10.ステンタール ―盟約暦1006年、秋、第12週―

 レッドドラゴン城内の大塔グレートタワー三階の一室で、ステンタールは近衛騎士の鎧を前にして悩んでいた。


 ステンタールは〈王の騎士〉として、戦争が始まってからは城下にある自分の屋敷ではなく、〈王の居城〉に近いこの部屋で寝泊まりしている。しかし任を解かれた今、この部屋には居られない。すでに近衛騎士の鎧以外の荷物はまとめられている。


 近衛騎士の鎧は、それを辞した者には相応しくないが、彼にとっては今は亡き主君より賜ったものである。やはり手放すのは忍びなかった。


(城下の鍛冶屋で近衛騎士の意匠だけ削るなり潰すなりすれば良いだろう……そのくらいは、許されるはずだ)


 ステンタールはそう考えて、近衛騎士の鎧を荷物に加えるべく包み始める。


 〈王の騎士〉たるステンタールの忠誠はテイアラン四九世にのみ捧げられたものだから、たとえ乞われても五〇世に仕えるつもりはなかった。それにステンタールには大事な役目が残っている。


 エリオ・テッサヴィーレを見つけ出して殺す――残りの人生はそのために費やす覚悟である。


 それからアルガン帝国の魔術師も見つけ次第殺す。ステンタールはその姿を見ていないが、暗殺に関わっているかどうかは関係なく殺すつもりでいる。


 そして叶うならば、暗殺を指示したであろう皇帝レスターの命もこの手で奪えればと願っている。


 分解した鎧を丁寧に包み終えて、ステンタールは立ち上がった。最後に一目見ておこうと窓を開く。王都で最も高い場所にあるレッドドラゴン城からはハスト湖も見えるが、湖畔にある自分の別邸までは見えなかった。しかし今頃は、最後の手向けにと送ったワインを飲んで、魔術師たちは眠りについた頃だろう。


 そんな事を考えていても、扉の向こうに現れた人の気配に気付かないステンタールではない。ゆっくりと短剣ダガーを掴み、腰の後ろでベルトに挟みこむ。


 扉の向こうの人物は少しの間留まっていたが、意を決したか、扉を叩いた。音は小さいが焦ったように早いノックだ。


 ステンタールは後ろ手に短剣ダガーの柄を掴んだまま、扉の横に立って「誰だ?」と問う。


 とても小さな声で答えが返ってきた。

「……アデリンです」


(アデリン王妃!?)


 ステンタールは驚いた。こんな夜更けに、自分の部屋をこそこそと訪れる理由が思いつかない。主君と仰ぐ人ではないが、訪問に対して扉を閉ざしているわけにはいかない。ステンタールは扉を開いた。廊下で小さな蝋燭の明かりを手にした女性は確かにアデリンだ。一人で、連れもいない。


「早く入れて下さい」と、女王は周囲を気にしつつ敬語で言った。


「これは失礼しました。どうぞお入り下さい」


 ステンタールは驚きを隠せないまま、身体をずらして道を開けた。アデリンがいそいそと部屋に入ったので、扉を閉める。


 部屋に立ち尽くすアデリンの後姿をステンタールは扉を背にして観察した。絹の下着の上から、すっぽりと被るだけの膝下まである貫頭衣を身に付けている。腰紐などで縛っていないため、裾が広がっており、もともと太めなアデリンをより幅広く見せていた。靴は履いておらず裸足で、ベッドから抜け出して来た、というような格好だ。


 とても高貴な女性の姿ではない。城下の裏通りにある場末の安宿で声をかけてきそうな女だ。もっとも、そういう女はアデリンほどに太ってはいない。アデリンは王とは思えぬほど肩を狭めて、何かを恐れているようであった。


「陛下、私にどんな御用向きでしょうか?」


 ステンタールは礼儀として膝を折って頭を垂れ、下を向いたまま問うた。


「ステンタール卿……その、〈王の騎士〉として、私を守ってくれないでしょうか?」


「その件ならば、お断りしたはず。我が剣はすでに先王へと捧げられたものであり、我が命ある限り、それは変わりません」


 そんな話をしに来たのではあるまい――と、ステンタールは心の中で付け加えた。そして、アデリンが話すのをじっと待つ。


「あ、貴方しかいない……そう思ったのです。先王への貴方の忠誠心は素晴らしく、まさに騎士の中の騎士と呼ぶに相応しいものだったから……貴方しかいないと……〈王の騎士〉という称号に拘らなくてもいいのです。個人的な護衛として側にいてくれるだけでも……でないと……」


 もごもごと、アデリンは言葉尻を濁した。何を言っているのか分からず、ステンタールはただ黙っていた。


「わ、私……こ、殺されます……」

 アデリンは震え声でそう言った。


「帝国の魔術師に、ですか。エリオ・テッサヴィーレなら誓って私が成敗し――」


「違います!」


 ぴしゃりとアデリンが言って、ステンタールの言葉を遮った。


「わた、私、だ、誰がテイアランを殺したのか知っています。その目的も知っています……」


「なんだと!?」


 驚きのあまり、礼を失してステンタールは立ち上がった。アデリンの顔は恐怖で真っ青になっている。


「どういう事です!?」

 詰め寄るステンタールに、アデリンはわなわなと震えながら話し始めた。


「あ、あの夜……私は、寝室で横になった後すぐに部屋を抜け出しました。その、怒らないで欲しいのですが、その……ブラン王のお部屋を訪ねたのです……」


 ステンタールはカッと頭に血が上った。それは彼の主君に対する裏切りの告白であった。その怒りの気配にアデリンは「ひっ」と息を呑む。


(この雌豚が!)


