6.ランスベル ―盟約暦1006年、秋、第12週―

 ランスベルたち三人は、雪に難儀しながら〈黒の門〉を目指して山道を進んだ。オークとの戦いから数日しか経っていないのに、山の季節は一気に進んで、真冬のように雪深い。


 途中、〈黒の門〉から下って来るスパイク谷の戦士の集団とすれ違った。〈黒の門〉にはまだ味方の遺体も残っているが、これ以上、山に留まるのは無理だという事だった。


 不運な彼らの遺体は、オークの死体と共に春まで雪の下だろう――と、彼らは悲しそうに言った。


 ランスベルたちが〈黒の門〉に到着した時には、もう峠道はほとんど雪に埋もれていた。その中で、ドワーフの作った黒い柱の周囲だけは雪が積もっていない。雪のない柱の周囲で、ランスベルとギブリムはかんじきスノーシューを付け、を組み立てて荷物を積んだ。


 積もったばかりの柔らかい雪に足を取られないよう気を付けながら、黒い柱を越えて進み、尾根に上がる細い道に入る。そのような状況でも、アンサーラはまるで体重が無いように、雪に僅かな足跡しか残さない。


(どんな魔法だろう……それに、魔法を使い続けて疲れないのかな……)


 アンサーラの足跡を辿りながら、ランスベルがそんな事を考えていると、彼女は立ち止まって振り返った。


「やはり、追跡されているようです」


 ギブリムも頷き、「四人だ。内三人は魔術師だ」と付け加える。


「そこまで分かるのですか?」


 珍しくアンサーラの声には驚いたような響きがあった。逆にランスベルは、彼女にも分からない事があるほうが驚きだった。今までアンサーラは、ランスベルからすれば、何でも知っていた。


 ギブリムはもう一度頷く。

「ガル・タバル……人間たちが〈黒の門〉と呼ぶ柱の力だ」


 ギブリムはそれ以上説明しなかったが、その力がかなり広範囲に及んでいるのはランスベルも知っている。オークとの戦いでドラゴンの力を借りた時に感じたのだ。


「ドワーフの地下都市に入れば、諦めるかな?」


 ランスベルはギブリムに尋ねた。話すと口に雪が入り、冷えた空気が体内に侵入する。


「都市の入口は隠されている。だが、絶対ではない。魔術師に場所を知られたくない」


 ギブリムはそう言って、雪でほとんど見えない前方を指差す。


「この先に、昔、人間とドワーフが取引をしていた交易所がある。そこで待ち伏せする」


 ランスベルとアンサーラは頷いた。


 ギブリムの言う交易所は、もはや遺跡と言ってもいいような状態だった。尾根の途中の窪んだ場所にあって、風はいくらか穏やかであったが、雪は防げない。同じ大きさの四角い建物が四つほど残っていて、それ以外の建物は基部が残っているだけだ。すべて真っ白な雪に覆われている。


 ランスベルたちは残っている建物の影に隠れた。四つの建物はすべて内側を向いていて、そこがこの場所の中心だった事が伺える。


「敵も止まったな」と、ギブリムが言った。


 ランスベルたちは雪を掻き分けて進んでいるので、その跡を辿れば追跡は容易だ。しかし、こちらに合わせて止まるというのはどういう事だろう、とランスベルは疑問に思った。それはアンサーラも同様のようだ。


「相手は、わたくしたちの位置までかなり正確に把握できるようですね。こちらから仕掛けますか?」


 ギブリムは「うむ」と頷いた。から手を放し、荷物を雪の上に降ろす。ランスベルとアンサーラも荷物を降ろした。


(戦いか)


 そう心の中で呟くと、ランスベルに迷いが生まれた。


 戦いを避ける方法があればいいのだが、こちらに理由は無くとも向こうにはあるのだろう。しかしどんな理由であっても、命のやり取りをするのは気が引けるものであった。


 〝恐れを知らぬ戦士のように振舞わねばならぬ時はある〟


 ヒルダの言葉が脳裏に蘇る。


 〝――背負い続けるには、相応の力と勇気が必要になる〟


(勇気……そうだ)


 ランスベルは思った。自分を守るという事は、一〇〇〇年に渡るドラゴンと竜騎士たちの想いを守るという事だ。そのために、剣を振るうのだ。


(恐れるな、ランスベル)


 自分にそう言い聞かせて、剣の柄に手をやり、立ち上がろうとした時であった。ギブリムがその動きを制して言う。


「いや待て。近付いてくる」


 腰を浮かせたまま、ランスベルは緊張して動きを止めた。少しして、風の音に紛れて声が聞こえてくる。


「ラ――ベル――」


「あなたの名前を呼んでいます」

 アンサーラがランスベルに囁いた。彼女には聞こえたのだろう。


「ランスベル――どこ――いる」


 もう少し聞き取れるようになった瞬間に、心臓が飛び出るかと思うほどランスベルは驚いた。


(まさか、そんなはずがない)


