2.アベル ―盟約暦1006年、秋、第12週―

 旧ブレア王国サンクトール宮の廃墟で、アベルは水盤を前にして〈月の瞳アイ・オブ・ザ・ムーン〉の呪文を唱えていた。


 その場所は四方を壁に囲まれた四角い小さな庭で、ちょうど真上に来た月の光が降り注いでいる。好条件と〈選ばれし者〉の強大な魔力、そして執念によって、〈月の瞳アイ・オブ・ザ・ムーン〉は初めて成功した。


 水盤の中には自らの血を数滴垂らしてある。アベルにとっては忌々しい事だが、その身を流れる血はアリッサから受け継いだものである。彼女を探す触媒になり得た。集中して呪文を維持し続けたが、水盤には何の変化もなく、何も見えない。ついには諦めて、アベルは呪文を止めた。アリッサは見つからなかった。


 母親の死は、セドリックから告げられた。


 アベルは思わずセドリックを睨みつけ、「魔女を殺すときは俺にやらせると約束したのに!」と声を荒げてしまった。そんなアベルの両肩に手を置いて、セドリックは少し悲しげに言った。


「約束を破って悪かった。しかし、お前の手を母親の血で汚したくはなかったのだ……」


 アベルは自制してそれ以上は何も言わず、頭を下げて退室したのだった。


 これまで何度も失敗している〈月の瞳アイ・オブ・ザ・ムーン〉に再挑戦したのは、アリッサがしぶとく生き残っていやしないかと確認したかったからだ。


(あの魔女なら〈月の瞳アイ・オブ・ザ・ムーン〉から身を隠す方法を知っているかもしれないが……セドリックを欺けるとは思えない……)


 アベルは水盤の水を地面にぶちまけ、描かれた魔術円マジック・サークルを足で踏み消し、その場を去った。


 自室に戻って、大切にしている審問官のローブを着たまま倒れこむようにベッドへうつ伏せになる。呪文のためだけでなく、立て続けに起こった出来事により心身ともに疲れていた。


 セドリックにはついカッとなってしまったが、実のところアベルが感じていたのは空しさだった。心の中の、母への怒りと憎しみが占めていた部分が、すっぽり抜け落ちてしまったような感じだ。母を許せない事に変わりはないが、それに感情が伴わない。


 こんなものか、あっけない――と、アベルは気持ちに区切りをつけた。

 何も復讐のためだけに生きてきたわけではない。その機会があれば、そうするつもりだったというだけだ。


 それに、今はもっと重要な事がある。

 最後の竜騎士から、その力の源を奪うというセドリックの計画が失敗に終わってしまったからだ。


 その日、クリスから〈念話テレパシー〉で接触されたような気がして、アベルは〈念話テレパシー〉を返したが通じなかった。クリスを転移テレポートで戻そうとすると強い抵抗感があった。それでも力ずくで手を伸ばしたが、クリスはもやもやしたよく分からないものに包まれていて、触れているのに掴めないような感覚だ。二つの違う魔法が、自分の力に干渉している。それはとても気持ち悪くて初めての経験だった。


 代わりに、同行していた二人の審問官を転移テレポートで戻すと、二人とも死体になっていた。一人は胸が潰れていて、もう一人は頭が縦にぱっくりと割れている。


 しばらく転移テレポートを試みて、やっと引き戻せたクリスは酷い有様だった。右手は肘から先が無く、全身は干からび、顔は苦悶の叫びを上げた表情のまま萎えている。魔法によって殺されたのは明らかだったが、それがどんな魔法なのかも分からない。


 これはアベルにとって恐怖であった。自分が同じ状況に陥った時にも転移テレポートで脱出できない可能性があるからだ。


 しかし、自分の力が通用しないという恐怖は二回目である。ファランティア王暗殺のためにレッドドラゴン城へ侵入した時にも、自分の力が通用しない相手と出会っている。アリッサを庇うように立つ太った少年の、生意気にもアベルを睨みつける小さな目を思い出すと怒りが蘇ってきて恐怖を忘れさせてくれた。


 クリスたちが最後にいた場所は、〈世界の果て山脈〉の南側の山中だ。誰か――おそらくクリスだろう――がアベルの焦点具フォーカスを現地に置いていたおかげで、審問官を送り込む事はできたが、周囲を調査しても竜騎士たちの足取りは掴めなかった。降り積もる雪に足跡は消されてしまい、魔術による追跡も何かの魔法に遮られて働かない。