 アデリンを殴り倒したい衝動に駆られたが、なんとか心の中で罵倒するに留める。

 アデリンはステンタールの怒りが爆発する前にと、早口になって話を続けた。


「心配だったのです、私の家族が。父と兄弟たちがどうなったのか。いつになったら包囲を解いて助け出せるのか。それでブラン王なら、家族を助けてくれると思ったのです。ブラン王は、その……それで、夜中になって彼がベッドから抜け出したのに私は気が付きました。私には分かりませんでしたが、きっと、テイアランの部屋で起こった騒動を聞きつけたのだと思います。暖炉の上にあったナイフを手にして部屋を出て行きました。私は、知るべきでない事だと思ってベッドの中にいましたが、やがて廊下でテイアランの声がして……もしやブランが私の事を彼に話すのではないかと思って、慌てて扉に駆け寄って、隙間から覗き見を……それで、それで見てしまったんです。ブランが王を刺した瞬間を。王を殺したのはエリオではなく、ブランです!」


 ステンタールは驚きに目を見開いた。あまりの内容に言葉も無い。

 アデリンは両腕で自らの肩を抱き、震えながら、ふらふらとステンタールに近寄る。


「〝テストリア大陸に王は一人でいい〟と、あの男は言いました。私、絶対に殺されます。あの男に殺されます。あの恐るべき男に立ち向かえるのはステンタール卿、貴方しかおりません。私をお守り下さい!」


 胸に飛び込んできたアデリンを、ステンタールはぐいっと力ずくで押しのけた。アデリンはバランスを崩してフラフラと後退し、ベッドに脚をぶつけてその上にひっくり返る。


 ステンタールは自分の手と、倒れているアデリンを交互に見ながら、混乱した考えをなんとかまとめようと努力していた。


 主君を裏切るような汚らわしい女を信じるべきかどうか。もしかすると、ステンタールにブランを殺させようという策なのではないか。


(だが、そんな事をする必要があるか?)


 ステンタールは考える。あの場にエリオがいたという証言はブランからしか得られていない。暗殺の直後に城内から走り去る人影を見たという衛兵はいるが、それがエリオだったと言い切れた者はいない。


 同日に姿を消したタニアという侍女について、同室のマイラから話を聞いた時も、エリオではなくトーニオという男と駆け落ちしたのだとか何とか言っていた。その時は、マイラがタニアを庇っているか、事情まで知る協力者か、あるいは頭の中がお花畑になっているのか、そのいずれかと思った。


 もしマイラが真実を語っていたのだとしたらどうか。少なくとも、あの場にエリオがいたとはっきり証言したのはブラン一人だ。ブランは、エリオがテイアランを殺害した瞬間は見ていないと言った。ならば逃げ去る後ろ姿を見たに過ぎないはずで、どうしてそれがエリオだと言い切れたのか――。


 ステンタールはわずかに冷静さを取り戻して、アデリンに手を差し伸べた。


「錯乱してしまい、申し訳ありませんでした、陛下」


「いえ、いえ……いいのです」


 アデリンの生暖かい手が触れた時、ステンタールは汚物が触れたように感じてぞっとした。


 その話が真実か否かに関わらず、この女が主君を裏切ってブランと密通していたのは間違いない。乱れた着衣の隙間から覗く、白くて豊満な胸の谷間を見ながらステンタールは確信する。アデリンを立たせ、乱れた着衣を正してやり、その罪深く穢れた胸を隠した。


「陛下、今のお話は私の他に、誰かにしましたか?」


 ステンタールが問うと、アデリンは首を横に振った。

「とても恐ろしくて……誰にも言えませんでした……」


「ならば、事が済むまで黙っていてください。ブランは陛下が真相をご存知だと気付いていないかもしれません。後の事は私にお任せを」


 アデリンは一瞬、安心したようだったが、すぐにまた不安げな表情に戻った。


「私、耐えられるでしょうか……」


「大丈夫です。それほど長くはかかりません。私が仇を討ってご覧に入れます。それまでは今までどおりに振舞ってください。決して、私に会いに来たり、私に視線を送ったりしてはいけません。よろしいですね?」


