9.アリッサ ―盟約暦1006年、秋、第12週―
ハスト湖畔にあるステンタールが保有する別邸の一室で、アリッサは書状を読んでため息をつき、目を上げた。
机の前には高級なガラスを使った大きな窓があって、ハスト湖がよく見える。窓を開けて身を乗り出せば、桟橋から続く王都の白竜門と、その向こうにあるレッドドラゴン城も見る事ができた。
今は夜なので、王都の明かりが暗い湖面にゆらゆらとぼやけて反射している。
湖上には他にいくつかの明かりが点のようにぽつぽつと浮かんでいた。それは船上にいる衛兵が持っているランタンのものだ。細長く喫水の浅い木の葉型の川船が数隻、ソレイス川へ続く河口付近に浮かんでいる。一本のマストに四角い帆を張ったもので、その白い帆は闇の中でも光を反射して明るく見えた。
河口付近は何本もの丸太を鎖で繋いだ
アリッサは再び書状に目を落としたが、その内容が変わっているわけでもない。そこにはアリッサを再び宮廷魔術師として召抱え、この別邸に集められている魔術師たちを徴用する旨が通告されていた。相談されているのでも乞われているのでもなく、これは命令であった。
先王の暗殺を防げなかった責任を取り、処罰を待つという理由で宮廷魔術師を辞したアリッサだったがわずか三日で城に戻る事になる。それだけならまだしも、魔術師の徴用がついに現実のものとなってしまった。
先王を暗殺したのはエリオだとされているが、敵の魔術師の働きが大きいのも事実であり、新たに即位したテイアラン五〇世王とその周囲が同様の事態を恐れているとコーディーからも聞かされている。また、魔術師に対抗するには魔術師、という意見が強くなったのも暗殺の影響と言えよう。
(だけど、戦うなんて無理だ……)
アリッサは頭を抱えた。理由は以前ハイマンに説明したとおり、ファランティアへ亡命した魔術師のほとんどは直接相手を攻撃するような魔術を習得していないからだ。
だがこうなってしまえば、自衛のためにも戦闘用の呪文を教えて訓練するしかない。それはアリッサが戦いを避けて亡命を選んだ理由そのものに反する行為であった。それに付け焼刃の攻撃呪文で勝てるような相手でもない。それどころか例えばアリッサでさえアベルと戦えば勝ち目がない。対抗できるとしたらドンドンしかいない。
アベルと戦う――そう考えた瞬間に、胃がぎゅっと縮まり吐き気がこみ上げてきて、アリッサは口を押さえた。
(戦うなんて無理よ……)
再び、心の中で呟く。
実力の問題だけではなく、アベルと戦うかもしれない可能性そのものをアリッサは恐れていた。宮廷魔術師を辞した真の理由もそれだ。
自分の信念に従って正しいと思うことをなした、というのはアリッサの理屈であって、アベルからすれば裏切り者以外の何者でもない。実の母親に見捨てられたのは事実だ。どうして――あるいは、どうやって――今までその事実から目を背けていられたのか、アリッサ自身にも分からなくなってしまった。
あの襲撃の夜、アベルは泣いていた。その慟哭がアリッサの胸に鋭い刃となって突き刺さり、今も血を流させている。
エルシア大陸でアルガン帝国に抵抗していた魔術師たちにファランティアへ来てもらうのはどうか――という考えは思いついた瞬間に否定された。彼らが生きているのかどうかも分からないし、連絡手段もない。
ファランティア人で戦う意思のある者を魔術師にするのはどうか――それも駄目だ。時間が無さ過ぎる。
扱える魔力の量は人それぞれ決まっているが、魔術師になるだけなら特別な才能は必要ない。〈魔力開通の儀式〉をするだけで、魔術師になる事はできる。しかし望む事象を起こせるようになるには、長い教育期間に耐えられる忍耐と努力がなければならない。
ブレア王国の魔術大学でも、魔力量は大きいのに忍耐が足りなかったせいで大した魔術師にならないまま卒業していった者は大勢いた。ファランティアには魔術師を育成する機関もないし、それを作り上げるだけでアリッサの一生の仕事になってしまう。それまでアルガン帝国が待ってくれるはずもない。