「ランスベル、どこにいる!?」


 ついに否定しようもないほどはっきりと、ガスアドの声が聞こえた。


 ランスベルは傍目に分かるほど動揺していたのだろう。アンサーラが心配そうに尋ねる。


「知り合いですか?」


「う、うん」

 ランスベルは動揺しつつ答えた。

「僕の、兄さんだ……」


 雪を踏みしめるガスアドの足音、服の布ずれの音、荒げた呼吸までもはっきりと聞こえるほど、彼は近くまで来ていた。交易所址の中心まで入ってきたのだ。ガスアドとランスベルを隔てているのは廃屋の石壁だけだ。


「ランスベル、どこにいる!? 隠れてないで出て来い!」

 ガスアドの怒気を含んだ声が響く。


「魔術師は二手に分かれている」とギブリムが言って、左右を指した。


 ランスベルは動揺し、混乱した。ホワイトハーバーで別れた両親の姿がありありと蘇る。


 あれで良かったのか、という迷いは今でもランスベルの中にあった。しかし、良かろうが悪かろうが、納得できようができまいが、もう遠く離れてしまったランスベルにはどうする事もできない。彼らの結末を知る事もない――そういう決着のつけ方を、この〈世界の果て山脈〉を目指して進みながら、ランスベルはしてきた。


 ずっと遠くに置き去りにしてきたはずのものが追いついて来て、腕を掴まれたような気分だった。決着をつけねば、先には進めないと運命が告げているのか。これが宿命というものなのか――。


 アンサーラがランスベルの肩に手を置いた。


「これは明らかに罠です。彼とはわたくしが話しましょう。ランスベルとギブリムは魔術師の相手を――」


「いや、待って、駄目だ」

 ランスベルはアンサーラの言葉を遮った。

「兄さんとは僕が話す。アンサーラとギブリムは魔術師を頼む」


 アンサーラは何か言おうとして、止めた。


 ギブリムは、じっとランスベルの顔を覗き込んでいる。その目が何を語っているのか、ランスベルには分からなかったし、考える余裕も無かったが、ギブリムは右に顔を向けた。


「俺は右をやる。エルフは左を」


 アンサーラはギブリムに頷き、ランスベルに向かって言う。


「……わかりました。もう一度言いますが、これは罠です。十分に注意してください」


 そして呪文を唱えて姿を見え難くすると、左のほうに回り込んで行った。ギブリムも身を低くして廃屋の基部に隠れながら右に回り込んで行く。


「いるのは分かってんだぞ! 出て来い、ランスベル!」

 一人になったランスベルは再びガスアドの声を聞いた。


 様々な思いが渦巻く中で、ランスベルは『ブラウスクニース、我に力を』と竜語魔法を唱える。それは祈りでもあった。


 隠れ場所から出たランスベルは、廃屋に囲まれた広場で一〇年ぶりに兄の姿を見た。毛皮の防寒着の上から、さらに毛皮に包まれているので、丸々としている。それは厚着しているためだけではないだろう。子供の頃の兄がそのまま大人になったという感じに、ぽっちゃりした顔をしている。無精ひげが童顔には似合わなかった。


 そして手に、反りのある短剣を持っている。刃が反っているおかげで、筋力が無くとも切り裂く力は強いが、鎧を着た相手にはあまり効果が無いものだ。


 ドラゴンの力を借りているランスベルには、ガスアドの全身を包む魔力場が見えた。予想通り、魔術師の支援を受けている。


 ランスベルは何を言うべきか分からなかった。

 それはガスアドも同じだったようで、兄弟は黙ったまま対峙する。


「……親父とお袋は、死ぬぞ」

 唐突にガスアドが言った。


「二人ともまだ生きてるが、お前の持っている〝もの〟を、俺が持ち帰らなかったら、そうなる」


 ランスベルは血の気が引く思いだった。ガスアドの言う〝もの〟とは〈竜珠ドラゴンオーブ〉のことだろう。


 運命は、一度したはずの決断を、もう一度やり直させるつもりなのか――ランスベルは拳をぎゅっと握り締めた。


「もう一度だけ言うぞ。あいつらが欲しがっている〝もの〟を、渡せ。それで俺たち家族は助かるんだ」


 ガスアドは一方的に話していた。言葉尻に怒りが滲んでいる。


(その〝家族〟に僕は含まれていないの?)


 ランスベルはそんな悲しい思いを投げかける代わりに、事実を答えた。


「お父さんとお母さんには、帝国が無事には済まさないとはっきり伝えたよ。でも、ホワイトハーバーに残るって、二人は決めた」


「俺は聞いてねえ……」


「お兄ちゃんは商業会館にいて、手が出せなかったんだ。ごめん」


「俺は聞いてねえ!」


 ガスアドは突然怒鳴った。ランスベルは思わずびくりと身をすくめる。


「いいか、オーダム家の当主はこの俺だぞ! 俺のいねぇ所で話を決めんじゃねぇ!」


「できるだけの事をしようとしたんだ。でも無理で――」


「無理じゃねぇんだよ! クソが! ふざけんなよ、こんな地の果てまで連れて来られて、俺がどんな目に遭わされたか知ってんのか? 冗談じゃねぇんだ、さっさと〝もの〟を渡せよ、このグズがっ」