 少し強めに言い聞かせると、アデリンは唇をぎゅっと結んで、頷いた。


「よろしい。では、お早く寝室にお戻りを。誰にも見つからないように」


 そう言って、ステンタールはアデリンを部屋の外に送り出し、さっさと扉を閉めてしまった。


 それから部屋を横切って、椅子に座り、腕を組んで考える。信じ難い内容ではあったが、信憑性は高いと感じられた。もちろん完全には信じていないので、これから確信を得るまで調べるつもりでいる。しかし所在も分からず神出鬼没なエリオを探し回るよりかは、おそらく楽だろう。


 確信が得られたら、人々の前でそれを公言して決闘を申し込む。ブランが身の潔白を証明するには、戦ってステンタールに勝つしかなくなる。


 北方で最強の戦士と噂されるブランであっても、ステンタールには戦える自信があった。自分はファランティアで最強の騎士だと自負しているのだ。その点で、アデリンは見る目があったと言えよう。


 しかし、こそこそと嗅ぎ回るのは騎士が得意とするものではない。まずはモーリッツを動かして探らせるのが良いかもしれない。


 ステンタールは机に向かい、紙を取り出してペンにインクを付ける。『ブランは陛下を裏切り殺――』と書き出したところで、モーリッツはブランの協力者かもしれない、という疑心がステンタールの手を止めさせた。そうでなくとも、この状況を利用して自らの利益を求める可能性はある。


 手を借りるならハイマンのほうが安心だが、最近はブランたちと話しているのをよく見かける。北方の戦術を学んでいる、とか何とか言っているらしいが、ブランに取り込まれている可能性もある。


(結局、信用できるのは自分しかいないという事か……)


 ステンタールは書きかけた手紙を丸めて、暖炉に放り込んだ。手紙を灰の中に押し込もうと火掻き棒を手にした時、再び控えめなノックの音がした。


 ちっ、とステンタールは舌打ちして扉に向かう。


(あの女、会いに来るなと言ったばかりなのに……)


 そう思いながら扉を開けて、ステンタールは一瞬固まってしまった。そこにいたのはアデリンではない、別の女だ。


 それがアリッサだとは、すぐには分からなかった。


 いつも身奇麗にしていたアリッサが、まるで寝巻きのまま大雨の中を彷徨って来たような格好である。特徴的な赤毛は闇の中で赤黒く、まるで内臓のような色に見えた。ぐっしょりと濡れて、室内の明かりをてらてらと反射しているせいかもしれない。不気味な姿に思わず鳥肌が立つ。


「なんだ。ワインの礼か?」


 それでも、アリッサに弱みを見せたくないステンタールの意地が、そのような物言いをさせた。


『ええ、そう。ワインの礼よ』


 まるで空洞の奥から漏れ出る風のような、空ろな声だった。緑色だった瞳はただの黒い穴のようで、その姿はステンタールの想像する魔女そのものだ。人間ではない、と直感的にステンタールは思った。


「なにもの――」


 それ以上、言葉は出せなかった。アリッサの腕が素早く伸びてきて、ステンタールは振り払おうとした。だが、アリッサの腕は人間のものではない動きで蛇のようにぐにゃりと曲がりながらステンタールの腕を避け、喉を掴む。


 その手を引き離す前に、一瞬でステンタールの太くて逞しい喉は握り潰された。

 くひゅっ、というおかしな音が口から漏れる。


 激痛に喘ぎながら、それでもステンタールは手にしたままの火掻き棒を相手の腕に叩きつける。ガチン、という金属を叩いたような音と反動が返ってきた。アリッサの腕はいつの間にか、黒い鎧に覆われている。


「――!」


 ステンタールは恐慌に陥ったが、騎士としての訓練が、彼に生きるための行動を起こさせた。


 火掻き棒を捨てて短剣ダガーを抜き、アリッサをめった刺しにする。何度も何度も刃を食い込ませる。しかしその手ごたえが、ますますステンタールを恐怖させた。肉を刺した、という感触ではない。強いて言えば砂の詰まった袋を突いたような感触だ。


 アリッサの姿をした〝何か〟の腕がステンタールの顔に伸びる。力ずくで相手を振り回そうと残った力を足に込めたが、びくともしない。


 驚きに見開いたステンタールの右目に、そいつの指が刺し込まれた。


 ピューッという音の悲鳴がステンタールの喉から漏れた。血の涙を流しながら、ますます相手の身体を殴り、刺し、振り解こうと全力を尽くす。しかし、ビクともしない。


 主君の仇を討たねばならぬ、という大義は今やステンタールの中にはない。ただ生き延びようとする本能的な衝動だけがあった。


 血に赤黒く染まった指が、残りの左目に迫る。恐怖のあまり目を閉じることもできず、ただそれを見つめている事しかできない。そしてすぐにまた、絶望的な激痛を味わい、ステンタールの視力は奪われた。


『そうだった。ワインの礼をするのだった』


 激痛と、窒息の苦しさと、恐怖の暗闇の中で、ステンタールはその〝何か〟が発する人間とは思えない恐ろしい声を聞いた。




〈次章へ続く〉

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