7.クリス ―盟約暦1006年、秋、第12週―

 吹きつける忌々しい雪と寒風に耐えながら、クリスたち審問官は竜騎士一行を追って尾根を歩いて来た。クリスには信頼できる審問官二人と、ぜぇぜぇと息を切らして足手まといになっているガスアドの三人が同行している。


 エイクリムを出て変装の必要がなくなったので、〈変装ディスガイズ〉の呪文を解き、無駄に重い装備は捨ててきた。今は防寒着の上から審問官のローブを着ている。実力のある魔術師は、審問官のローブに何らかの魔術や道具を仕込んでいるもので、クリスもそうである。


 防寒着の上から毛皮を何枚か被せてやったガスアドは、山に入るまでぶつくさと文句ばかり言ってクリスを苛つかせたが、今はすっかり黙っている。何度休憩を要求してもクリスが無慈悲に却下し続けたので、ついに諦めたのだろう。


 審問官はミリアナ教の階位に属しているが、魔術師団としては組織化されていない。特定の部門や上下関係はないので、同行している二人も部下ではない。しかし魔術師というものは、自他共に実力がはっきりと分かるものだ。


 同時に扱える魔力場の数、扱える魔力の量、暗記している呪文数などは数値化できる尺度である。呪文への理解度や構成力、応用力といったものは数値化できないが、少し試せば実力は明らかになる。


 だから敵の追跡に関してはクリスが最も優れた魔術師であると、審問官の誰しもが認めていた。組織ありきの上下関係ではなく、実力による結果としての序列であった。


『クリス様、〝アレ〟が遅れています』


 同行している審問官の一人、トレヴァーが〈念話テレパシー〉で話しかけてきた。他人に聞かれる心配がないだけでなく、雪が口に入ることもないし、山歩きで乱れた呼吸に影響されることもないので〈念話テレパシー〉は便利だ。


 トレヴァーの言う〝アレ〟とはガスアドの事である。立ち止まって振り返ると、確かに雪の向こうで姿が霞むほど遅れている。


 この雪山ではぐれでもしたら死ぬのだから、もっと死ぬ気で付いてきて欲しいものだが、竜騎士の追跡には自分が必要だと理解していて置いていかれるとは思っていないのだろう。


(それに、〝アレ〟は竜騎士に対する切り札になり得る)


 ガスアドが追いついてくるのを待つ間、クリスはそう考えることで怒りに耐えた。


 グレイブとアレックスの話、そしてスパイク谷での戦いを見て、竜騎士とその仲間に戦って勝つのは難しいとクリスは判断した。やるなら、〈選ばれし者〉であるアベルを投入するか、審問官全員を動員するくらいしなければ被害は甚大なものとなるだろう。しかし、どちらも現実的ではない。セドリック枢機卿が秘蔵っ子のアベルに竜騎士と戦わせる危険を冒させるとは思えないし、審問官を呼び集めたら世間の注目を集めてしまう。


 そもそも、クリスの目的は竜騎士が腰に付けている皮袋を奪う事であって、殺す事ではない。


 エイクリムでは、ランナルという男をそそのかして盗ませようと計画したが失敗した。だが、大きな収穫はあった。竜騎士の弱点が精神面にあると確信できたのだ。


 かつてホワイトハーバーでアレックスと会った時、傭兵隊長はこう言っていた。


 〝竜騎士は精神的に未熟で、そこが弱点になる〟


 アレックスは竜語魔法の制御に関する事まで見抜いていたわけではないだろうが、彼の所見は的を射ていた。


 それで、よりガスアドの重要性は増した。苦労して連れて来た甲斐があったというものである。


 追いついてきたガスアドは、クリスの前でへたり込んだ。


『ちっ、この白豚、我々だって疲れているのに……』


 もう一人の審問官、デールが〈念話テレパシー〉で言った。


『どうしましょうか、クリス様?』と、トレヴァーが判断を求めてくる。


 クリスはガスアドとランスベルの血のつながりを利用して位置を特定していた。それによると、竜騎士はこの先で止まっている。休憩しているのか、先に進めなくなったのかは分からない。


『ここで相手の正確な位置を調べる』


 クリスはそう答えて、ガスアドの背中に手を当てて〈探知ロケーション〉の呪文を唱えた。九八〇フィート先、少し低い位置にいるのがはっきりと分かる。雪と風がなければ目視でも見える距離だ。その情報を〈念話テレパシー〉で共有し、『偵察に出ろ』とトレヴァーに指示する。


 ガスアドにとっては良い休憩になっただろう。少しして、トレヴァーの〈念話テレパシー〉が届いた。


『そのまま尾根伝いに進むと、窪地があり、多少風よけになるようです。そこに古い集落のような遺跡があり、四つほど石造りの廃屋が見えます。その一つに隠れているようです』