 それで、セドリックは竜騎士が手の届かない場所に行ってしまったと判断して追跡を断念した。

 結果、アベルが何年も前から任されている任務はより重要になった。


 ブレア王国には〝禁呪〟と呼ばれる危険な呪文が封印されている。捕らえた魔術師から引き出した情報によれば、それらは王家が封印し、管理していたという。


 アルガン帝国によって滅ぼされた後、ブレア王国で発見された魔術で最も強力なものが〈雷撃ライトニング〉の呪文だ。戦闘魔術師バトルメイジなら全員が習得しているこの呪文は、何人もの騎士を一瞬で焼き殺し、一撃で城門を破壊できる。確かに強力ではあるが、〝禁呪〟と呼ばれるほどのものではない。


 王家の秘密に迫れるのは王家の者だけ、と考えたセドリックはアベルに捜索を任せた。「ただし、これは秘密の任務だ。アベルに一人でやってもらわなければならない。他の審問官にも私の許可なく話してはいけないよ」と、セドリックは付け加えた。


 その理由を尋ねると、セドリックは慎重に小さな声で答えた。


「レスターは今でこそ我々審問官、いや魔術師の力を必要としている。だが、いずれ必ず、我々を消そうとするはずだ。その時に備えて我らは帝国に対抗し得る〝力〟を隠し持っておかなければならない。私の真の目的は、魔術師を助ける事にあるのだよ――しかし残念ながら、すでに皇帝側と繋がっている審問官もいると、私は考えている」


 この言葉は同時に、セドリックがアベルを信頼しているという証でもある。その信頼と期待に、アベルは応えなければならない。しかし未だ、手がかりすら得られていないのが現状である。


 くそっ、早く見つけ出さなければ――アベルは焦燥感に苛まれながら、ベッドの上で仰向けになった。


 幼い日の記憶に手かがりはないかと、アベルはブレア王国が平和だった頃を思い出そうとした。忘れようと心の奥底に封じ込めていた記憶だ。


 これまでは、両親を思い出す事に耐えられなかった。心が引き裂かれる苦痛を味わうからだ。しかし、母が死んだ今、その記憶は胸に鈍痛を残すだけで、それほどアベルを苦しめはしない。


 目を閉じて昔の思い出に浸っているうちに、アベルはいつの間にか眠りに落ちていた。


 アベルには夢を見ているという自覚があった。幼い子供の目線には、天井がとても高く見える。アベルは廊下をよちよちと歩いていた。ぼやけて顔の見えない大人たちが親しげに自分の名を呼び、誰もが笑顔だ。廊下の先では、父と母が待っている。


 前に出てアベルを抱きかかえようとする母を父が制した。アベルに自分で歩いて来させるつもりだろう。足は痛み、頭は重かったが、アベルは頑張って父と母の元まで歩いた。成長したアベルからすれば決して長身ではない父も、夢の中では巨人のように大きい。


 両親の元まで辿り着いたアベルを父が抱き上げて、言った。


『よく頑張ったな、息子よ。褒美をやるぞ。何でも申してみよ』


 アベルは答えようとしたが、舌がうまく動かない。母は笑顔で『ウィル、まだ無理ですよ』と笑う。


 アベルは頭にきて、言葉で発する代わりに強く念じた。


(父上、ブレア王国の秘密を私に下さい。魔術師を守るために。あなたに代わって父親になってくれた人のために!)


 父は真剣な表情で、頷いた。


『分かった。アベルよ、お前にブレア王国の秘密をやろう――』


 目が覚めた時、アベルは両手をぐっと握り締めていた。強く握りすぎて痛むほどだ。室内は完全に闇の中で、何も見えない。


(どれくらい眠ってしまったんだろう)


 ゆっくりと手を開いて、ベッドの上で身を起こし、強張った指をほぐす。それから指で印を結んで〈光球ライティング〉の呪文を使った。天井付近に光源が出現して、パッと部屋を照らす。


 アベルは驚きのあまり硬直した。


 部屋の扉の前に誰かが立っていたのだ。まるでクリスのように気配を感じなかったので、心臓が飛び出るくらい驚いた。硬直の後、アベルはいくつかの呪文を頭の中で準備しながら問うた。


「お前、何者……いや、何だ?」


 そこに立っている〝何か〟は一見したところ、黒い鎧の騎士である。全身を覆う板金の甲冑に、顔を完全に覆う兜を被り、肩からマントを垂らしている。鎧姿に相応しく腰には剣を吊るしていた。身長はアベルと同じくらいで、体格に合わせて作られた鎧は細身の印象である。


