3.アリッサ ―盟約暦1006年、秋、第12週―
レッドドラゴン城内にある〈王の居城〉は方形をした二階建ての建物である。王と王妃の部屋は並んでいて、中庭に面している。
そのすぐ近くにある今は使われていない部屋で、アリッサは暖炉の前の
暖炉の小さな炎を見つめるその瞳は、物思いに沈んでいて何も見ていない。炎に照らされた赤毛はまるで燃えているようである。
天蓋付きの豪華なベッドには、薄緑のローブを着たドンドンが両手両足を投げ出して寝ている。丸い小山のような腹を上下させ、
この部屋は王家の人間が住むためのもので、即位する前には今のテイアラン王が住んでいた。テイアランとアデリンの間に子が生まれれば、その子の部屋になるはずだ。部屋は快適そのもので、毎日、召使いの手によって清潔に保たれ、暖かく、質の良い家具に囲まれている。しかしアリッサにとっては、今は住めなくなってしまったファステンの屋敷にあった自室のほうが居心地は良かった。
だが、それは贅沢というものであろう。近衛騎士たちはここより狭い一階の部屋に詰め込まれている。アリッサたちも、そこへ加えられておかしくないところを特別に一部屋貸してもらっているのだ。
まだ私を女扱いしてくれるのね――と、アリッサは感謝したが、単にステンタールの魔術師嫌いが近衛騎士たちにも伝染して、隔離されているだけかもしれなかった。
二人がこの部屋で朝を迎えるようになって、もうすぐ六週間になる。王と王妃の護衛のためである。
炎を見つめながら、アリッサはアベルの事を考えていた。〈選ばれし者〉であり、帝国の審問官であり、彼女の息子であり、そして彼女を殺したいほど憎んでいる。そんなアベルがなぜ、サンクトール宮のアリッサの部屋に住んでいるのか。
本当は、心の底で母親を求めているから――そんな甘い妄想に浸って、アリッサは苦笑した。普通に考えれば、王宮に隠された秘密を王家の血を引くアベルに探させているに違いなかった。
あれを帝国が手に入れたらどうなるだろう。魔法根絶という大義に従って破壊してくれたなら良い。だが、アベルに探らせているのがレスター皇帝ではなくセドリック枢機卿の可能性もある。セドリックなら、皇帝にすら秘密にして自分の物にしてしまうかもしれない。アリッサのセドリックに対する印象は、〝笑顔という仮面で自己中心的な本性を隠した男〟というものであった。
ウィリアムが死んだ今では、秘密の部屋へ通じる扉を開けられる者はいないはずだが、絶対とは言い切れない。だから何とか処分しなければならないが、今はファランティア王国を離れるわけにもいかない。〝ブレア王国の魔女〟と悪名高いアリッサが帝国領内を旅するのも危険すぎる。
アベルにドンドン、亡命させた魔術師たち、ブレア王国の秘密――悩みは尽きないが、全て自分で何とかするしかないとアリッサは決意を新たにした。
その時、アリッサの指輪の一つがブーンと激しく振動する。魔術の警戒網が魔術師を察知したのだ。
アリッサは飛び跳ねるように
かつてランスベルが襲撃された時と同じように、敵は突然に現れた。そんな事ができる者は一人しかいない。
(アベルなの!?)