『待ち伏せですかね?』と、デールが分かりきった事を言った。


 クリスは敢えて答えずに、準備していた策を実行するべきかどうか考えた。竜騎士たちがどこに向かっているのか分からないが、いくら何でも〈世界の果て山脈〉を歩いて越えるなど不可能だ。という事は、近くに目的地があるに違いない。仕掛けるのはそれを確認してからでも良いが、冬の〈世界の果て山脈〉はクリスにとっても危険な場所である。


 それに、ガスアドが脱落するのは時間の問題だ。そうなれば、クリスは切り札を失う事になってしまう。


 仕掛けるなら今か――と、クリスは決断した。


『トレヴァーとデールは左から回り込め、私は右から行く。〝アレ〟に魔術を仕掛けて正面から行かせる。エルフかドワーフが出て来ても倒す必要はない。時間稼ぎに徹するのだ。目的のものを入手したらすぐ撤退できるよう、アベルの焦点具フォーカスを用意しておけ』


 クリスの〈念話テレパシー〉に、二人から了解の反応があった。デールが先行したトレヴァーと合流すべく歩き出す。


 〈念話テレパシー〉での会話はガスアドに聞こえていないが、動きは見えているから出発なのは分かるはずだ。なのにガスアドは動こうとしない。クリスは足元でうずくまるガスアドの足をブーツで蹴る。じろりとガスアドが下から睨みつけた。


 そのくらいの気概はあってもらわねば困る――そう思いながら、クリスは無感情に言う。


「よく聞け。この先に集落の遺跡がある。そこにお前の弟がいる。話したとおり、目的の〝もの〟を渡すように説得しろ。無理なら殺してでも奪い取れ。両親の事は分かっているな?」


 ガスアドは急に怖気づいた。


「ランスベルは魔法をかけてもらってるんだろ。それじゃ……ズ、ズルだろ」


 〝無理だ〟とは言わなかった。弟に対して勝ち目がないというような事を言いたくないのだろう。


 クリスはもう一度、ブーツでガスアドの足を蹴った。


「立て。私が魔法をかけてやる。それでお前は竜騎士と互角になる。同じ魔法の援護があるなら、勝てるのだろう?」


 クリスは敢えて見下したような物言いをした。それは功を奏して、ガスアドは勢いよく立ち上がる。


「当たり前だ! 昔みたいに小突いて脅かしてやれば、すぐに泣き出すさ!」


「それでは、これを飲み込め」


 クリスはそう言って、小さな赤い宝石を取り出した。小指の先ほどの大きさで、球状に加工したルビーだ。それから酒を差し出す。どちらも今から使う魔術の触媒である。


 ガスアドは一瞬躊躇ったが拒否する権利はないと理解しているらしく、しぶしぶ受け取って大げさに苦しそうな顔をしながら飲み込んだ。それを見届けてから、クリスは両手を動かして〈焼き尽くす炎の罠トラップ・オブ・コンバスト〉の呪文を唱えた。クリスに使える魔術の中で最も強力なものの一つだ。ヒドラのような巨大な魔獣でさえ焼き尽くす威力がある。


 クリスは呪文を工夫して、〝兄弟が接触した時〟という発動条件を加えた。その出来に満足して、クリスは言った。


「これでよし。行くぞ」


 クリスとガスアドは雪の中を歩き、前方に集落遺跡の廃屋が見える距離まで近づいた。


「あそこだ。さあ行け」と、クリスはガスアドの背中を押す。


「ひ、一人で行くのかよ!?」


 ガスアドの反応に、クリスは我慢も限界だと思った。だが、それもこれで最後だ――そう思って耐える。


「私たちが援護する。それとも、弟が怖いのか?」


 ガスアドはぷっくりした唇を突き出し、むっとした。そして遺跡に向かって歩き出す。クリスは思わず口元に残忍な笑みを浮かべた。そんな事はめったになく、クリス自身驚いてしまう。そして呪文を唱えながら、右に回り込んでいった。


「ランスベル、隠れてないで出て来い!」


 ガスアドの声が、何度目か遺跡に響く。


 それを聞きながら、クリスが廃屋の角から出た瞬間だった。


 一陣の風が通り過ぎた――としかクリスには感じられなかったが、白刃が首を切断している。


 見ると、雪と同じ色のマントにフードを被った細身の人物が、細くて鋭い刃を振るった直後の姿が一瞬だけ見えた。斬られたのが前を歩いていた〈幻影ミラーイメージ〉の呪文で作ったクリスではなく、本人だったら痛みを感じる間もなく死んでいただろう。


(エルフのほうか!)