 見た目はそうであっても、それは人間ではない。兜に開いた覗き穴の奥には暗闇しかない。〈魔力感知ディテクト・マジック〉を使うまでもなく、強い魔力を肌で感じる。


 鎧や、あるいは人型にした泥人形にかりそめの命を与える高度な魔術は存在する。この騎士はそうした魔術の産物かもしれない。あるいは、アベルでも騙せるほどの実在感を持った、高度な幻影かもしれない。


 いずれにせよ、〈識別アイデンティファイ〉の呪文ではっきりする――アベルが呪文を唱えようとした時、黒騎士は言った。


『アベルよ、お前にブレア王国の秘密をやろう』


 それは夢の中で父が言った言葉だ。鎧の内側から響く声は空ろで、恐ろしげで、性別を感じさせなかった。黒騎士はアベルの返事も待たずに背を向けて扉を開き、部屋の外へ出て行く。マントに描かれた紋章は、ブレア王家のものだ。


 それでアベルは思い出した。騎士の鎧は、絵画に描かれた父が身につけていたものだ。まさか、まだ夢を見ているのだろうか――と、アベルは疑った。


(だが、夢でも現実でも構わない。ブレア王国の秘密が手に入るなら)


 アベルは部屋を出て黒騎士を追った。


 黒騎士は鎧を着ているにも関わらず、音も立てず、素早かった。しかしアベルが見失わないように待ってくれている。〈光球ライティング〉の呪文で周囲を照らしながら黒騎士を追って、サンクトール宮の廃墟を歩く。崩れた回廊を抜け、焼け落ちた建物の中を通り、胸まである雑草を掻き分けて進む。


 やがて黒騎士は王宮の最奥にある小さな植物園までやって来て、その中央で止まった。生い茂った植物の中に埋もれるようにして、錆びて傷ついた金属の円盤がある。その円盤を囲むように石柱の基部があった。本体は崩れてしまったのか、石材が点々と植物に埋もれて散らばっている。金属の円盤は日時計ようだ。


『入口を一時的に修復する。王家の者だけが使える〈魔術師の門ウィザード・ゲート〉だ。今から私が開くが、通れるのも王家の者だけだ』


(王家の者だけが使える門を開くだと?)


 アベルが怪訝な顔をする前で、黒騎士は手を伸ばした。椀甲や篭手の隙間から闇が触手のように伸びて草に埋もれた石材を持ち上げる。あっという間にそれらを組み上げて石のアーチを復元した。アーチは闇の触手に支えられているだけなので、その支えを失えば崩れてしまうだろう。


 黒騎士が石のアーチに触れると、そこから呪文が青白い光を放って浮かび上がってアーチ全体に行き渡る。〈魔術師の門ウィザード・ゲート〉が起動したのだ。


 黒騎士はアベルを待っている。あとはアベルがこの黒騎士を信じるかどうかだけだ。この門の向こう側がどうなっているかは分からない。出口のない場所でもアベルには問題ないが、溶岩の中など、出た瞬間に即死するような場所だったら終わりだ。


 アベルは黒騎士に尋ねた。

「お前、父上の悪魔か?」


 世の中の多くの人間は悪魔を誤解している。悪魔が魔界に住む生物で、人間をたぶらかしたり、乗っ取ったりして、この世界に現れると信じている。そんなのはおとぎ話だ。事実は逆で、人並みはずれた強い感情が魔界の魔力を吸い上げて悪魔が生まれる。魔界から悪魔がやってくるのではなく、人間の激情が魔界から魔力を奪って悪魔を生み出すのだ。


 多くの場合、魔術師の中に生まれた悪魔によって他の感情は侵食されていき、やがて魔術師の肉体までも支配して悪魔化する。特に強力な魔術師の場合だと、本人とは別に魔力だけの身体を持った悪魔が出現する事もある。この場合、魔術師本人は存命でも廃人になってしまう事が多い。悪魔に魔力通路を奪われてしまうだけでなく、核となる強い感情に引っ張られて他の感情も奪われてしまうからだ。


 いずれにしても悪魔は核となった感情や、その感情をもたらした想いに従って行動する。


 アベルはこれらの知識を本から得たが、悪魔化の原理は完全に解明されているわけではない。だから死の直前に父が悪魔を作り出していた可能性はあるものの、それが今まで現れなかった理由は分からない。