心の中で叫びながら、部屋の扉に手をかけたところで激しい疲労感がアリッサを襲った。がっくりと扉にもたれかかる。首から下げた護符の一つが砕け散り、破片がぱらぱらと床に落ちた。
歯を食いしばって扉を開け、転がり出ると、廊下に立っていた近衛騎士の二人が何事かと反応する。
「王の部屋に敵が!」
アリッサは叫んだ。
近衛騎士たちは一瞬戸惑って顔を見合わせたが、すぐに王の部屋に飛び込む。アリッサも立ち上がって後を追った。
部屋の中では、テイアランがベッドの上で上体を起こしていた。部屋の端には黒いローブに目元を覆面で隠した男がいる。顔は見えないがアベルではないとアリッサには分かる。テイアランの足元の布団は黒く焦げていて、煙を上げていた。そのせいか、ひどく焦げ臭い。
分かっていた事だが、アリッサが渡した護符は壊れてしまっていた。魔術に反応して、可能な限りの防御を行う護符だ。その防御のためにアリッサの魔力が自動的に引き出される。かなりの魔力が引き出されたため、アリッサは消耗したのだった。
並の攻撃魔術ではここまで疲労しない。そのうえ、護符は許容量を超えて壊れてしまった。敵はアルガン帝国の審問官、すなわち
震える足を抑えて踏ん張り、さっきまで暖炉の火で暖まっていたはずの冷たい手を振り上げる。青ざめた顔で敵の魔術師を睨んだまま、「陛下をこちらに」と近衛騎士に指示する。
敵の魔術師が呪文を唱えた。一秒の遅れもなくアリッサも呪文を唱え始める。部屋には二人の呪文詠唱の声だけが響く。
近衛騎士もテイアランも、二人の魔術師を交互に見るだけだ。
普通の人間の目には見えないが、アリッサと敵の魔術師はこの時、激しく戦っていた。
敵の魔術師が唱える呪文を、アリッサが全て
それに気付いた敵の魔術師は即興で呪文を組み換え、アリッサの裏をかこうとする。かなりの熟練者でなければできない芸当だが、アリッサはそれにも対応してみせた。
呪文を唱えながら両手を激しく振る二人の魔術師を見ていた近衛騎士の一人が、やっと我に返って、「陛下!」とテイアランの元に駆け寄る。テイアランもベッドから転げ落ちるように飛び出すと、近衛騎士の手を借りて立ち上がった。
指輪が再び振動した。二人目の魔術師が部屋の反対側で立ち上がり、アリッサは目を見開いた。二人目の敵が呪文と共に指先をテイアランに向ける。
間に合わない――しかし、警告の声を上げる余裕もない。
近衛騎士は何か直感めいたものが働いたに違いない。テイアランを庇うようにして頭を下げさせる。暖炉の明かりしかない部屋の中の薄暗を、閃光が直線となって切り裂いた。
その直線上にあったのはテイアランではなく近衛騎士の頭だ。指先ほどの太さしかない細い閃光が、ぴかぴかの立派な兜を貫通して、壁にまで黒い穴を穿つ。近衛騎士はガチャリと鎧を鳴らして床に倒れると、最後にびくんと痙攣した。頭に空いた穴から脳漿が漏れ出す。
二人目の魔術師は「ちっ」と舌打ちして、再び呪文を唱え始めた。
この危機に際して、アリッサの集中力はこれまでにないほど高まった。
「陛下!」
もう一人の近衛騎士に呼びかけられ、頭を貫かれて死んだ近衛騎士の死体を呆然と見つめていたテイアランは我に返り、死体を飛び越えて、アリッサたちのところに駆け寄った。近衛騎士はテイアランを素早く背後に庇い、後退する動きを見せた。その時、アリッサの指輪が振動して、三人目の魔術師が現れる。
集中しきっていたアリッサは驚きもせず反射的に、その魔術師の呪文にすら備えようとした。しかし、その三人目の魔術師は呪文を唱えなかった。ただ手を開いて前に出し、空中にある見えない何かを掴もうとするような動きをしただけだ。
そして瞬きの間に、三人目の魔術師はぴかぴかの立派な兜を掴んでいた。兜の下から、びしゃりと血液が床に落ちる。その兜には、中身があった。テイアランの前にいた近衛騎士は、首から上を失って、切断された首から血を吹き出しながら膝をついて倒れる。
三人目の魔術師は呪文も唱えず、近衛騎士の頭だけを手元に
「ア――」という一言がアリッサの口から漏れるのと同時に、二人の魔術師は〈
しかし、そうはならなかった。
何も起こらなかった。
「アリッサをいじめるやつがいる」
アリッサの背後から、もう一人の〈選ばれし者〉ドンドンの声がした。
「なんだ!?」
「どうなっている!?」
アルガン帝国の魔術師たちは激しく狼狽する。呪文が完成したのに発動しない。魔力をいくら呼び起こしても、どこかに消えてしまう。そのような経験はこれまで無かった事だろう。呼び出せる魔力の量は魔術師としての力に直結する大切な才能である。今まで誇ってきたものを失ってしまったようで混乱してしまうのだ。