 クリスは戦慄を覚えながら、素早く呪文を唱えた。クリスの〈幻影ミラーイメージ〉は、この恐るべきエルフをも騙す事ができる。クリスは自分の実力を誇らしく思った。


 エルフをクリスの〈幻影ミラーイメージ〉五体が取り囲み、一斉に呪文を唱える。〈幻影ミラーイメージ〉が放つ魔術は、それ自体も幻であり相手を傷つける事はない。だが、本物と見分けのつかない幻が与える心理的な効果は大きく、痛みさえ感じるほどだ。


 エルフはクリスの目では捉えきれない速さで動いた。呪文が唱え終わる前に〈幻影ミラーイメージ〉を四体まで切り裂き、残った一体が放つ幻の〈光線レイ〉を避けて、クリスに斬りかかってくる。


 クリスは〈幻影ミラーイメージ〉を次々にばら撒きながら、常に移動し続けなければならなかった。エルフが〈幻影ミラーイメージ〉への対策を考え出したらやられる――凍える寒さの中で、冷や汗がクリスの背筋を伝う。


 その時、激しい爆発音と振動が遺跡に響いた。


 エルフがそちらに気を取られる。クリスは見る必要もないが、エルフは遺跡の中心で上がる業火を見たはずだ。その隙に、〈幻影ミラーイメージ〉を残しつつクリスは廃屋を回り込んで爆発のあった場所に向かう。


(やった!)


 常に冷静なクリスにしては珍しく、困難な任務をやり遂げたという喜びに胸が躍る。


 ガスアドが爆発した場所は一目瞭然だった。そこを中心に地面がえぐれて、黒く焼け焦げている。周囲の雪は熱で溶けて水になったか、気化していた。雨が降ったように周囲は濡れ、噴火口のようにもくもくと白煙を上げている。


 ガスアド本人の姿はどこにも無い。消し飛んでしまったのだ。そして今も炎に包まれて倒れている人物が竜騎士だ。この熱と炎でも形を留めている鎧を見れば分かる。炎に包まれて吹き飛ばされた竜騎士は廃屋に激突して跳ね返り、クリスの目の前の位置に落ちたのだろう。


 クリスは躊躇することなく、焼かれるのも覚悟で炎に腕を突っ込んだ。そして腰に残っている皮袋を掴み取る。皮袋は普通の材質に見えるが、まったく損傷していない。ベルトのほうは燃えて脆くなっていたから簡単に千切れた。その状況からも、この皮袋が目的の〝もの〟で間違いない。


 胸に下げていたアベルの焦点具フォーカスを掴んで念じる。


『アベ――』


 そして、目を見開いた。


 皮袋を掴んだままの腕が空中を飛んでいる。それが自分の腕だと認識すると同時に鋭い痛みが襲ってきた。痛みを感じるより早く切断されたのだ。


 目の前には白いマントが広がり、その下で風に舞う漆黒の髪があった。呪文の一言を発する間もなく、エルフは一瞬で振り向き、その白くて細い指でクリスの喉を握り潰す。


「――ッ!」


 クリスは声にならない悲鳴を上げた。その細い身体のどこにそんな力があるのか、エルフはクリスの身体をそのまま片手で持ち上げる。


「あなたがわたくしの剣から逃れられるほどの魔術師で良かった。あなたの生命力を使えば、ランスベルを救えそうです」


 無慈悲にエルフは言い放ち、呪文を唱え始めた。それはこの世のものとは思えぬほど美しくも恐ろしい歌声だ。


 金色の瞳に見据えられ、クリスの脳裏にこれまでの人生が走馬灯のように蘇る。


 クリスは並の魔術師ではない。影や幻を操る魔術においては世界一と言っても良い才能の持ち主だと自他共に認めている。誰もがその才能を称えるか、畏怖するか、羨望するかした。魔法を憎むアルガン帝国ですら、クリスの才能を求めたほどだ。〈選ばれし者〉であるアベルでさえ、クリスに対抗心を燃やすほどだ。


 だからクリスはこの世界で唯一無二の存在であり、決してそこらに蠢く虫や獣や人間ではない。


 であるにも関わらず、エルフの金色の瞳はクリスを道端に落ちている石ころか何かのようにしか見ていなかった。


 どうする事もできない――その事にクリスは絶望と恐怖を感じていた。圧倒的に上位の存在によって、身も心も蹂躙されようとしている。


 クリスは恐怖のあまり絶叫したが、喉からはか細い笛のような音しか出なかった。逃げようと全力でもがいても、腕は虚しく震えるだけだ。


 生命力が搾り取られ、肉体が急速に死んでいく。こんな魔法は聞いた事が無い。無理やりに、魂を吸い出される恐怖。全身の神経を一本ずつ引き抜かれるような苦痛。その両方で、クリスは発狂しかけていた。


 見開いた目から涙が流れ落ちる。その瞳に映るのは、舞い上がる漆黒の髪とその中心にある白い仮面のような顔、そして金色に輝く一対の瞳だけ。


 全身の皮膚が色を失い、萎れていく。腕は骨と皮だけになり、だらりと垂れ下がったまま動かなくなる。顔の筋肉は削ぎ落ちて口は開いたままになり、そこから漏れていた悲鳴も途切れた。目が水分を失って萎んでいき、視力を失う。


 後はただ、暗闇の中で全てを奪われ続けるだけだ。そしておそらく命を絞り取った後はゴミのように捨てられるのだろう。


 クリスにとって幸いなのは、すでに耐え難い苦痛のために発狂しているので、そんな自分の末路を自覚せずに済んだという事くらいだった。

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