 以前からこのサンクトール宮に存在していて、アベルの強い感情に応じて実体化したという事もあり得る。


『そうだ』と、黒騎士は答えた。


 その声からはいかなる感情も感じ取れない。嘘をついていても分からないだろう。悪魔は、自分の目的のためなら簡単に嘘をつく。倫理観や善悪というものがないから、人間の嘘よりも見抜くのは困難だ。


 アベルは迷った。大抵の危機には対処できるから、この千載一遇の機会を逃すべきではないと分かってはいる。この悪魔を信じるなら、この〈魔術師の門ウィザード・ゲート〉を使うには王家の者が二名で協力しなければならない。一人が門を開き、一人が通過するためだ。


『私はお前の呼び声に答えし者。お前の望みが、私の望み』


 アベルは決心した。最初から選択肢など無かったのだ。


「悪魔よ、お前を信じることにする」


 そう言って、〈魔術師の門ウィザード・ゲート〉に足を踏み入れた。


 転移テレポートする時のいつもの感覚に似ているが、行き先を選べず出口に向かって落ちていくような感覚があって、一瞬でアベルはどこかに出た。すぐに用意していた〈防御プロテクション〉の呪文を張り巡らせる。周囲は真っ暗で、足の下には固い石床の感触がある。改めて呪文を唱えて〈光球ライティング〉作り出し、周囲を照らす。


 かび臭い空気に満たされた室内は石造りで、窓のようなものは無かった。部屋は円形で、湾曲した壁にはずらりと書架が並んでいる。全部で一〇架あった。


 壁には鬱蒼と生い茂る森の絵が描かれている。ブレア王国は乾燥した荒野にあるので雨季以外には雨が降らない。だから壁の絵にあるような森はないし、植物が生い茂るのは雨季の間だけだ。そのためか、このような森や植物の絵を壁に描く事が多かった。この部屋だけ特別というわけではない。


 アベルは懐から自分の焦点具フォーカスを取り出し、足元に置いた。これで〈魔術師の門ウィザード・ゲート〉を使わなくてもここに転移テレポートできる。念のため、いくつか焦点具フォーカスのコインを置きながら書架を眺めて歩く。


 書架には戸が付いていて鍵が掛かっていた。魔法の罠があるかもしれないので迂闊に手は触れない。〈魔力感知ディテクト・マジック〉や〈罠発見ファインド・トラップ〉あるいは〈識別アイデンティファイ〉の呪文を試してみるか、と思った時、背後から悪魔の声がした。


『ここは禁断の書庫だ。黒魔術師が秘密裏に研究していた危険な呪文や、白魔術の研究過程で発見してしまった危険な呪文になりうる知識が封印されている』


 振り返ると、騎士の姿をした悪魔がやはり気配もなく立っていた。悪魔は書架の一つを指差して言った。


『お前の求める黒魔術に関する書架はこれだ。他は全て白魔術に関するものだ』


「なんだって?」


 古の時代より、魔術師たちは魔術を九つの系統に分類していたが、それとは別に思想や目的による分類もあった。人の命を守る白魔術、敵を退ける黒魔術という分け方である。そこから白魔術師、黒魔術師、そのどちらでもない赤魔術師という呼称が用いられるようになった。こちらのほうが一般人には理解しやすいからだろう。


 セドリックの求める〝力〟となり得る〝禁呪〟は、全て黒魔術に属するものとアベルは思い込んでいた。


「逆じゃないのか?」


『危険な呪文の多くは、白魔術の研究中に発見された。例えば〈雷撃ライトニング〉の呪文は、作物を育てるために研究していた天候操作の白魔術を黒魔術に転用したものだ』


 悪魔は話しながら書架に沿って歩き、一番奥の書架の前で立ち止まった。


『乾燥した空気、夏に吹く熱風、それらをどうにかして欲しいという民の願いから研究された白魔術がここに納められている。その研究過程で空気を変成させる方法を発見してしまい、封印された』


 悪魔はそこまでしか言わなかったが、アベルは理解して、ぞっとした。空気を変成させることができるなら、例えば空気を致死性の毒に変えてしまう事もできる。どの程度の範囲まで効果が及ぶかにもよるが、大量の生き物を一気に殲滅できるだろう。


