審問官を前にして、フードの奥の覆面に隠された目に見つめられながら、「なぜ魔術師の存在を知っているのか」とタニアは詰問された。もし正直に話せば、弟に害が及ぶであろう事はタニアにも想像できた。だから恐怖に身を震わせながらも、一度は口をつぐんだ。


 すると、審問官は呪文を唱えて手を開いて見せた。その掌にはパチパチと音を立てて火花が散り、青白い光が指と指の間を走っている。審問官はニヤリと笑った。


「全身を鞭で打たれたような痛みだぞ。大人でも小便と糞を漏らして泣き叫ぶ」


 そこまで話を聞いたところで、トーニオは天井を見上げたまま口を挟んだ。


「それが拷問の始まりだった、というわけか。きっと凄まじい苦痛だったんだろうな」


 タニアは首を横に振った。彼女はその痛みを味わっていなかった。青い雷光がパリパリと這う掌を向けられただけで泣きながら全てを告白した。相手の審問官もさすがに呆れていたという。


「まだ何もされていないのに、お前を助けようとした弟を売るとはな」


 それは、話を聞いているトーニオも同感だった。


 タニアは泣きながら必死に命乞いをした。誰にも言いません、秘密は守ります、何でもします――そう言い続けているうちに、タニアはどこかの部屋に連れて行かれて、そこで召使いとして彼らのために働くことになった。


 その先は聞かずとも想像できる。ファランティアを狙っていた帝国の役に立つかもしれないと、身分を偽ってレッドドラゴン城に侍女として送り込まれたのだろう。


 話の最後にタニアは言った。


「私、痛いのも苦しいのも嫌。でもそれ以上に、死ぬのは絶対に嫌なの。そのためなら何だってする。だってそうしなかったら、お父さんが死んだ意味も、弟を売った意味もなくなってしまうもの。だから、私は絶対に死にたくないの……」


 トーニオはベッドの上であくびをしながら尋ねた。

「母親はどうなった?」


「知らない。聞いても教えてもらえないと思ったし、余計な事を知ろうとしていると思われるのが怖かったから」


 トーニオはタニアの話を全て信じたわけではなかったが、少なくとも「絶対に死にたくない」という言葉だけは信じてもいいと、今は思っている。


 アレックスが姿を見せないまま深夜になって、壁に背を預けたままうとうとしていると、ノックも無しに扉が開いてアレックスが入ってきた。杖をついて足を引きずり、右腕も上手く動かないようだ。何事かあったに違いないが、それについて聞く前にトーニオは尋ねる。


「お前の本当の雇い主は誰だ?」


「言えません」

 肩をすくめてアレックスは答えた。それでトーニオも少し安心した。


 アレックスはロランドから、真の雇い主が誰かについてはエリオにさえ答えてはならないと命じられている。同時に、エリオには虚偽の報告をしてはならないとも命じられていた。


 つまりエリオから〝本当の雇い主は誰か〟と問われれば、沈黙するか、回答を拒否するしかない。答えられない、ということはロランドの命令をアレックスが守っているという事だ。


「何があった?」


 トーニオに問われ、アレックスは苦笑して答える。


「俺も死んだんですよ。あなたと同じくね」


 そう言って、傭兵隊長は報告を始めた。


 エリオを殺害するよう指示を受けている事や、審問官に同行して竜騎士と戦った事、その時の怪我でまだ思うように動けない事――。


 審問官という言葉に、横になったままのタニアがぴくりと反応した。聞き耳を立てているようだ。トーニオの目の動きでアレックスも気付いたようだったが、そのまま話を続ける。


「帝国の隠し玉を見てしまった以上、そのままというわけにはいかないと思いまして。死んだ事にして身を隠したわけです。ところがクリスとかいう審問官に見つかってしまいまして、肝を冷やしましたよ。やつはエリオがまだ生きている事も知っていました。城に潜入させた侍女の裏切りもね」


 ガタッ、とタニアの寝ているベッドが音を立てた。


「不気味なやつで男か女かも分かりませんでしたが、俺を殺しても意味がないと理解していました。それで、俺が審問官の秘密を守る限りは今後も俺に構わないという条件で、竜騎士に関して気付いた事を全部話しました。それ以来、連中には会っていません」


「そうか」と、トーニオは頷いた。疲れていて考えるのが億劫になっていたが、審問官に関しては一旦無視しても良さそうだと思った。ロランドの邪魔にならない限りは手を打つ必要はない。