ファランティアからも逃げ出すというのはどうか――思いつくのは、テン・アイランズを経由して東方諸国に逃れるくらいだ。そのためには海を渡らねばならない。しかしホワイトハーバーを帝国軍が抑えている現状、それは難しい。
その時、アリッサは別の方法を思いついた。アリッサは〈
アリッサはこの思いつきを皆に相談してみる事に決めた。その前に、計画をもう少し具体的にしておこうと机に紙を広げてペンを手にし、この脱出計画について考え始めた。
それからしばらく机に向かっていると、誰かがアリッサの部屋をノックした。ペンを置いて扉に向かい、「どうぞ」と声をかける。
扉を開けて顔を覗かせたのは、かつて魔術師見習いだったジョナサンであった。ジョナサンは本人の意に反して扱える魔力量が非常に少なく、研究者として大学に残るか、魔術師を諦めるか、選択を迫られていた。結局、その答えを出す前にブレア王国は滅び、帝国に追われる事になってしまったが。
エルシア大陸を出た時は少年だった彼も、今では立派な青年になっている。そして皮肉にも、魔力量が非常に少ない事が魔力暴走時に役立ったのだった。彼がいなければ、氷に閉じ込められた屋敷からドンドンを救出するのにもっと時間がかかっていただろう。
「アリッサ、ちょっと下の食堂に来てもらってもいいですか?」
神妙な顔でジョナサンが言う。何か問題でもあったのだろうか、とアリッサは心配になった。
「どうかした?」
問い返しても、ジョナサンは微妙な表情をするだけだ。
「とにかく、すぐに来てください」
そう言って扉を閉めてしまう。
アリッサは椅子から立ち上がると、指を鳴らして蝋燭に火を灯した。この程度の呪文ならアリッサは詠唱など必要ない。それから毛編みの
暗い廊下を歩いて一階に下り、食堂に向かう。
別邸の中は静まり返っていて、嫌な予感がする。自然と早足になり、慌てて食堂の扉を開いた。
「なにが――」
その瞬間、色とりどりの光がアリッサの目の前で弾けた。
腕で顔を庇いながらアリッサは素早く防御呪文を唱え、護符に手を触れて確認する。だが、襲ってきたのは敵の呪文ではなかった。
「アリッサ、誕生日おめでとう!」
声が一斉にそう言った。食堂には、工夫を凝らして色を変えた〈
中央のテーブルには林檎をくわえた豚の丸焼きが湯気を立て、果物や野菜に飾られている。チーズとパンの盛り合わせが並び、ワインと思しき樽が置かれていた。
そしてジョナサンと他の魔術師たち、総勢一七人が笑顔でアリッサを迎えている。
アリッサは呪文を唱えるのを止め、目を丸くしてその光景を見ていた。
「アリッサ?」
固まったままの彼女に、ジョナサンが声をかける。
「あれ、日にち間違えたかな?」
ジョナサンと年齢の近いロッドが不安そうに言った。
アリッサがその場で倒れそうになったので、慌ててジョナサンがその身を支える。ジョナサンに身体を支えられるのは、今に至る全てが始まったあの朝以来二度目だ。
――こんな風に、支えてもらっていいのだろうか。
――こんな風に、幸せをもらっていいのだろうか。
今も廃墟と化したサンクトール宮にいるアベルを思う。実の子供を捨てた自分に、そんな資格があるのだろうか。
複雑な思いで胸がいっぱいになり、アリッサの目に涙が溢れた。
それを見て、ジョナサンが慌てて謝る。
「ア、アリッサ……ごめんなさい」
アリッサは首を横に振った。
ファランティアでの生活ですっかり太ってしまったオービルが二重顎を撫でながら続く。
「ほら、やっぱりこういう時にやるべきじゃなかったんだよ」
「もうお誕生日を祝ってもらうような年齢じゃないって、私は言ったわよ」
アリッサより一〇歳も年上の女魔術師ダニカがそう言った。すっかり白髪になり、最近は頑固な物言いをするようになってきた。
今年で二七歳になったジェシカが同意する。
