8.マイラ ―盟約暦1006年、秋、第12週―
レッドドラゴン城内には小さな神殿がある。城下には大小いくつかの神殿があるが、ファランティア人にはより身近に、神にも等しい存在であるドラゴンがいたので六神への信仰心は低い。
城内にある小神殿は王家の墓地に隣接していて、内部は円形の部屋が一つあるだけだ。その部屋を取り囲むように、六柱の神像が並んでいる。ただし、神像のうち一つは台座のみである。
マイラはこの神像たちが苦手だったので、神殿を訪れた事はあまりない。高みから人間を見下ろす神々の像に威圧感と畏れを感じるのだ。そんなマイラが六神の存在を思い出す事があるとすれば、六神ごとに年一回ずつある祝日くらいなものである。祝日は休息日になって学校も仕事も休みになるし、祭りや催し物が開かれる日もある。
しかしドラゴンの葬儀以降、六神の――特に、生者と死者の世界を行き来する
小神殿はほとんど人の来ない場所にあるので、静寂に支配されている。円形の部屋の壁ぎわは階段状になっているのだが、そこに並ぶ大量の蝋燭が燃える音さえ聞こえてきそうなほどだ。置かれているのは蝋燭だけでなく、死者への捧げ物もいくつかあった。
部屋の中央に安置されているのは、テイアラン四九世王の遺体である。黒い死装束を着て、王のマントを掛けられている。頭の王冠はすでに外され、代わりに金の輪が乗せられていた。両手は胸の上で組み合わされ、顔は石膏のように白く化粧されている。
その前でアデリンは両膝を付き、両手を握り合わせて頭を垂れ、祈りを捧げていた。マイラは小神殿の入り口から、その背中を見ている。
アデリンの心中を思うと、マイラは心苦しかった。愛する人の死を経験した事はないが、ランスベルと別れた夜が思い出される。
彼は今も生きて旅を続けていると信じているが、あの夜の別れが、今生の別れになるとマイラには分かっていた。だとすれば、生きているか死んでいるかの違いはどこにあるのだろう――そんな事を漠然と考えていると、開け放たれた小神殿の入口から吹き込んできた冷たい風が首筋に当たり、我に返る。
扉は閉めたほうがいいと思うのだが、アデリンはそれを許さなかった。テイアラン四九世王が暗殺された夜から、アデリンは絶対に一人になろうとせず、どこに行くにも何をするにも必ず侍女を伴っていた。今ではアデリンの寝室に付き添いで寝る侍女のためのベッドがあるほどだ。〈王の居城〉もアデリンの寝室も近衛騎士に守られていると言っても無駄だった。
彼女が寝ている間に隣の部屋にいたテイアラン王が殺されてしまったのだから無理もない――と、周囲は理解している。アデリンは特にマイラを側に置きたがったので、マイラはこのところ個人的な時間を持てずにいた。しかし、そのおかげで助かっている事もある。
テイアランは寝室で魔術師に襲撃され、中庭に脱出したところをエリオ・テッサヴィーレによって殺害されたとされている。そしてその晩、侍女のタニアが姿を消した。当然、同室のマイラも疑われる事となった。
目を血走らせたステンタールは恐ろしかった。ドラゴンの恐怖とも、神像の恐ろしさとも別種の、人間の感情的な圧迫感と言えばいいだろうか。そのような圧力に曝されてマイラは涙が堪えられなかった。
そんな時、アデリンがマイラを呼び付けたのだ。以来、アデリンがマイラを手放さないので、ステンタールの手が及ばないという状況になっている。
がちゃがちゃと鎧の音がして、マイラは不安げに振り返った。こちらに歩いてくる人影は上にも横にも大きいブラン王である。ステンタールではない。マイラは安堵した。
ブランは小神殿の入口で神々に対して一礼してから入ってきた。北方人は皆、ファランティア人よりもずっと信心深い。上位王であり、何も恐れるものなど無さそうなブランであっても神々を蔑ろにはしないようである。鎧を鳴らしてマイラの隣まで来たので腰を落として頭を垂れると、神像のように大きなブランはマイラの頭の上から声を響かせた。
「アデリン陛下の即位式に、城の連中は大広間に集まってるぞ。早く連れて行ったほうがいい。どいつもこいつも不安そうな顔をしてやがる」
ブランの大きな声は小神殿の中に響き渡り、アデリンはびくりと肩を震わせた。
「畏まりました」とマイラは答えてから、アデリンへ呼びかける。
「陛下、お時間になりました。大広間にて皆様方がお待ちでございます」
アデリンはこちらを見ないように顔を横に向けると、「すぐに参ります」と震える小さな声で答えた。
マイラの頭くらい鷲掴みにできそうなブランの大きな手が肩に置かれる。
「頼んだぜ。俺は先に戻ってるからよ」
そう言って、巨漢の王は小神殿から出て行った。
今のような王とは思えない気安い接し方にマイラはいつも驚かされる。いつか、うっかり敬語を忘れて話してしまいそうで怖いが、それでも笑って許してくれそうな雰囲気もある。
鎧の音が聞こえなくなり、ブランの姿が見えなくなると、アデリンは立ち上がって入口のほうに戻って来た。顔色は真っ青で、まるでテイアラン四九世の死が乗り移ったかのようだ。
「あの男に――されるわ」