 ガスアドは肩を怒らせて息も荒く雪を踏み分けて向かってくる。子供の頃のままの突然の激昂にランスベルは慄きながら、兄を説得する方法を、言葉を、探した。


「ぼ、僕には、最後の竜騎士としての……使命がある。これはそのために必須のものなんだ。たくさんの人の想いが、この使命にかかって――」


「知るかボケェ!」


 ランスベルの言葉は、たったの一言でガスアドに一蹴された。その言葉を聞くのは一〇年ぶりだった。ガスアドは怒りを爆発させると、いつもそう叫ぶ。


「テメェ、誰のおかげでその竜騎士とやらになれたと思ってんだよ! 俺だよ! 俺が家を継いでやって、ホワイトハーバーなんてクソ田舎にいてやったから、テメェは王都で好き勝手にやりたい事やってきたんだろうがよ! 俺が犠牲になってやったんだから、今度はテメェが犠牲になれって話なんだよ。不公平だろうが!」


 ランスベルは頭に血が上り、カッとなって言い返した。


「じゃあ僕はどうなってもいいの!? お父さんもお兄ちゃんも、自分の事ばっかりだ!」


「テメェもそうだろうが!」


 ランスベルは返す言葉を失った。ただ、反感と怒りだけが心中で渦巻き、わなわなと全身を震わせる。ガスアドがそんな風に考えていたとは知らなかった。そして、自分勝手な理屈をぶつけて来る所は父親にそっくりだと思った。


 しかし、自分はどうなのだろう、とも思う。父や兄からすれば、ランスベルのほうが自分勝手な理屈を押し通しているように見えているのではないか。


 だとすれば、似た者同士――そういう事なのか。


 ガスアドはランスベルの目の前までやってきて、短剣を持っていないほうの左手を突き出した。


「おら、渡せよ!」


 ランスベルは即答する。


「渡せない」


 その瞬間、ガスアドは短剣を振り上げた。


 ランスベルには、その動作がゆっくりと見える。その目には明確な殺意があって、攻撃そのものよりも、実の兄にそんな殺意を向けられた事にランスベルは恐れた。


(本気なの!?)


 そう思いながら、ガスアドの動作を見極めようとする。


 ランスベルにとって悲しい事に、ガスアドの剣は躊躇い無く振り下ろされている。そのまま避けなければ、肩から入って胸まで切り裂くだろう。致命傷である。


 もちろんドラゴンの力と竜騎士の鎧が守ってくれるので、そうなるとは思わないが、ガスアドの全身を覆う魔術がどんな力を持っているか分からない。少なくとも、ホワイトハーバーで戦った兵士のように動きを加速させられているわけではない。


 ランスベルは身体を斜めにしながら後ろに下がって、その攻撃を避けた。ガスアドは前のめりに体勢を崩したが、踏みとどまり、そして今度は突きを繰り出す。ますます膨れ上がった怒りと殺意を乗せて。


 ランスベルは腰に括り付けていた剣の柄頭に手を置いて角度を変え、剣の鞘でその突きを受けた。ガキンという金属音がして、ガスアドの短剣は衝撃で手から離れて雪の中に落ちる。


「ぐああっ!」


 まるで大怪我でもしたような苦痛の声を上げて手首を押さえ、ガスアドは雪の中に膝を付いた。


 地に伏して背中を丸めた兄は、ランスベルが初めて見る姿だった。今まさに自分を殺そうとした兄であるにも関わらず、ずきんと胸が痛む。


「ふざけんな……なんでだよ……」


 ガスアドは涙声で呟いた。


「なんで、お前が竜騎士なんだよ。なんで、俺たちを助けられないんだよ……俺だってなぁ、お前に死んでもらいたいなんて思ってねぇよ。他に方法があれば、そうしてんだよ……」


 つい今しがたの怒りと殺意はどこかへ消えていた。ランスベルは剣の柄から手を離し、そして、これが兄の本心なのだと信じた。慰めようと一歩前に出たランスベルに向かってガスアドは突然立ち上がりながら、両手を伸ばしてすがり付いてきた。「俺を助けろよぉっ!」と、泣き叫びながら。


 ガスアドの動作は、ランスベルにはゆっくりとして見えるので、腕を払う事も避ける事も簡単にできた。


 しかしランスベルはそうしなかった。


 兄の涙が、彼を縛っていた。


 助けなければいけないと思った。


 〝お前に死んでもらいたいなんて思ってない〟


 その一言が、このような状況であるにも関わらず、嬉しかった。


 そしてガスアドの手がランスベルの外套クロークを掴んだ瞬間、ドラゴンの力で強化されたランスベルの目には、はっきりと見えてしまった。


 兄の身体が内側からの圧力で膨れ上がり、炎と閃光を放って爆発する瞬間を。


 激しい炎と衝撃がランスベルの全身を直撃し、その身を吹き飛ばした。炎が全身を焼き、衝撃が骨を砕く。熱風が喉と肺を焼いて、熱と閃光が瞳から色を奪った。


 激痛は一瞬で、ぷっつりと、ランスベルの意識は途絶えた。

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