初めて、〈暴食に選ばれし者〉ドンドンの力を前にした魔術師は皆そうなる。〈選ばれし者〉であるアベルでさえも驚きに目を丸くした。
ドンドンは怒りに目が眩んでいるのか、近衛騎士たちの死体も意に介さずアリッサたちの前に出ると、両手を広げて言い放つ。
「アリッサをいじめるやつは許さない!」
〈魔力感知〉の呪文を使っていなくとも、ドンドンから放たれる黒い光としか言いようのないものが見えた。
この機会を逃すわけにはいかない――アリッサは衝撃から立ち直って背後のテイアランに鋭く言う。
「陛下、お逃げ下さい!」
何が起こっているのか分かっていないであろうテイアランは、困惑の表情を浮かべたまま、振り向いて駆け出した。
それを見て最初に動いたのはアベルだった。現れた時と同じように手を伸ばしたが、何も掴んでいない。信じられないというように自分の手を見る。そして怒りに血走った目でアリッサを睨んだ。
「くそっ、こいつ……こいつも〈選ばれし者〉だ! こんな隠し玉があったなんてな。魔女め!」
「アリッサは魔女じゃない! 僕のお母さんになってくれた人だ!」
怒りに満ちてドンドンが反論する。
「黙れ、このデブ!」
アベルは叫んで手を突き出した。二人の〈選ばれし者〉の力が衝突する。
アリッサは迷った。ドンドンがこんなに力を解放するのを見たのは初めてで、このままでは何が起こるか分からない。しかし敵はドンドンの力に圧倒されている。これが最後の機会だと心に決めて、アリッサは必死に叫んだ。
「アベル、話を聞いて! 全て事情があるのよ! あなたが誰に何て言われたか知らないけれど、それは一方的な言い分のはずよ。お母さんの言い分も聞いて頂戴!」
アベルの目が憎悪に燃え上がる。
「二度と言うなと言ったはずだ。お母さんだと? 誰が、誰の、母親だと? 母親ってのはガキを産んだから母親なんじゃない。お前は母親らしい事を何一つしなかったじゃないか! 俺は待っていたんだぞ! お前がいつか来てくれるって、俺を守ってくれるって、信じていたんだぞ!」
アベルがそう叫んだ瞬間に、頭を光線で貫かれて死んだ近衛騎士の死体が血溜まりだけ残してパッと消えた。激高したアベルの力がドンドンの力を上回り、どこかに
二人の力の衝突が空気の渦を作り出し、部屋の中に竜巻のような暴風が吹き荒れる。
「たくさんの人が死ぬところだったのよ! 殺されようとしていたのよ! 彼らを助けるためにはやるしかなかった――」
暴風に翻弄されながら叫んだアリッサの言葉は、アベルの叫びにかき消された。
「ふざけるな、ふざけるな、ふざけるなぁっ! だから! それが! 俺を見捨てて他のやつを選んだって事なんだろうが!」
アリッサは愕然として、絶句した。
それは、その通りだった。どう言いつくろっても、アリッサがアベルを見捨てたというのは事実であった。その事を今更ながらアリッサは実感した。過去に戻ってやり直すか、過去を消し去るかでもしない限り、もう取り返しは付かないのだ。すでに選択はなされてしまったのだ。
「くっそがああああああ!」
アベルは叫んだ。それは憎悪だけではない、慟哭の叫びだった。そして他の魔術師二人と共にアベルは消えた。
アリッサはその場にくずおれて、「アベル……」と呟いた。涙が溢れてきて、ぽたぽたと床に落ちる。
アベルを置き去りにしてアルガン帝国を離れた時、アリッサは自分勝手に希望を残していた。ウィリアムとアベルが生き長らえて、いつか再会できるかもしれないと自分に言い聞かせていた。
その裏で、アリッサには分かってもいた。二人とも殺されてしまうだろうと。そして、二人は思い出の中で永遠に生き続けるのだとか、二人の魂はこれからもずっと一緒なのだとか、私の選択を誇らしく思ってくれているだろうとか――そういう言葉で自分を慰めてきた。
しかし今、アリッサは決定的にアベルを失った。
アリッサは激しく嗚咽を漏らしながら床に泣き崩れる。もういっそ、このままドンドンの力で消し去って欲しかった。そうはならず、ドンドンの柔らかくて暖かい、ぽっちゃりした手が肩に触れる。
「あんなやつ、アリッサの子供じゃないよ。アリッサは僕の……僕のお母さんになってくれたでしょ?」
しかしドンドンの言葉はもう、アリッサにとって少しの慰めにもならなかった。
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