「やるにしても、普通にちょっと豪華な食事をするくらいで良かったよね」
ファランティアに来た時は一五歳だった彼女も、今では立派な大人だ。
ここにいるのは皆、アリッサがファランティアに連れて来なければ死んでいたはずの人々だ。ウィルとアベルという大いなる犠牲と引き換えにして、アリッサが守ったものだ。
失ったものと得たものを人は天秤に掛けたがる。でもきっと、そんな事をするから大切なものを見失うのだ。天秤に掛けるのは損得だけでいい。人の想いや命は天秤にかけるべきではない――アリッサはそう思った。
そして今、アリッサが彼らの想いに応える方法は一つしかない。
「……ありがとう。とっても、とっても、嬉しいわ……」
涙を堪えてアリッサは言った。ほっ、と安堵した雰囲気が魔術師たちを包み、彼らの表情は柔らかくなる。
「さあ、立って、アリッサ。ケーキもあるんですよ」
ジョナサンが力強くアリッサを支える。アリッサは立ち上がった。
それから、ジョナサンとロッドの若い二人が樽からワインを酒杯に注いで魔術師たちに配り、料理を味見しようとするオービルをダニカが叱り、ジェシカがアリッサの髪や服装を正してくれた。
「ドンドンとコーディーはお城で残念だったね」と、ジェシカが言った。
「この後、お料理だけでも持っていこうかしら?」
アリッサがそう言うと、ジェシカは笑顔で頷く。
「それがいいね」
ジェシカも、現状ではそれすら難しいと理解しているはずだ。ただ、今はそういう話をしたくなかった。
それからふと、アリッサは気になったことを尋ねる。
「そういえば、こんなに……お酒とお料理どうしたの?」
この別邸にいる魔術師たちは普段、ステンタール家から食料を提供されているが、決して贅沢なものではない。その疑問にはオービルが答えた。
「ファステンを離れてから、俺たちも働いていたんだぞ。少しくらい金なら持ってるさ。皆で出し合ったんだ」
「ワインはステンタール卿の差し入れなのよ。意外と良い所あるんだね、あの御仁もさ」と、ジェシカが付け加える。
〝ステンタール卿の差し入れ〟というところにアリッサの警戒心が反応した。しかし、いくら魔術師嫌いのステンタールと言えどもアリッサが想像したような凶行に及ぶとは思えない。彼は彼で、騎士としては立派な人物なのだ。
そして何より、今、この雰囲気を壊したくない。
ワインが行き渡って、全員がアリッサへ視線を向けた。魔術師たちを代表して、最高齢のダニカが口を開く。
「さ、アリッサ。乾杯して、開会しましょう。今日この時くらいは戦争の事を忘れて」
ダニカは笑顔だったが、瞳には悲しげな色が見て取れた。もしかしたら、魔術師たちが徴用される事を知っているのかもしれないとアリッサは思った。
しかし今は、ダニカの言うように、その事は忘れるべきだ――アリッサは頷いて、魔術師たちを見回した。
「みんな、本当にありがとう。ダニカの言うとおり、もう祝ってもらって喜ぶような年齢じゃないんだけど……」
くすくす笑いが数人の魔術師から出ると、女魔術師や年かさの魔術師が睨みを利かせる。アリッサは〝冗談だから〟というつもりで、苦笑して手をひらひら動かす。
「……だけど、みんなの気持ちは本当に嬉しいわ。もう一度言わせて頂戴。ありがとう」
そしてワインの酒杯を掲げて言った。
「乾杯!」
アリッサに続き、魔術師たちは「かんぱ~い」とワインを掲げ、口元に持っていく。
『アリッサ』
酒杯に口を付けたところで、突然コーディーに〈
『アリッサ、すぐに登城してもらってもいいですか。ドンドンの様子がおかしいのです』
『どうおかしいの?』
アリッサは
『見てもらったほうが早いです。すぐに来て下さい』
コーディーの〈
アリッサが〈
「ドンドンの具合が悪いみたいなの。ちょっと行くわ」
そして、酒杯をテーブルに置き、少し冗談めかして続ける。
「皆は食事を続けて頂戴。せっかくのお料理がもったいないからね」