微かに唇を震わせて、アデリンが囁いた。あまりに小さな声だったのでマイラは聞き漏らしてしまった。
「申し訳ございません、陛下。何かおっしゃられましたか?」
「……何でもありません。行きましょう」
アデリンは硬直したように前方を向いたまま、そう言った。
先王テイアラン四九世の葬儀は戦時中のため、二日後に略式で埋葬が行われると決定している。今日は、アデリン王妃が新王テイアラン五〇世として即位する日である。
マイラは大広間の隅から部屋を見回した。北方人はブランと五人の戦士だけだが、いつもの格好なので目立つ。近衛騎士団の面々も見えるがステンタールの姿はなかった。
アデリンは大広間の中央に敷かれた十二色の布の上を、立派なドレスに見事なマントを肩に掛けてゆっくり歩いて行く。赤地のマントには金糸で王家の紋章が刺繍され、白いオコジョの毛を起毛させた縁取りで飾られている。
新たに作る時間はなかったので、先王が即位式で使ったもので間に合わせたと聞いているが、元々が長く作られているので身長差はあまり関係がなかった。仮にブランが纏ったとしても、床を擦ってしまうほど長い。
上座には向かって右側に神官長のヨナタン、左側にブランが立って、アデリンを待ち構えている。本来はブランの立ち位置に竜騎士がいるらしいが、もはやファランティアに竜騎士はいない。そのため今回は、北方連合王国の上位王に代役してもらう事になったようだ。
アデリンは上座を上り、玉座に向かって一礼してから、そこに置かれた王冠を豊かな胸の前まで両手で持ち上げ、正面に向き直った。
「私、南部総督グスタフ・ベッカーの娘にして先王の妻アデリンは、ファランティアの法の下、〈盟約〉によって定められし人間と人間の土地の守護者にして王たるテイアランの名を継ぐ事を、ここに宣言いたします。その資格なき時は、速やかにドラゴンの炎が我が身を滅しますように」
そう言って、アデリンは目を閉じて待った。すでにドラゴンのいないファランティアでは無意味かもしれなかったが、一〇〇〇年間続いてきた事をすぐに変えるほうが不自然だ。そして当然だが、待っていてもドラゴンは現れなかった。ヨナタンが厳かに口を開く。
「神々よ、新王テイアラン五〇世を祝福したまえ」
そう言って、手に持った王錫をアデリンに差し出す。アデリンは手にした王冠をブランに渡し、王錫を受け取った。それから緊張した面持ちでブランに向き直る。
「人間と人間の土地の守護者たれ」
ブランはそう言って、王冠をアデリンの艶やかに波打った赤みのある金髪の上に置いた。
テイアラン五〇世即位の瞬間である。
大広間にいた全ての人が、上座にいるヨナタンも含め、跪いた。北方人たちもファランティア人に倣っている。最後にはブランも膝をついた。本来の竜騎士であったなら、膝を付く事はないのだろう。
アデリンが玉座に腰を下ろして、頭を上げる事を許すと、大広間に集まった人々は順番に謁見を賜り、忠誠の誓いを立てていく。その中で新たな治世に関する任命も行われた。
ハイマン将軍、モーリッツ内政長官はその任を継続することになった。ステンタールは任を解かれ、近衛騎士団長〈王の騎士〉にはアルバン卿が任命される。前副団長のマリオンが順当に団長へ昇格するものと予想していた人々は、僅かに動揺した。アリッサも解任され、宮廷魔術師は書記官のコーディーが兼任する事となった。
他にもいくつかの入れ替わりがありつつ、こうして新たな王の治世は幕を開けたのであった。
マイラは大広間の隅で謁見を待ちながら、その光景を見て思った。暦の上ではまだ秋のままなのに、世界はどんどん変わっていく。
ふいに、竜舎が懐かしくなった。穏やかに眠る金竜がいて、亜麻色の髪の騎士が午後の日差しの中で本を読んでいる。そしてマイラは、そんな二人を横目に掃除や洗濯をして、たまに少し雑談しながら休憩する――穏やかで静かな午後。失われた世界の思い出。
何気なく繰り返される日常にこそ価値があったのだと、今になって分かる。
(タニア、今はどうしているの?)
マイラは心の中で呼びかけた。
タニアが去ったあの夜、ベッドの中でマイラは目覚めていた。タニアが窓を開けて屋根の上から伸びた腕を掴むのを、毛布の隙間から薄目を開けて見ていた。それを知ってか知らでか彼女は「トーニオと行くわ。ごめんね、マイラ」と囁いて、窓から出て行った。
エリオではなく、トーニオと言ったのだ。マイラはそれを信じている。彼女はどういう事情か分からないが、トーニオと結ばれるために城を抜け出さなければならなかったのだ。その行動力をマイラはすごいと思う。ステンタールには正直に話したが信じてもらえなかった。
(ランスベル様、今はどちらにおられますか?)
マイラは亜麻色の髪の騎士を想った。もしマイラにもタニアのような行動力があったなら、あの夜ついて行く事もできたのだろうか。もしそうしていたなら、今頃は二度と戻らぬ旅路を共にしていたのだろうか。
タニアはきっと幸せに違いない。愛する人と共にいるのなら――そんな事を考えながら、マイラは宣誓の列に並んだ。
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