4.テイアラン ―盟約暦1006年、秋、第12週―
部屋から逃げ出したテイアランは、困惑していた。
突然寝室に魔術師が現れた事や、魔術師同士の目に見えない攻防や、その流れ矢みたいなものであっけなく近衛騎士が死んだ事や、離れた所から一瞬で首をもぎ取れるような怪物が存在する事や――そして、どこに逃げればいいのかも分からないせいで。
王の寝室はレッドドラゴン城で一番安全なはずの場所だ。このうえ、どこに逃げれば良いというのか。
正しい判断かも分からないまま、テイアランは裸足でひたひたと回廊を走り、
アデリンの部屋の前を通り過ぎる。自分の部屋からは戦いが続いているらしい怒声が聞こえているが、この状況でアデリンは呑気に寝ているのだろうか。敵の狙いはテイアランの暗殺で間違いないが、アデリンが狙われないとも限らない。
一度は通り過ぎたものの、思い直してテイアランは戻った。王妃を残して逃げた、などと記録されては困る。アデリンの部屋の扉に手をかけると、施錠されておらず、僅かに開いていた。その意味について考える余裕は今のテイアランにはなく、彼は部屋の中に駆け込んだ。
「アデリン、無事か!?」
真っ暗な部屋の中に向けて呼びかけても返事はない。テイアランは闇の中を手探りに奥の寝室へ向かう。
そうしながらも――テイアランはアデリンを、本当に愛していなかった。
結婚してから一年も過ごせば、愛せるようになるだろうと思っていたし、愛そうと努力してきた。だが、無理だった。
すでに三五歳のテイアランにとって世継ぎは重要な問題となっていたので、王家に嫁げるような家柄の出身で、若く、よく子供を産めそうな娘という基準で選ばれたのがアデリンだ。
しかし、テイアランがアデリンを抱いたのは結婚式の初夜だけだった。彼女の身体はテイアランの美意識からすると醜くて気持ち悪い。自分よりも大きくてぶよぶよした柔らかい肉の塊は汗をかいて湿ってくると巨大なナメクジでも抱いているような気分になる。甘ったるい酒のような体臭にも吐き気がする。
いっそ、この騒動に巻き込まれて死んでくれたら――などという考えが頭を過ぎり、テイアランはすぐにその考えを頭から消す。
そのような事を考えてはいけない。
思ってもいけない。
なぜなら、テイアランは王なのだから。
寝室へ入ると、中には小さな明かりが残っていた。ほとんど燃え尽きた燭台に一本だけ残った蝋燭の灯りだ。テイアランはそれを手にとって寝室の中を照らした。部屋の中にアデリンの姿はない。ベッドは使われた形跡があるものの、触れると冷えていた。
「アデリン、いないのか?」
もう一度、呼びかけてみても反応は無く、思い切って便所を開けてみたが姿はない。
寝室の奥にはもう一つ、小さな扉がある。その先は短い通路があって、テイアランの寝室と繋がっている。そこに隠れている可能性もあるが、扉を開いて確かめる勇気はなかった。あの恐ろしい魔術師が、今にもその通路からこちらに向かってきているかもしれないのだ。
再び恐怖が湧き起こり、すぐにこの場を離れなければと、テイアランは踵を返して回廊に戻った。
回廊に出れば正面にある中庭と、その向こう側の部屋が目に入る。そこにはブランが泊まっている。
(そうだ、ブランは!?)