「料理が残ってるかどうか、分からんぞ」
オービルが丸い腹をぴしゃりと叩いて言った。それで、室内に明るい雰囲気と笑い声が戻る。アリッサは彼に感謝をこめて目配せした。オービルは不器用なウインクを返し、〝行って来い〟と二重顎で示す。
「それじゃ、急いで戻って来ないとね」
そう言って、アリッサは笑顔のまま食堂を出て、そのまま屋敷を出た。
暗闇のハスト湖畔を〈
ぐるりと湖畔を歩いて、左手に白竜門が見える距離まで来た。この時間は閉ざされているから、何とかして開けてもらわないといけない。
アリッサが白竜門に向けて足を踏み出そうとした時、か細い悲鳴のような声が微かに湖を渡って聞こえた気がした。振り返っても、ステンタールの別邸は夜の闇に紛れて見えない。食堂の明かりが漏れて、祝い事をしているのが分からぬように窓を布で覆っていたからだろう。湖上に浮かぶ衛兵の船の灯りにも、変化はない。
きっと気のせいだ、と無視した瞬間にアリッサは胸に熱を感じて小さく呻いた。首からは色々な魔術道具を下げているが、そのうちの一つ、ランスベルから貰ったブラウスクニースの牙を使った護符が熱を発している。温かいという程度ではなく、熱い。素肌に直接押し当てたら悲鳴を上げるほどだ。すぐに煙が上がり始め、取り付けた護符が燃えだした。
アリッサは慌てて首から外そうとしたが、牙はぴったりとアリッサの胸に吸い付いて離れない。鋭い痛みに顔を歪める。
(何が起こっているの!?)
アリッサほどの魔術師であっても、何が起こっているのか全く分からなかった。竜語魔法はすでに力を失っていたはずで、現にアベルたちが侵入しても反応しなかった。それが今、何かをアリッサに伝えようとしている。
(戻れ、という事?)
アリッサは直観的にそう感じて踵を返し、来た道を走って戻る。柔らかい土に足を取られて何度か転びながらも、アリッサは別邸まで走った。胸にあるドラゴンの牙はまるでアリッサの鼓動と呼応するように熱を発している。
別邸の中は静まり返っていた。
食堂に向かって足早に進む。嫌な予感が確信に変わりつつある。食堂から漏れ聞こえてくるはずの、仲間たちの声が聞こえない。
(そんなはずはない。もう一度、私を驚かせるつもりなのよ。そう、きっと、そう。絶対に、そう)
自分に言い聞かせながら、食堂の扉を開く。
食堂の中に魔術師たちはいた。全員が床に倒れて、死んでいた。
口から赤い泡を吐き出し、血走った目を見開き、両手で喉を掻きむしった痕があった。全員が苦悶の表情で、死んでいた。
赤い泡はワインなのか血なのか分からない。それは床にまで流れ落ちて、ぶちまけられたワインと混ざって血の池のようだった。
彼らの死をアリッサが理解したのは一瞬だったが、彼女には永遠に続くかと思われるほど、ゆっくりと心に染み渡っていく。
ウィルとアベルを犠牲にして守ったもの。
犠牲にしたのに。
唯一残った大切なものだったのに。
幸せだったのに。
これでいいと思ったのに。
彼らに罪はないだろうに。
罪なら私にしかないだろうに。
でも彼らは死んだ。死。死。死。全てが死。全員、死んだ。
――死んだ!
これまでの人生全てが反転し、膨れ上がる混沌とした感情は、同時に虚無でもあった。
「ひひっ」
引きつった笑いが口から洩れる。アリッサの心は内側から破壊された。声にならない悲鳴を上げながら、指を鉤爪のようにして額から頬まで自ら引き裂く。もう何も見たくなかったが、目は無事で、今も大切な者たちの死を捉えている。
アリッサは甲高い狂声を上げながら別邸を飛び出した。悲鳴なのか笑い声なのか判別できない声を叫びながら、王都と逆方向に湖畔を走る。前方に岩場を見つけて、その中の尖った石に全力で頭を打ちつけた。
パッと赤い花がアリッサの額に咲いて、それきり彼女はぴくりとも動かなくなった。
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