 だがそれこそ、セドリックの求めている〝力〟だ。


 ここにある知識を使えば、魔術師が世界を支配した古の時代を復活させることもできるのではないか――アベルの気分は高揚した。


 悪魔はそんなアベルの横顔をしばらく見ていたが、やがて書架の前を離れて奥の壁まで歩き、手を付いた。


『書架を開く鍵は奥の部屋にある』


 そう言って、森の絵に隠された呪文に触れていく。青白い光に縁どられて森の絵の一部分にぴしりと長方形の線が入った。悪魔が扉を押し開く。


「この場所はどこにあるんだ」


 奥への扉に向かって禁断の書庫を横切りながら、悪魔に問う。


『サンクトール宮の地下深くにある。細い空気穴でしか地上とは繋がっていない』


 悪魔に続いて隠し扉をくぐると、そこは書庫よりも大きな部屋だった。一つの巨大な岩石をくり抜いたような滑らかな壁の、半球状の部屋だ。書庫を作った建築技術とは一線を画す高度な技術によって作られている。部屋の中心には、天井から枯れた植物の根が垂れ下がっていた。


 部屋の中には、治療師や錬金術師が使うような器具が置かれたテーブルがいくつもあり、何に使うのか分からない人間ほどの大きさの器具もある。壁際には戸棚や書架などが並び、物を置ける板張りも湾曲した壁に沿って設置されている。


 この部屋は書庫のように片付いておらず、放棄される直前まで誰かが使っていたような散らかり様だった。壁に据え付けられた板張りの上にはメモを取っていたと思われる紙やペンが埃を被っていて、皮袋や箱なども乱雑に置かれている。


「錬金術の研究室か?」


 独り言のように言いながら、アベルは部屋を見て回った。埃を払ってメモを見てみたが、すぐには理解できそうにない。


 奥の壁には鍵が並んで吊り下げられている。それぞれ番号が振られているが、書架の鍵だとしたら一つ多い。全部で一一個の鍵がある。その考えを読み取ったかのように悪魔が言った。


『一一番の鍵は、この奥に行く扉の鍵だ』


 アベルは一一番の鍵を取りながら、「どれだけ部屋があるんだ?」と尋ねる。


『次の部屋で最後だ。そこに、ブレア王国の真の秘密がある』


 次の部屋に何があるのか、アベルはわくわくしてきた。そうした子供っぽい感情を表現するのは恥ずかしいので、押し殺そうとして仏頂面になる。


 悪魔が指差す鍵穴に鍵を入れて回すと、ごうん、と音がして壁の一部に隙間が出来た。鍵を抜き取ってから手で押すと、開いた壁の向こうには下へと続く狭い階段がある。アベルは逸る気持ちを抑えて階段を下りた。


 階段の先に扉は無い。〈光球ライティング〉を前に飛ばして照らすと、そこにはまるで予想していなかった光景があった。


 部屋は大きな球状になっていて、壁は木の根か枝が密集して絡み合ったようになっている。湾曲した外壁に沿うように、壁と同じく木が絡み合って張り出し、通路を作っていた。球状の部屋をぐるりと囲む通路の中央は穴が空いていて吹き抜けになっている。


 この通路は三段になっていて、アベルが足を踏み入れたところは最上段であった。それぞれの通路は坂になっている部分で上り下りできる。


 アベルは〈光球ライティング〉の光量を最大にして部屋の中央に浮かべ、手すりも何もない通路の縁から下を覗いた。


 そこには、球体の底から生えた芽のような、球形の不気味なものがあった。よく見ると、部屋の壁と同じ根のようなものに支えられているが、球形の本体は独立したものだ。


 上部には平らになっている蓋のような部分があり、黒光りする昆虫の殻のようなもので出来ている。四つの三角形が合わさっていて、開くように見えた。


 全体の外殻は乾燥した生物の皮のようなもの――砂漠で死んでミイラ化した人間の皮膚に似ている――に覆われているが、ぼろぼろになっていた。その下を血管のようなものが無数に走っている。


 大雑把に説明するなら、黒い蓋が付いた生物的な袋、というのが一番近いだろう。


 アベルはしばらくその不気味な物体を唖然として眺めていたが、結局その程度の認識しか持てなかった。明らかに人間が生み出せるものではなく、形から用途を想像する事もできずに、「ここは……あ、あれは何だ……」と呟く。


 それを質問と受け取ったのか、悪魔は答える。


『一つ前の部屋を含め、ここはエルフの遺跡の中。あれはエルフが作ったもの。〈魂の炉ソウルフォージ〉と呼んでいたようだ』

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