 いや、違うな。ロランドから指示がない限り何もする必要はない、だ――とトーニオは頭の中で言い直した。


「俺とこの女をテッサに戻れるよう手配できるだろうか?」


 トーニオが尋ねると、アレックスは少し考えてから答える。


「そうですね、傷病兵をテッサニアに帰す船があります。そこに〈みなし子〉の傭兵として乗れるようにしましょう。船旅の間、正体がばれたらどうにもなりませんが」


「それでいい」と、トーニオは頷いた。


「もし俺たちの正体に気付いた奴がいたら、たぶんそいつは酒に酔って夜の海に落ちてしまうだろう」


 アレックスはニヤリとした。

「いいでしょう。では、出航までこの部屋にいてください」


 傭兵隊長は立ち上がり、先端を布で包んだ杖を突いて部屋を出て行こうとして、振り返る。


「お見送りはしませんので、これで会うのは最後かもしれませんね。ところで何と言いましたか、あなたの名前は?」


「トーニオだ」


「そうでした。名前を覚えるのは苦手でして」


 アレックスは肩をすくめて、部屋から出て行った。

 やっと安心して、トーニオは壁を背にして座ったまま脱力する。


「信用できるの?」


 ベッドからタニアが小さな声で尋ねてきたが、答えるのも面倒で、トーニオはそのまま眠りに落ちた。


 翌日、遠慮がちに扉を叩く音でトーニオは目が覚めた。全身の痛みに呻きながら壁に手を付いて何とか立ち上がると、扉を開く。そこにはまだ少年と言ってもいい年頃の若い傭兵がいて、短く用件だけ言った。


「隊長に言われて必要なものを持ってきました。部屋に入れても?」


「ああ……うん」


 眩暈を感じながらトーニオが答えると、少年は部屋の中に食事や飲み物、それと変装用の服や持ち物を運び入れた。


 少年は最後に扉の前で「出発は明日です。では」と言って部屋を出て行った。

 良く仕込まれているな――と、トーニオが感心していると、ベッドの上のタニアが上体を起こす。


「食えるか?」


 トーニオが問うと、タニアは「飲み物なら……」と答えた。


 テーブルの上に置かれた陶器製の瓶を持ち上げて匂いを嗅ぐと、甘いワインの香りがする。それを二つの杯に注いで、トーニオはベッドまで持って行った。腰を下ろし、杯の一つをタニアに渡す。


 これから二人の偽名や、口裏を合わせるための設定を考えなければならないのだが、まだ頭がぼんやりしている。

 頭がはっきりするのを待っていると、タニアが唐突に話を切り出した。


「任務に失敗したのに戻るの?」


「任務に失敗したから戻るんだ」

 考えるまでもなくトーニオは即答する。


「任務に失敗したエリオは用済み……っていう可能性もあるんじゃない? 怖くないの?」


 何年も密偵としてレッドドラゴン城に潜入していた女が何を――とも思ったが、彼女の話が本当ならタニアは密偵としての訓練は受けていない。そこが逆に密偵らしく見えなかった、という事はあるかもしれないが。


 それはともかく、タニアに忠誠心は期待できないとトーニオは改めて思った。この後の船旅でも、そのつもりでいたほうが良いだろう。


 そんな事を考えながら、トーニオは答えた。


「怖くないな」


「殺されるかもしれないのに、よ?」


 しつこくタニアが食い下がる。杯の中のワインを見つめるタニアの横顔には恐怖が見て取れた。トーニオが殺されれば、自分も殺されると考えているのかもしれない。


 死を恐れる気持ちは理解できるが、共感はできない。タニアが普通より臆病で、自分が鈍感過ぎるという認識はあるが、共感できないものは仕方が無い。そんな事よりも、タニアが死への恐怖から予想外の行動をするほうが心配だ。


 まだ痛みが残る足をベッドの上に持ち上げて、トーニオはタニアに肩を寄せ、横顔を覗き込むようにして優しく言う。


「大丈夫だ。俺の主人は、そういう人間じゃない。それに、お前の命だけは守ってやるよ」


 一切の罪悪感がないまま嘘を吐いて、タニアの肩に手を回す。タニアはやっと顔を上げて、不安な気持ちを隠そうともせずに言った。


「……本当?」


「本当だ。約束するよ」


 そう言ってトーニオは、タニアの唇に自分の唇を重ねた。そして彼女の凝り固まった恐怖を解きほぐすように、優しく愛撫して、ベッドに身体を押し付けた。

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