テイアランは裸足のまま中庭に駆け出し、腰の高さまである生垣を一気に飛び越えた。
この中庭はテイアランが子供の頃から良く知る場所で、今でもステンタールと剣術の訓練をするために毎朝訪れている。高さの異なる生垣や、蔦の絡まる壁によっていくつかの区画に仕切られ、それぞれに季節の花が植えられていた。ハナミズキやベリーの低木がある区画、小さな噴水のある区画、意匠を凝らした小さなテーブルと椅子のある区画などがあり、隠れる場所も多い。
一際大きな音と振動が自分の部屋から響いて、テイアランはびくりとして反射的に身を伏せた。
この騒ぎにステンタールは何をしているのだ、という怒りが湧き起こる。魔術師が現れてから僅かな時間しか経っていないが、すぐにでも飛んでくるのが〈王の騎士〉たるステンタールの役目ではないのか、と。
姿勢を低くして、できる限り身を隠したまま、テイアランは中庭を横断した。両手、両足が土に汚れる。そんなのは子供の頃以来であった。
「テイアラン王陛下!」
身を低くして中庭を進むテイアランは、突然、頭上から呼びかけられて、驚きのあまり心臓が止まってしまうかと思った。目を見開き、驚愕の表情を隠すこともできずに見上げると、回廊の屋根の上に誰かいる。
「お助けします、陛下。これを使って上へ」
声の主はそう言って、縄梯子を投げ落とした。
「だ、誰だ!?」と、テイアランは問う。
「あなたをお助けに参った者です。さあ、早く!」
「顔を見せて名を名乗れ。でなければ去れ」
テイアランがはっきりそう言うと、声の主は一瞬、躊躇った。そしてフードと覆面を外して顔を晒す。
「私の名前はトーニオです。陛下、私を信じて!」
しかし、テイアランは騙されなかった。相手の顔と声を名前に結びつけて覚えるのは、王にとって必要な技能だ。たとえ夜の闇の中でも、トーニオと名乗るその男がエリオ・テッサヴィーレであることは、テイアランには一目瞭然だった。
ばりばりと壁の裂けるような音がテイアランの部屋から聞こえる。次々と襲ってくる恐怖に、もうテイアランはなりふり構っていられなくなり、立ち上がって駆け出した――ブランの部屋に向かって。
「駄目です、陛下!」
エリオの声が降ってきたが、テイアランは全力で走る。
やはりエリオは暗殺者として送り込まれていたのだ、とテイアランは確信した。テイアランが魔術師から逃れた場合に、息の根を止めるのがエリオの役目に違いない。
(助けるふりなどして、騙されるものか)
信用できるのはブランしかいない。頼りになるのはブランしかいない――そして部屋への扉がある通路に飛び込んだテイアランの目の前に立っていたのは、この場で唯一信頼できるブランその人だった。
「ブラン!」
テイアランは思わずすがるように声を上げた。
ブランは鎧を着けておらず、上半身は裸で下着姿だった。手にはナイフを持っている。後ろからエリオが追いかけてきているかもしれないので、テイアランは警告した。
「暗殺者だ。魔術師だ。エリオだ!」
事情を知るはずも無いブランは面食らったような顔をして、それから状況を理解したのか、ニヤリと笑って「そうか」と言った。
テイアランはブランの前まで来て、その逞しい胸に手を付く。汗で湿っているが、アデリンのような気持ち悪さは無い。呼吸を整えながら、なぜアデリンの名が出てくるのかと疑問に思う。微かに、甘ったるい酒のような彼女の臭いがしたからか。
しかしそれ以上は考える余裕もなく、通路を振り返りながら言った。
「エリオが追ってきているかもしれな――」
ズン、という衝撃と共に硬くて鋭い刃が胸に刺し込まれた。それは心臓に到達して、正常に鼓動するのを妨げる。
信じられない、という顔でテイアランはブランを見た。
「すまんな。大地の神に誓って言うが、お前の事は嫌いじゃなかった。神がこのような好機を与えなければ、友達でいられたのにな」
ブランはそう言って、ぐい、とさらに刃を押し込む。
「な……ぜ……」
それが、テイアランの最後の言葉になった。
「まあ、遅かれ早かれ、だったのかもしれんな。テストリア大陸に王は一人でいい、という事だ」
たくさんの記憶と思い、疑問と感情の奔流が一つに混ざり合いながら消えていく混乱の中で、テイアランはただ、歴史書を書くであろう誰かに向かって願った。
〝テイアラン四九世はブラン上位王の卑劣な裏切りによって暗殺された〟
そう、はっきり明記してくれ――と。
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